開目抄の指導原理について

【開目抄の指導原理について】1/31  投稿者:大仏のグリグリのとこ  投稿日:2014年12月26日(金)10時39分54秒

  一つの信仰に踏み切るには、直接の動機や、

そこに至るまでの数々の要因というものが誰においても考えられます。


創価教育学会初代会長・牧口先生は、教材のセールスマンの会話をきっかけに、

日蓮正宗の末寺・常在寺の大石講の幹部であった三谷素啓(みたに そけい)を知り、

日蓮仏法への眼を開かれました。


三谷は昭和四年十一月七日に弾正社刊から「立正安国論精釈」という著書を出しています。


牧口先生と三谷の一対一の対話は、三谷の立正安国論講義を中心に、

宗教論、社会改造論等、十日間も続いたといいます。


その対話で、厳格な実証主義的な生き方を貫いてきた、

牧口先生の心をとらえて、離さなかったのは二つあると思います。


一つは、釈尊が説いた滅後の仏法変遷の予言が、日蓮大聖人によって実証されたということ。


二つ目は、日蓮大聖人が明かした「立正安国論」についてです。


正法に基づく人間の変革を中心に、社会変革や国土の繁栄を実現していくという

変革のあり方は、教育改造による新しい人間の輩出をバネに、

社会の改造を志向していた牧口先生の意図よりも、より根源的なものだったからです。


仏法が決して人生の実生活と無意味なものではなく、むしろ万人を幸福にしていくものであり、

釈尊と日蓮大聖人の関係が、二千年の時を越えた必然的因果関係として、

納得できたからこそ、牧口先生の心が「信仰してみよう」という方向に動いたといえるでしょう。


大聖人の生き方は、現実から逃避したり、現実に埋没するような態度ではなく、

あくまでも現実を直視し、その現実の苦悩をどう創造的に変革していくかというところに、

その基本姿勢があります。


長年、学校教育の現場にあった牧口先生は、

一部の権力者の横暴によって「子供の幸福」を第一義におくべき学校教育の場が、

踏みにじられることに強烈なまでの信念をもって抵抗してきました。


【開目抄の指導原理について】2/31  投稿者:大仏のグリグリのとこ  投稿日:2014年12月26日(金)10時40分42秒

  牧口先生は、単に仏法思想の偉大さに胸をゆすぶられたのではなく、

それを自らの行動で実証し、民衆の幸福と社会の繁栄を実現しようとした

日蓮大聖人の行き方に、七百年の時を越えてダイレクトに牧口先生の心に共鳴したのだと思います。


その日蓮大聖人の仏法思想に「目を開け」と教え呼びかけているのが

「教の重」と言われる「開目抄」です。


この開目抄で、大聖人が一番訴えたかったことは

「此の文の心は日蓮によりて日本国の有無はあるべし」(九一九頁)


――この開目抄の心は、日蓮の主張を聞くか聞かないかで、

日本(世界)の繁栄か、滅亡かが決まってしまう――ということでした。


開目抄の論理構成は、「テーマ」「解釈」「結論」の三つの論点で展開されていきます。


開目抄全体に貫かれている最大のテーマは

「一切衆生の尊敬すべき者三あり。所謂、主師親これなり」(一八六頁)です。


まず大聖人は、外典(儒教道教)と仏典(一切の仏教)からそれらを考察され、

法華経に説かれる諸難について、経文と大聖人の行動とが符合(身読)している事実を説明し、

日蓮こそが末法の法華経の行者であると論証していきました。


ちなみに、伊豆流罪期に著した「教機時国抄」には、

法華経の行者の定義が述べられています。


それは「三類の敵人を顕さずんば法華経の行者に非ず。之を顕すは法華経の行者なり」(四四二頁)


――三類の敵人を顕しそれと戦った者が、真実の法華経の行者なのだ――というものです。


【開目抄の指導原理について】3/31  投稿者:大仏のグリグリのとこ  投稿日:2014年12月26日(金)10時41分32秒

  開目抄では「法華経の行者あらば必ず三類の怨敵あるべし。

三類はすでにあり、法華経の行者は誰なるらむ、求めて師とすべし」(二三〇頁)


――真実の法華経の行者は、必ず三類の強敵に迫害されると経文に説かれている。

日蓮はその経文通り、すでに三類の強敵に迫害され勝ち抜いた。

真実の法華経の行者は誰なのだ。その人を師匠としていけ !――と弟子に叫ばれました。


三類の強敵と戦い抜く法華経の行者こそが、

悪世末法の人々を救済する「真正の師」であるとの結論です。

障魔と戦える人のみが「末法の師」なのです。


さらに「日蓮は日本国の諸人にしうし父母(主師親)なり」(二三七頁)


――日蓮は日本(世界)の人々にとっては、

主師親の三徳を体現した根源の師匠なのだ――と結論します。


つまり、大聖人は伊豆流罪から佐渡流罪という

権力者の弾圧がもっとも激しい佐渡期において、

ついに法華経身読を通して「主師親の三徳」を体現したという自覚に立ったのです。


これが日蓮大聖人の発迹顕本です。


大聖人は、相次ぐ大難に耐えながら、

仏界の生命を凡夫のわが身に開き、顕されていきました。


そして、自らの生き方や実践を手本として全民衆に提示し、

万人に弘めゆく方途を確立されたのです。


これが「法体の広宣流布」の成就です。


民衆に仏の境涯を得させようとの一念は、大聖人の大慈悲の現れです。

この大慈悲こそ、私たちが大聖人を「末法の御本仏」と仰ぐゆえんです。


そしてまた、この大聖人の発迹顕本や大慈悲に目を開き、

大聖人を手本として、開目抄を身読したのが創価三代の大師匠なのです。


【開目抄の指導原理について】4/31  投稿者:大仏のグリグリのとこ  投稿日:2014年12月26日(金)10時42分19秒

  如説修行抄には

「真実の法華経の如説修行の行者の師弟檀那とならんには三類の敵人決定せり」(五〇一頁)


――真正の法華経の行者の弟子には、必ず三類の強敵の迫害が競い起こる――と述べられています。


大聖人ご在世の時代、

「我が弟子等の中にも、兼て聴聞せしかども大小の難来る時は今始めて驚き、肝をけして信心を破りぬ」(同頁)


――わが弟子の中にも、

常日頃から「必ず難がある」と言っているにもかかわらず、

いざ大小の難が来た時は、臆病になり、恐怖に震えて、

師匠の言うことを信じないで、信心を止めてしまう――とあります。


事実、大聖人も

「御勘気(佐渡流罪)の時、千が九百九十九人は堕ちて候」(九〇七頁)と表現したように、

師匠が三類の強敵と戦っているときに、退転していく弟子門下が続出しました。


その人の信心の本質や、

師匠に対する姿勢というものは、平常の時はわかりにくいものです。


しかし、ひとたび三類の強敵が姿を現し、仏敵との闘争が開始された時に

「本物か偽物か」が峻厳に分かれていきます。


にせ者の心根にあるものは「仏法と世法」との判断基準を、

どちらに置いて生きているか、という人生観の違いです。


佐渡流罪期、弟子門下が退転に向かっていったのは、

世間的幸福を失ってまで、大聖人の説く仏法を実践するつもりも、

師匠と共に運命を共にするという覚悟もなかったからにすぎません。


これは、釈尊の時代も、大聖人の時代も、現代も、永遠に変わらぬ方程式であり原理です。


いったいこの開目抄には、何が説かれているのでしょうか。

仏弟子を退転に向かわす「三類の強敵」の正体とはどういうものなのでしょうか。

開目抄には、その三類の強敵について詳細に描かれています。

それらも含めて開目抄を皆さんと共に見ていきたいと思います。


【開目抄の指導原理について】5/31  投稿者:大仏のグリグリのとこ  投稿日:2014年12月26日(金)10時43分34秒

  先程、この開目抄は三つの論点で展開され、

「法華経に説かれる諸難について、経文と大聖人の行動とが符合(身読)している事実を説明し、

日蓮こそが末法の法華経の行者であると論証して」いくと述べました。


そもそも大聖人以前の「法華経の持経者(信者)」たちの実践法は、

法華経『法師品』の「妙法蓮華経の乃至一偈を受持・読誦・解説・書写し、

此の経巻に於いて敬い視ること仏の如く」(妙法蓮華経三五五頁)を実践することでした。


しかし、大聖人はまったく別の方法でその命題を解きます。

それは「法華経身読(身で読む)」という実践法です。


そして、法華経の「不軽品」と「勧持品」を実践の要に置きました。

その中に「折伏弘教・三類の強敵」が書かれているのです。


大聖人がこの立場に立つ以上、大難は避けられず、

三類の強敵との闘争は、むしろ当然だったのです。


わが身に競い起こる難が、経文のどれに当たるかを分析し、

受難の中で弟子たちを育成していきました。


そして、いくつもの難を乗り越える実践の中で、

南無妙法蓮華経の偉大な力用を証明し、受難を通して

「法華経の持経者(信者)」から「法華経の行者」へと、自らを位置づけていきました。


開目抄に

「已上、五箇の鳳詔(ほうしょう)にをどろきて勧持品の弘経あり、明鏡の経文を出して」(二二三頁)


――以上、五つの仏勅によって目覚めた菩薩たちは、

勧持品において法華経を弘めることを誓ったのである。

明鏡である勧持品の経文を出して――とあります。


これは、大聖人が末法の法華経の行者であるということを論証するために、

経文を明鏡として展開しているところです。


『五箇の鳳詔』とは、

見宝塔品の「三箇の勅宣」と、提婆達多品の「二箇の諌暁」のことで合わせて「五箇」とします。


「鳳詔」とは、天皇の言・仏の金言という意味です。


【開目抄の指導原理について】6/31  投稿者:大仏のグリグリのとこ  投稿日:2014年12月26日(金)10時44分23秒

  大聖人は、この見宝塔品・提婆達多品・勧持品を実践し

身読したことによって、法華経の行者であることを証明しました。


では、この三品(見宝塔品・提婆達多品・勧持品)の内容を見ていきたいと思います。


まず、見宝塔品の「三箇の勅宣」ですが、

これは釈尊滅後における法華弘通を、菩薩たちに三回、促したことです。


釈尊はこの品の中で、会座の大衆に向けて滅後の弘通を呼びかけます。

多宝如来もまた、大誓願をもって叫ばれ法華経の弘通を促しました。


これらの呼びかけに応じて、

末法広宣流布の誓願(三箇の勅宣に示された仏意)を、

大聖人は実践と身読によって成就していくのです。


次に提婆達多品の「二箇の諌暁」ですが、

提婆達多を代表とする「悪人成仏」と、

竜女を代表とする「女人成仏」の二つの法門のことを「二箇」といいます。


この二つの法門を説いたことによって、

万人を救う法華経を、末法の世に必ず広宣流布せよ、と

菩薩たちに諌(いさ)め、暁(さと)したので「諌暁」と言われているのです。


爾前経では明かされていなかった悪人成仏と女人成仏が、

明確に説き明かされたことは、法華経こそが、

悪世末法に生きる全民衆の成仏を実現する、

唯一の大法であることを宣言したことになります。


ここに「法華経の真価」があるのです。


今まで救いの対象とされなかった最も不幸な人たちを救わずして、

末法の民衆救済はあり得ません。


この釈尊の呼びかけに呼応して、仏意を実現する人こそ末法の法華経の行者の証なのです。


【開目抄の指導原理について】7/31  投稿者:大仏のグリグリのとこ  投稿日:2014年12月26日(金)10時45分23秒

  また、この「二箇の諌暁」について、大事なことが三つあります。


一つ目は、

爾前経で成仏からもっとも遠いとされていた一闡提である悪人に、

成仏が約束されたことと、社会的にも宗教的にも差別されていた女人の成仏が約束されたことです。


これによって、法華経が

「悪世に生きる一人一人の成仏の道を開く経典」であることが明らかになりました。


「一闡提」とは、簡単にいうと悟りを求める心がなく、成仏する機縁をもたない衆生で、

正法を信じないで誹謗し、誹謗の重罪を悔い改めない者のことです。


これは会員であるないは関係ありません。


「阿羅漢に似たる一闡提有つて悪業を行ず」(二二五頁)


――たとえ学会員と名乗っていても、求道心がなく、

境涯革命できるチャンスがあっても、その挑戦を避けて御本尊や学会に文句をいい、

そのくせ困った時だけ、今までの自分の行いを反省することもなく、

御本尊にすがり、自分のために会員を利用する――こういう人も一闡提といえるでしょう。


二つ目は、

万人の成仏を実現する法理的裏づけとしての「一念三千の成仏」です。

これは法華経にしか見られない法理です。


一念三千の成仏とは、すべての人々の生命(十界)に備わる仏界を開く成仏のことです。

いわゆる仏界即九界、九界即仏界という原理です。


その変革の力として、極悪をも極善に転換しうる「変毒為薬」の可能性(悪人成仏)が示され、

凡夫の身を改めずに成仏する「即身成仏」の現証(女人成仏・竜女)が明かされました。


法華経の行者とは、自らが「一念三千の成仏を体現した人」ということでもあるのです。


三つ目は、

悪世に生きる人々を一人も残さず成仏させるという

「悪人成仏」と「女人成仏」が説かれたことによって、

すべての父母の成仏の道が開かれたことです。


大聖人は、法華経こそ

「父母への報恩」を可能にする「内典の孝経」(二二三頁)であると述べていることです。


仏法哲学に裏づけられた報恩の心と実践は、

人間社会の基盤であり、相互理解の信頼の絆にもなります。


法華経の行者とは、

社会の平和と繁栄を築くための根本の戦いを貫く「立正安国の実践者」なのです。


これが「五箇の鳳詔」の意義です。


【開目抄の指導原理について】8/31  投稿者:大仏のグリグリのとこ  投稿日:2014年12月26日(金)10時46分9秒

  大聖人は、五箇の鳳詔を述べた後、続いて勧持品の「二十行の偈」を考察していきました。


そしてそこに登場する「三類の強敵」との戦いを勝ち抜いた日蓮こそが、

法華経の行者なのだと結論づけていきました。


この五箇の鳳詔の二品(見宝塔品・提婆達多品)は「師匠の勅命」であり、勧持品は「弟子の誓い」ともいえます。


勧持品を考察する冒頭で、大聖人は「竜口の法難」の意義を表明します。


では本文です。

「日蓮といゐし者は、去年九月十二日子丑の時に頚はねられぬ。

此れは魂魄・佐土の国にいたりて、返年の二月、雪中にしるして有縁の弟子へをくれば、

をそろしくて、をそろしからず、みん人いかにをぢぬらむ」(二二三頁)


――日蓮と名乗った者は、去年の九月十二日(竜口の法難)深夜、子丑の時に首をはねられた。

これは、魂魄が佐渡の国に至って、明けて二月、雪の中で開目抄を記し、縁ある弟子に送るのであるから、

ここに明かす勧持品に説かれる難は恐ろしいようであるが、真の法華経の行者にとっては恐ろしいものではない。

しかし、これをわからず経文を見る人は、どれほどおじけづくだろうか――というものです。


ここで「首をはねられた」と表現していますが、

実際に大聖人は首をはねられたわけではありません。


権力者は大聖人の首を斬ろうとしましたが、結果として斬ることができなかったのです。


ここは非常に重要なところなので、もう少し話しを続けます。


自分の命が奪われる「処刑場」という恐怖の極限の中で、

大聖人がもっとも重視したことは、

たとえわが身が殺されようとも、日蓮のつかんだ「正義」は手放さない、

絶対に民衆を救済するという「誓い」だけは手放さないという信念です。


「大難出来すとも、智者に我義やぶられずば用いじとなり」(二三二頁)という一念です。


まさに、勧持品に説かれる三類の強敵を打ち破った境地を示されたところです。


その境地に立って竜口の法難以降、広宣流布の指揮を取られていくのです。

これが日蓮大聖人の発迹顕本です。


【開目抄の指導原理について】9/31  投稿者:大仏のグリグリのとこ  投稿日:2014年12月26日(金)10時46分54秒

  ちなみに竜口の法難(発迹顕本)は、文永八年(一二七一年)九月十二日ですが、

創価学会の「教学の日」の制定は、竜口の法難と同じ九月十二日です。


学会教学の原点は、日蓮大聖人の「発迹顕本」にあるといっても過言ではないと思います。


さて、十一月の初めに佐渡に到着されてから直ちに構想された「開目抄」が、

二月に完成し弟子門下に送られます。


「をそろしくて、をそろしからず」

――恐ろしいように見えるが、本当は何も恐ろしいことはない――


経文に示されている通り、どんなに恐ろしい障魔の大難であっても、

不惜身命の覚悟で広宣流布に立ち上り、すべての障魔に勝ち切られた大聖人の境地からみれば、

何も恐れる必要はないということなのです。


しかし、不惜身命の覚悟に立てず、師匠の指導を忘れ、何かあるとすぐに疑い、

臆病で退転しそうな弟子たちにとっては「みん人いかにをぢぬらむ」となります。


つまり、勧持品の「三類の強敵」の経文を覚悟もなく見れば、

どれだけ恐ろしいと思うだろうかと弟子たちを心配されているのです。


私たち会員に置き換えれば、組織の官僚的な幹部に対して、

何も言えず、抵抗すれば「職場を追われ、家族は路頭に迷うことになる」と、

わが身の保身だけを考えている一部の学会職員や、形式だけの会合運営に馴らされ、

現場の意見を執行部に進言しようとしない一部の臆病な幹部。


また、内実の伴わない結果だけを地区に求め、

我見の指導をする幹部を見ながら、それと戦おうとしない一部の会員。


人間の心に潜む臆病は、それ自体が生命に宿る一つの病気であり魔に食い破られた姿です。

そして、いつしか生命力も智慧も失ってしまい、ついには敗北の人生に転落していく。


結局、師匠と同じ覚悟に立たなければ、自身の生命が魔に食い破られる――。


大聖人は絶対そうであってはならないのだという戒めの言葉なのだと思います。


【開目抄の指導原理について】10/31  投稿者:大仏のグリグリのとこ  投稿日:2014年12月26日(金)10時47分58秒

  開目抄には

「我が弟子に朝夕教えしかども疑いををこして皆すてけん。

つたなき者のならひは約束せし事を、まことの時はわするるなるべし。

妻子を不便とをもうゆへ現身にわかれん事をなげくらん。

多生曠劫にしたしみし妻子には心とはなれしか仏道のためにはなれしか、いつも同じわかれなるべし。

我法華経の信心をやぶらずして霊山にまいりて返てみちびけかし」(二三四頁)


――弟子に何回もそのことを教えているのに、愚かな弟子は「いざ」という時に忘れてしまう。

妻子や家族をふびんと思うゆえに、現実の大難で妻子と別れることを歎いているであろう。


しかしよく考えてみよ。

無始以来いつも生まれてきては、親しんでいた妻子とわが心に予期してみずから別れたのか、

それとも仏法のために別れたのか、いつも同じ別れではないか。


今生において、まず自分が法華経の信心を最後まで破らずに即身成仏し、

その境地に立って妻子を導きなさい。これこそ真にわが身も妻子も家族も、

絶対に幸福になる唯一の道ではないか――とある通りです。


続いて、

「此れは釈迦・多宝・十方の諸仏の未来、日本国当世をうつし給う明鏡なり、かたみともみるべし」(二二三頁)


――この勧持品は、釈迦・多宝・十方の諸仏が、未来の日本国の今の世を映された明鏡である。

師弟不二の形見の書と見るべきである――と訴えています。


開目抄全体に貫かれている精神は「師弟不二の誓願に立て」ということなのです。




・・・・・・明日につづく。


【開目抄の指導原理について】11/31  投稿者:大仏のグリグリのとこ  投稿日:2014年12月27日(土)08時50分27秒

  竜口の法難の意義を語られた後、大聖人は「勧持品」について詳細に語られていきます。

ここで「勧持品」全体の内容を見ていきたいと思います。


最初に菩薩たちの誓願が語られ、他の菩薩たちも次々に決意を述べます。

そして、三類の強敵について「二十行の偈」としてその本質に言及していくのですが、

これらはいずれも菩薩たちの誓いの言葉として語られています。

そして、具体的に迫害の構図を示し、再び弟子たちの決意で終了します。


では本文です。

「勧持品に云く、唯、願くは慮したもうべからず。

仏滅度の後、恐怖悪世の中に於て我等当に広く説くべし・・・・

諸の無智の人の悪口罵詈等し及び刀杖を加うる者有らん。

我等皆、当に忍ぶべし」(二二四頁)


――世尊、どうか心配しないでください。

仏が入滅された後、私たちが必ずこの法華経を持ち、説いていきますから・・・

その時、人々は善根が少なく、慢心が多いためになかなか教化できないでしょう。

でも私たちは、勇敢に耐え忍び、身命を惜しまず法華経を語り抜いて参ります――

という弟子の決意から始まります。


弘教が困難な娑婆世界でこそ命を惜しまず戦おうという「不惜身命」が語られ、

続いて他の多くの弟子たちも次々と決意を述べていきました。


しかし、後に続いた彼らの決意と、

最初の弟子たちの決意には決定的な違いがあったのです。


最初に決意を述べた弟子たちは、釈尊の教え通り「この娑婆世界で戦う」と決意します。


ところが後に続いた他の弟子たちの決意は

「娑婆世界は人心が乱れていて、やりにくい。他の国土でがんばります」と述べたのです。


つまり、慢心を懐き、徳が薄くて、怒りっぽく、心がひねくれて曲がっているから――

と娑婆世界の人々の欠点を並べていきました。


この部分を天台は

「初心者の菩薩だから、このような悪人ばかりがいる悪世の弘教には耐えられないのだ」と解説しています。


「他の国でがんばる」というのは、

人間誰もが持っている「大変な所は避けよう」という逃避の一念の表れです。


【開目抄の指導原理について】12/31  投稿者:大仏のグリグリのとこ  投稿日:2014年12月27日(土)08時51分15秒

  私たちに置き換えてみれば、

「夫が信心しない」「子供が信心しない」「自分の問題に向き合うのは辛い」――

だから学会活動だけに専念してがんばろう。


そうすれば、それらに向き合わなくても、

いつかは解決しているだろうという「逃避」の一念です。


御書には「此を去つて彼に行くには非ざるなり」(七八一頁)とあります。

自分の足下である家族の課題や、自身の悩み、

それらと向き合うのは確かに辛くて苦しいかもしれません。


しかしその問題解決のために、真正面から向き合い、

具体的に取り組まなければ、本当の宿命転換はありません。

それらは、自分の悩みを避け、挑む勇気がないから学会活動に逃げているだけなのです。


池田先生は

「困難から逃げ、鍛えを避けるところには、決して向上も成長もない。

これは、まさに大聖人の御自身の体験に基づく大確信であり、成仏の修行の永遠の真実です」

(池田大作全集三十二巻)と指導されています。


またこの二つに代表される「弟子の決意」は、

見方を変えれば「総論と各論」の関係と取れなくもありません。


学会でいえば、大勢を相手にした会合だけでは、

全員が心の底から納得し、決意することは難しい。

だからこそ一人一人への細やかな配慮と激励が重要なのです。


むしろ、それが「主」です。

そのための組織が「従」です。


学会はこの原則を貫いてきたからこそ大発展したのだと思います。


牧口先生は「信者ではなく行者であれ」(池田大作全集二十九巻)と叫ばれ、

池田先生は「一部の聖職者が権威を独占し、信徒はその権威に従属していくという伝統教団の在り方では、

二十一世紀を目前にした現代社会にはとうてい適応できないことは確か」(同巻)と指導されました。


さらに弟子の決意は続きます。

「もし師匠が我々に、法華経を持ち弘めよとご命令になったら、

世尊の教え通りに、この法華経を弘めよう」(妙法蓮華経四一六頁)――と。


ところが世尊は黙然として黙っています。何も命令はしない。

我々はどうしたらいいんだと弟子たちは戸惑ってしまいます。


ここで弟子たちは心に決めるのです。

「世尊のお心にお応えしよう。自身の本来の願いに生きよう」(妙法蓮華経四一七頁)、


そして声を出して誓います。

「私たちは世尊が入滅された後、悪世の中で、十方世界に、この法華経を弘めてまいります」(同頁)


――広宣流布のためなら何処でも行く――。これが師弟不二の行動です。


【開目抄の指導原理について】13/31  投稿者:大仏のグリグリのとこ  投稿日:2014年12月27日(土)08時51分58秒

  次に大聖人は、三類の強敵の大要を勧持品から引用し、

迫害者の具体的な様相や、迫害内容を明らかにしていきます。


後に妙楽大師は、この「二十行の偈」を三つに分類して、

第一に「俗衆増上慢」、第二に「道門増上慢」、第三に「僣聖増上慢」としました。


「記の八に云く、文に三初に一行は通じて邪人を明す即ち俗衆なり。

次に一行は道門増上慢の者を明す、三に七行は僣聖増上慢の者を明す」(二二四頁)というものです。


勧持品の経文には、

俗衆増上慢は「無智」

道門増上慢は「邪智」

僣聖増上慢は「悪心」

ゆえに迫害を起こすとあります。


これは元品の無明の発動に「無智」「邪智」「悪心」

の三つの段階があることを示していると見ることも可能です。


仏法に「無智」の者は、「邪智」「悪心」の者たちの扇動に乗りやすい。

だから無智の敵対者は、法華経の行者に対して直接、悪口罵詈をします。


また、無明を「邪智」として現す敵対者は、ひとたびは出家して仏道を求めますが、

自身の理解した教えを絶対化し、それのみが正しいという邪智を起こすのです。


特に、万人が成仏できるという法華経は、

自分が信じる仏の絶対性を落すように見えて認めることができない。

そのため、さまざまな形で法華経の意義を低めていこうとします。


そうした出家者たちが、万人成仏の法を正しく弘める法華経の行者に、

強い憎しみを抱くようになるのです。


最後は、無明を「悪心」として発動させる敵対者です。

この悪心は「権力の魔性」に近く、自分の欲望を満たすために

宗教的権威を利用しようとする「大慢心」とも言えます。


経文に、僣聖増上慢は自分の権威を誇って「人間を軽賤する」とありますが、

この心こそ、生命尊厳を説く法華経と対極にある生命です。


ゆえに法華経の行者に対する憎しみは強く、ありもしない過失を捏造し中傷するのです。

そして、無明が深いがゆえに、悪心の者は手段を選ばない魔性の権化と化します。

ゆえに僣聖増上慢は、迫害の元凶になるのです。


【開目抄の指導原理について】14/31  投稿者:大仏のグリグリのとこ  投稿日:2014年12月27日(土)08時52分38秒

  大聖人は開目抄の中でこの経文を、

当時の宗教界に引き合わせて詳細に「三類」の正体を暴いていきました。


では、その「三類」の特徴を見ていきたいと思います。

「諸の無智の人の悪口罵詈等し、及び刀杖を加うる者有らん。我等皆当に忍ぶべし」(二二四頁)


――仏法を知らない多くの人々が私たちを非難し、ののしり、刀や棒で打つ者があるでしょう。

私たちは皆、それを必ず耐え忍びます――


これが第一の「俗衆」です。


大聖人はこれを、

「第一の有諸無智人と云うは、経文の第二の悪世中比丘と第三の納衣の比丘の大檀那等と見えたり。

随って妙楽大師は『俗衆』等云々、東春に云く『公処に向かう』等云々」(二二六頁)


――もろもろの無智の人あってというのは、第二の「悪世の中の僧」と

第三の「高僧(位の高い僧)」の教えを信じている大檀那(布施をしている信者)のことである。

妙楽大師はこれを「俗衆」と名づけ、その弟子の智度法師は「役所(役人)に従う」――と述べました。


これを学会に引き合わせると、

組織が打ち出す方針や指導性を、ただ盲目的に信じ、自分では何も考えない、

いわゆる「権威への盲従」とも言うべき無智な幹部や会員のことです。


このような人は、役人(権威者)に弱く、正邪を判別する力がなく、

自らは真実を見極めようとしない。


ただ権威によりかかってそれを利用し、権威主義、形式主義に支配されて、

師匠の指導を忠実に実践している弟子を迫害してしまうのです。


【開目抄の指導原理について】15/31  投稿者:大仏のグリグリのとこ  投稿日:2014年12月27日(土)08時53分21秒

  俗衆の一例をあげると、小説『新・人間革命(広宣譜二十六)』に


「支部長・婦人部長が、全支部員の皆さんと、

強い信頼の絆に結ばれていくならば、学会は磐石です。

最後は人と人との結びつきです。・・・・

支部長・婦人部長が、支部の皆さんから、友人たちから、

『あなたのことは信頼できる ! 私はあなたを信じる』と言われるようになれば、すべて磐石です。

つまり、自分のなかに創価学会がある。

自分への信頼の輪が、広宣流布の広がりであるとの確信に立ってください・・・・

また『共に築かん』とは、同志の団結です。

どこよりも仲良く、楽しく、団結を誇る支部にしてください(抜粋)」との指導があります。


権威的な支部長は、この「同志の団結」だけを強調し、

本人は会員に信頼されていないのにそれを改めようとはしない。


そのくせ権威的な組織運営の在り方を注意されると

「団結を乱す者」としてレッテルを張り、組織の意向に従わせようとする。

これらは師匠の指導を利用し権威を利用した典型です。

これは実際に、私が見聞きした事実です。


そもそもこの指導の主旨は

「同志の団結」の要諦は、支部幹部と会員の強い信頼関係の構築が大前提です。

会員が支部幹部に対して、全幅の信頼を寄せているという人と人との絆が絶対条件です。


この条件が成立して始めて支部の「同志の団結」が生まれ、

団結を誇れる支部が構築され、学会が磐石になるのです。


わかっていない幹部に、そのことを強く責め、指摘するや、たちまち俗衆たちは怒り出し

「支部の団結を乱すな」「支部長に謝れ、何様のつもりだ」「文句ばかり言うな」等と

無智な幹部や会員は、言論の暴力を加えて厄介者扱いしてきます。


ひと口に「言論の暴力」といいますが、悪口罵詈は、一回や二回なら耐えられます。

しかし、大勢の人々から絶えず悪口罵詈されたとしたら、その圧迫は相当なものです。

これは直接、被害を受けた人でなければ、わからないと思います。


しかし、それでもその圧迫を跳ね返し、

悠然と会員を包容しながら戦っていく闘士が、真正の弟子なのだと思います。


【開目抄の指導原理について】16/31  投稿者:大仏のグリグリのとこ  投稿日:2014年12月27日(土)08時54分18秒

  俗衆増上慢は、仏法の高低浅深については何も知りません。

それなのに、これらの無智な人間が、真正の弟子に迫害を加えるのは

第二(道門)、第三(僣聖)の幹部に扇動されているからなのです。


だからこそ、民衆を、会員を、賢明にする以外にないのです。


本来、学会幹部の役割は、どんなにわからず屋の会員でも、

忍耐強く見守り、正しい信心に導いていくのが使命であり、誓いであったはずです。


しかし、その誓いを忘れてしまったのが、次の増上慢です。


「悪世の中の比丘は、邪智にして心諂曲に未だ得ざるを為れ得たりと謂い、我慢の心、充満せん」(同頁)


――悪世の中の僧は、邪な知恵があり、心が曲がっており、

まだ悟りを得ていないのに悟ったと思い込んで、自分に執着する心が充満している――


これが第二の「道門」です。


これは仏教教団の出家者であり、

その特徴は「心が諂曲(てんごく)」であるということです。


「諂曲」とは、強い者に対しては、自分の考えを曲げて、へつらい、ぺこぺこする。

弱いとわかると威張る生命です。


これも学会に引き合わせて考えると、

道門とは会員の尊い浄財で生計を営んでいる本部職員のことです。


これらの職員(出家者)は、少しばかり仏法を知っているために、かえって質が悪くなります。

真実を隠すだけでなく、師匠の教えを自分の都合のいいように平気でねじ曲げてしまいます。


だから師匠の教えを常に研鑽し、もっとも師匠を知る人と出会えば、

本来はその人を褒め称えて、喜ぶべきなのにかえって嫉妬し怒りだす。


自分より勝れている人を素直に尊敬できない。

世間の厳しい経済社会から離れ、経済的にわずらわされることもなく、

多くの人の中から選ばれて自分は師匠の側で働いている、


だから一般会員よりも、何でも知っているし、自分は別格の弟子なのだ――と、

もしこういう心根の職員がいるとすれば、それが慢心であり、道門増上慢の本性なのです。


【開目抄の指導原理について】17/31  投稿者:大仏のグリグリのとこ  投稿日:2014年12月27日(土)08時55分4秒

  では法華経の行者に、これらの障魔が競うのは何が原因かというと、

それは大聖人の仰せ通りに、師匠の指導通りに、組織悪と戦い折伏を行じたからです。


しかもこの第一(俗衆)と第二(道門)の増上慢は、

折伏の度合いによってその現れ方は変わってきます。


友人の間違った思想を正し、会員の我見の信心を諌め、

正しい仏法を説こうとすれば、たちまちこの俗衆増上慢は姿を現し闘争が始まります。


相手の悪思想を責めなければ、俗衆増上慢は現れません。

そしてさらに強く責めれば、仏説のごとく非難や迫害の的となるのです。


しかしこの段階では、まだ第二の道門増上慢は出てきません。


第二の道門増上慢が現れるのは、組織悪との闘争を決意し、

それを強く破折した瞬間から始まります。


もともと道門増上慢は、自分や家族のことしか考えない、保身と心諂曲が特徴です。

自分の陣地が脅かされない限り動きません。


それでも強く責めて、ひとたび自分の陣地に踏み込まれれば、

権威にものを言わせて、恫喝、査問、左遷等と迫害を加えてきます。


所詮、彼等の本質は、次に出てくる第三(僣聖)の奴隷であり、手先なのです。


ここまで俗衆増上慢と道門増上慢を見てきましたが、

この「無智」と「邪智」からくる迫害者は、どちらかというと目に見えてわかりやすいと思います。


無智な人と組織論・信心論の対話をすれば、すぐに無智だと見抜けます。

邪智の人は、露骨に行動に表われますから、これもすぐにわかります。


しかし、第三の僣聖増上慢はわかりにくい。

なぜかといえば、心は「悪心」ゆえに迫害をするのですが、

表面上は聖人君子の様相を呈しているからです。


だから「僣聖」の正体を民衆や会員に暴くことが大事なのです。

一部の人が目覚めただけでは社会は変わりません。

行動を起こして僣聖増上慢をあぶり出すしかないのです。


妙楽大師も

「第三の者(僣聖増上慢)が一番悪質である。

より一層、正体を見抜きにくいからである」(二二九頁)と述べています。


「僣聖」とは、《聖者を装う》という意味です。


では、第三の僣聖増上慢を見ていきましょう。


【開目抄の指導原理について】18/31  投稿者:大仏のグリグリのとこ  投稿日:2014年12月27日(土)08時55分47秒

  本文です。

「或は、阿練若に納衣にして、空閑に在つて、

自ら真の道を行ずと謂つて人間を軽賎する者有らん。

利養に貪著するが故に、白衣の与に法を説いて、

世に恭敬せらるることを為ること六通の羅漢の如くならん。

是の人悪心を懐き、常に世俗の事を念い名を阿練若に仮て好んで我等が過を出さん。

常に大衆の中に在つて我等を毀らんと欲するが故に、国王・大臣・婆羅門居士及び、

余の比丘衆に向つて誹謗して我が悪を説いて、是れ邪見の人、外道の論議を説くと謂わん」(二二四頁)


――あるいは、人里離れた所で、粗末な衣を身にまとい、静かな修行の場にあって、

自分では真実の道を行じていると思い、俗世間を軽蔑する者がいるでしょう。

自分の利益に執着して、それを貪るために在家の人々に法を説いて、

世間から厚く敬われるさまは、まるで六種の神通力を得た聖者のようです。


この人は邪悪な心を抱いて、常に世俗のことばかり考え、山林で修行している立場を表に出して、

私たちの過失を上げつらうことに余念がないのです。


常に大衆の中にあって、私たちを非難しようとして、

国王や大臣、高僧や社会の有力者およびその他の僧たちに向かって、

私たちを誹謗し、悪人であると説き、邪義を唱える人であり、

外道の論を説いていると訴えるでしょう――


これが第三の「僣聖」です。


大聖人は、この僣聖増上慢の特徴を詳しく挙げていきました。


それをまとめると、

①人里離れた場所に住み、衣を着て、宗教的権威を装う。

②自分は真の仏道を行じていると言って、人々をバカにする(人間を軽賤する)。

③利欲に執着し、それを貪るために在家に法を説く。

④世間の人々から六種の神通力を具えた聖者のように崇められる。

⑤法華経の行者に「悪心」を抱いて、種々の迫害を起こす。

⑥自分の宗教的権威を用いて法華経の行者を貶(おとし)める。

⑦権力者や社会的有力者などに讒言する。

⑧「法華経の行者は邪見の人であり、外道の教えを説く」と非難する。


このようになります。


【開目抄の指導原理について】19/31  投稿者:大仏のグリグリのとこ  投稿日:2014年12月27日(土)08時56分32秒

  大聖人は、これらの「三類の強敵」を全部、

現実に呼び起こし、すべてを乗り越えてきました。


その大勝利宣言が「竜口までもかちぬ」(八四三頁)との断言です。


この特徴を学会に置き換えたら、どうなるでしょうか。


①末端会員のところには家庭訪問に行かず、スーツをビシッと着て幹部面を装う。

②自分は毎日戦っていると言って、未活動の人を軽蔑しバカにする。

③自分の名誉だけを考え、その手柄を貪るためだけに会員に指導する。

④多くの会員さんから、何の根拠もないのに「あの人はすごい」と思われている。

⑤師匠の指導通りに実践している人に、悪心を抱いて、種々の邪魔をする。

⑥自分の役職の権威を利用して、本物の弟子を貶める。

⑦上位の人に、有りもしない噂話を作り、事実を曲げてウソの報告をする。

⑧「彼は邪見の人であり、仏法にはない我見の教義を説いている」と非難する。


となるでしょうか。


貴方はどうですか、

このような人に迫害された方ですか、迫害した方ですか。


貴方の近くにこのような人は居ますか、居ませんか。

一度、チェックしてみてはどうでしょうか。


さて、このように大聖人は開目抄の中で、

聖者を装う僣聖増上慢の仮面を暴いていきました。


僭聖の一番の特徴は「人間を軽賤する」ということです。

これはすべての人間に仏界があるという生命尊厳の法華経から見れば、

完全な「法華経の行者の敵」になります。


また「自分の利益に執着して、それを貪るために在家の人々に法を説いて、

世間から厚く敬われるさまは、まるで六種の神通力を得た聖者のようです」(二二四頁)とありますが、


自分が《もうける》ために、仏法を利用するのが僣聖増上慢で、

そのくせ世間の人々からは「聖者」のように仰がれている。


苦悩の人を助けようとか、広宣流布のために命を捧げていこうとする心もない。

結局、宗教利用の偽善者です。


大聖人は自分の名聞名利のために仏法を説く人間を「食法がき」(一一一一頁)と述べています。


私たち学会の世界でいえば、うまく泳いでいこう、人から尊敬されよう、

人気を得よう、喝采を浴びよう――。そういう卑しい心といえるでしょう。


【開目抄の指導原理について】20/31  投稿者:大仏のグリグリのとこ  投稿日:2014年12月27日(土)08時57分57秒

  次に、

「この人は邪悪な心を抱いて、常に世俗のことばかり考え、

山林で修行している立場を表に出して、

私たちの過失を上げつらうことに余念がない」(同頁)とは、

自分に敵対する法華経の行者が出現すると、ありもしない過失を捏造して言い立てるのです。


偽善者にとって一番恐ろしいのは、自分たちの実像が暴かれることです。


だから、真実を叫ぶ法華経の行者が「脅威」となるのです。

そこで「ウソ」で法華経の行者を亡き者にしようとします。


そしてどんなウソを言うのか、そのやり方も説いています。


それが

「常に大衆の中にあって、私たちを非難しようとして、国王や大臣、

高僧や社会の有力者およびその他の僧たちに向かって、私たちを誹謗し、

悪人であると説き、邪義を唱える人であり、外道の論を説いていると訴えるでしょう」(同頁)というものです。


つまり「讒言」と「作り話」です。

しかしその内容は、自分のことを言っているにすぎません。

自分の醜い実像をそのまま法華経の行者の姿だと「すりかえ」て、悪口罵詈しているだけです。

それは自分の「影」に向かって悪口を言っているようなものです。


ある意味でこの偽善者は

「自分は本物ではない、仮面をかぶって生きている」ということを心のどこかで知っているわけです。


しかし増上慢の心が強いために、

自分の醜い実像を正面から受け入れ認めることはどうしてもできない。


そんな中で、本物の法華経の行者が現れると、いやでも自分の卑怯な姿を見せつけられてしまう。

それが偽善者には耐えられない。


だから「法華経の行者さえいなければ・・・」と悪心を抱き、嫉妬して狂乱してしまう。

そして最後は、権力と結びついて、法華経の行者を抹殺しようと図っていくのです。


しかもこの僣聖増上慢は、法華経の行者と直接、対決するのではなく、

つねに裏で道門増上慢と俗衆増上慢を手先として、これらの者をあやつろうとします。


それが僣聖増上慢の「くせ」です。


仮面をかぶった生き方が身についているために、その本質は臆病なのです。

そこで世間に向かって、また権力者や社会の有力者に対して、法華経の行者の誹謗中傷を繰り返すのです。


この「権力の魔性」の方程式は、西洋の魔女裁判や異端審問でも同様に見られます。


聖職者は直接、手を下さない。

密告と拷問によって、無理やり「死刑」と定め、しかも自分は直接に死刑と宣告したり、処刑したりしない。


その犠牲者を世俗的権力の手に渡すだけです。自分は絶対に手を汚さない。偽善者は、どこまでいっても偽善者です。


【開目抄の指導原理について】21/31  投稿者:大仏のグリグリのとこ  投稿日:2014年12月27日(土)08時58分50秒

  このように「二十行の偈」の最後は、僣聖増上慢と権力の結びつきで終っています。

ここで注視すべきは「悪は結託する」ということです。


利害と利害が一致し、自分の分け前を得るために団結の姿を示して

「悪の連合軍」になっていきます。


一方、善は利得に無縁です。そのため孤立してしまう。

この悲劇を転換するためには、善が団結しなければなりません。


「仏と提婆とは身と影とのごとし生生にはなれず」(二三〇頁)


――極善の仏と、極悪の提婆とは、

身と影のごとく生々世々、永遠に離れることはない――とありますが、

「身と影」の実態は同じものです。


見方を変えれば、善悪は表裏一体というものではなく、縁によって善にも悪にもなります。

これが善悪不二の生命の実相なのです。


「身」が行動している限り「影」はつきまといます。

自分が極善の心で三類の強敵と戦うか、それとも極悪の心に支配され、

三類の強敵になって法華経の行者を迫害するのか、誰もがどちらにも、成り得る可能性があるのです。


それは学会においても例外ではありません。

学会組織といっても、それを運営しているのは人間である以上、油断をすれば、

必ず内部の人の心に、三類の強敵が侵入し、学会組織を攪乱していく危険性があります。

いわゆる「悪鬼入其身」(九五八頁)です。


また

「外道・悪人は如来の正法を破りがたし。仏弟子等必ず仏法を破るべし。

師子身中の虫の師子を食等云云」(九五七頁)と断言しています。


外道や悪人は、学会を潰すことは出来ません。学会を潰せるのは学会員だけです。

だからこそ、学会の中で、学会と共に前進し、学会を守り抜き、

同志と苦楽を共にしていくことが大事となるのです。


学会を離れて広宣流布はありません。

戸田先生が「学会の組織は戸田の命より大事だ」と言われた意味もそこにあるのだと思います。



・・・・・・明日につづく。


【開目抄の指導原理について】22/31  投稿者:大仏のグリグリのとこ  投稿日:2014年12月28日(日)08時27分53秒

  大聖人は

「三類はすでにあり法華経の行者は誰なるらむ、求めて師とすべし。

一眼の亀の浮木に値うなるべし」(二三〇頁)と弟子たちに叫ばれました。


「法」といっても目には見えません。

善なる法は、法華経の行者の戦う「実践の振る舞い」の中に顕れます。


そしてその三類の強敵を顕し、それと戦って勝利した師匠と出会うことは稀なのです。


真実の仏法指導者には会いがたい。


師弟は、どこまでも弟子が師を求め抜く実践の中にしかありません。

自身が求め抜いた時に、戦う師匠の偉大な姿が、明確に浮かび上がってくるのだと思います。


「開目」とは、

三類の強敵と戦う真の法華経の行者の姿に目覚めよ、師を求め、師と共に、

魔性と戦い抜く自分自身に目覚めよ、と弟子の闘争を呼びかけられた書でもあるのです。


もっというと、

学会総体に対しての三類の強敵は「誰」なのか、

自分自身に対しての三類の強敵は「誰」なのかを

経文に照らして明確にし、会員一人一人がそれぞれの立場に応じて、

戦い勝つ以外に「創価学会の発迹顕本」も「自分の発迹顕本」もあり得ないということです。


二〇一三年の夏、《黄金の三年》の開幕にあたり、池田先生は

「深く大きく境涯を開き、目の覚めるような自分自身と創価学会の発迹顕本を頼む」と指導されました。


これは、大聖人の発迹顕本に目を開き、創価三代の発迹顕本に目を開き、

弟子よ「三類の強敵との闘争を開始せよ」という意味だと私は捉えています。


しかし、これに目覚めた仏法指導者や、弟子たちを、

絶対に認めたくないのが、権力の魔性と化した僣聖増上慢です。


大聖人は続いて、この僣聖増上慢がどんな迫害をしてくるのかを具体的に考察していきます。


【開目抄の指導原理について】23/31  投稿者:大仏のグリグリのとこ  投稿日:2014年12月28日(日)08時28分34秒

  では本文です。

「濁劫悪世の中には多く諸の恐怖有らん悪鬼其身に入つて我を罵詈毀辱せん。

濁世の悪比丘は仏の方便随宜の所説の法を知らず悪口し顰蹙し数数擯出せられん等云云」(二二四頁)


――濁った世の悪僧は、法華経以外の教えが、仏の方便の教えであり、

機根に合わせた教えであることを知らないで、私たちを悪しざまにののしり、

顔をしかめるでしょう。そして、私たちはたびたび追放されるでしょう――と。


この「数数擯出」について、大聖人は

「日蓮・法華経のゆへに度度ながされずば数数の二字いかんがせん。

此の二字は天台・伝教もいまだ・よみ給はず況や余人をや」(二〇二頁)と断言されました。


大聖人以外に、この経文を身読された人はいないということです。


「度度ながされ」というのは、権力者によって受けた

「伊豆流罪」と「佐渡流罪」の迫害のことをいいます。


現代においては、牧口先生も日蓮正宗法主の謗法容認の命令に逆らい、

大聖人の正義を守るために、戸田先生と共に権力者によって逮捕され、

二年余りに及ぶ獄中生活を耐え抜きました。


その中で、牧口先生は獄死(殉教)――。


生きて獄門を出た戸田先生は、新たな創価学会を再建し、

内外の迫害に耐えながら、民衆に大聖人の正義を説いていきました。


その愛弟子である池田先生もまた、無実の罪で牢獄に入り、

時の学会執行部の裏切で会長辞任を余儀なくされました。


さらに日蓮正宗に誠心誠意、尽くし抜いた宗門からも、池田先生と全学会員が破門されました。


勧持品には、「数数擯出」の後に「塔寺を遠離せん」とあります。

つまり寺を破門されるということです。


「二十行の偈」は、大聖人こそ真の「法華経の行者」であり、

創価学会こそが真の法華経を行じている宗教団体であることを証明する経文なのです。


その正義の団体である創価学会に、もしも僣聖増上慢が現れたならば、その選択は一つです。


それは創価三代の正義を捨てるか、僣聖増上慢を捨てるかです。


【開目抄の指導原理について】24/31  投稿者:大仏のグリグリのとこ  投稿日:2014年12月28日(日)08時29分17秒

  開目抄には

「金光明経に云く『善業を修する者は日日に衰減す』等云云、悪国悪時これなり。

具さには立正安国論にかんがへたるがごとし」(二三一頁)とあります。


法華経の行者を捨てた社会は、僣聖増上慢に操られたまま、

結局は亡国の道をたどっていかざるをえません。


つまり「三類の強敵との戦い」は即「立正安国の戦い」なのです。


勧持品に説かれた弟子の誓願の心は、端的にいえば「殉教の精神」です。


三類の強敵は、宗教のために他人を迫害し、殺そうとします。

それと反対に、法華経の行者は、信仰のために自分が死んでいこうとする。


もっとわかりやすく言えば、人を火あぶりにするのが僣聖増上慢です。

それに対して、社会のために、民衆のために、会員のために、

自分が火刑におもむくのが法華経の行者なのです。


貴方はどちらの方ですか。

会員を恫喝し、査問し、僣聖増上慢に操られる人ですか。


それとも、先生の思想を守り、会員の悩みに耳を傾け、組織悪と戦う人ですか――。


問われているのは「何時も・いつの時代」も弟子の方なのです。


【開目抄の指導原理について】25/31  投稿者:大仏のグリグリのとこ  投稿日:2014年12月28日(日)08時30分5秒

  ここまでのところを一度、整理したいと思います。


まず結論からいうと、

開目抄は「日蓮大聖人の宗教」の確立を告げた書といえるでしょう。


「主師親の三徳」を主題テーマとしつつ、

開目抄の前半では、五重相対して末法の世を救う「法」が明確になり、

後半では、その法を弘める「末法の師」が明かされていきました。


特に、その後半で法華経の「見宝塔品・提婆達多品・勧持品」の経文に照らして、

大聖人の「弘教と受難」は経文と一致することが示され、

大聖人こそが末法の法華経の行者であることを明かされました。


残る問題は、ではどうして法華経の行者に難があるのか、

また難が起こったときに、あるはずの諸天善神の加護がないのはなぜか、

という二つの問題です。


これが開目抄の「此の書の肝心・一期の大事」(二〇三頁)と言われた問題です。


この問題に対して、大聖人は「文証」を示し「道理」をもって答えていきました。

今度はそれを見ていきたいと思います。


まず本文です。

「有る人云く、当世の三類はほぼ有るににたり。

但し、法華経の行者なし。汝を法華経の行者といはんとすれば大なる相違あり」(二三〇頁)


――ある人が次のように言った。今の世に三類の強敵は、ほぼ現れたといってよい。

ただし、法華経の行者はいない。あなたを法華経の行者であると認めれば、

経文と大きな違い(矛盾)がありすぎる――というものです。


そして、四つの経文を通してその矛盾が述べられていきます。それをまとめると、


①法華経の行者には、天の童子たちが仕え、刀や杖で打つことは出来ないし、毒をもって害することもできない。

②法華経の行者を憎み、罵声を浴びせれば、その人は自閉症のように口は塞がってしまう。

③法華経の行者は、現世は安穏であり、未来は善いところに生まれる。

④法華経を説く者を悩まし、その心を乱すものは頭が七つに割れて脳乱する。

⑤法華経の行者は、その功徳として、この一生のうちに幸福になる。

⑥この経典を受持する者を見て、悪口を言う者は、それが真実であろうとなかろうと、この一生のうちに重病に苦しむ。


(同頁)というものです。


これらが説かれているにも関わらず、あなたにはその諸天の加護がないではないか、という疑問です。


【開目抄の指導原理について】26/31  投稿者:大仏のグリグリのとこ  投稿日:2014年12月28日(日)08時30分47秒

  これに対して

「答えて云く、汝が疑い大に吉しついでに不審を晴さん」(同頁)


――答えて言う。あなたの疑いは実にもっともである。この機会にその疑いを晴らそう――と。


この疑問に対して大聖人は、これも経文と道理を通して述べられます。


それをまとめると、


①悪口罵詈される。

②杖や木やかわらと石で打たれる。

③もしは殺され、もしは迫害される。

④如来在世でも怨嫉が多い。ましてや滅後においては、なおさら大きな怨嫉をこうむる。


というものです。さらに現証を示して、


①釈尊も提婆達多の投げた石で小指から血を流し、九横の大難に遭われた。

②不軽菩薩は、二十四文字の法華経を弘通して迫害を受けた。

③目連尊者は、成仏の授記を受けた後、外道に殺されている。

④提婆菩薩や師子尊者は法のために人に殺された。

⑤竺の道生は蘇山に流され、法道三蔵は顔に火印を押されて江南に流されている。

⑥外典の者ではあるが、白楽天や道真は遠く流罪されているが、誰もが認める賢人ではないか。


(同頁)というものです。


これらの経文や現証から見て「この人たちは法華経の行者ではないと言うのか」と提示します。


【開目抄の指導原理について】27/31  投稿者:大仏のグリグリのとこ  投稿日:2014年12月28日(日)08時31分32秒

  そして「事の心を案ずるに」(同頁)


――この問題の本質について考えてみよう――と大聖人自身の胸中を明かされていくのです。


大聖人は、この議題に入る前提として

「大難を受けてこそ法華経の行者である」ことを過去の事例を挙げて改めて確認されます。


そのうえで「事の心を案ずるに」と述べられ、

法華経の行者自身が大難を受け、諸天善神の加護がない理由、

また、迫害者に現罰が現れない理由を三点にわたって説明されていきます。


その三点を要約すると、


法華経の行者が難を受けているのに諸天の加護がないのは、

法華経の行者自身の過去世に、謗法の罪業がある場合であって、

法華経の行者に過去世の罪業がない場合は、迫害者に直ちに現罰がある。


来世には必ず地獄に堕ちると決まっている一闡提には、

今生で重罪を犯しても現罰としては現れない。


一国謗法のゆえに諸天善神が国を去ってしまっているために、

諸天善神の加護が現れない。


というものです。


本文は

「前生に法華経誹謗の罪なきもの今生に・・・・立正安国論にかんがへたるがごとし」(二三一頁)のところです。


では見ていきましょう。


まず、①の法華経の行者の宿業ということですが、

「法華経の行者を迫害する者には現罰がある」と法華経に説かれていますが、

それは法華経の行者の過去世に「法華誹謗」の罪がない場合であるとも言っています。


たとえ法華経の行者であっても、過去世に法華誹謗があれば、

その罪の報いとして迫害を受けるのです。


「不軽品に云く『其の罪畢已』等云云」とあります。

不軽菩薩も自身の罪業のために大難を受けたのであり事実において、経文では不軽菩薩自身が

「其罪畢已」するまでは、不軽菩薩を迫害した四衆に現罰があったとは経文に説かれていません。


また

「心地観経に曰く『過去の因を知らんと欲せば其の現在の果を見よ。

未来の果を知らんと欲せば其の現在の因を見よ』等云云」とあります。


仏法は因果の理法です。

現在の果報は過去の業因によりますが、現在の因によって未来の果報があります。

つまり、今を決定づけたのは過去世の因ですが、同時に、未来を決定づけるのは今この瞬間です。


大聖人はここで、過去にどのような業因があろうとも、

現在の因によって未来の果報を得ていくことができること(現当二世の法門)を強調しています。


【開目抄の指導原理について】28/31  投稿者:大仏のグリグリのとこ  投稿日:2014年12月28日(日)08時32分13秒

  大聖人が宿業を説くのは、あくまでも宿業は必ず転換できることを示すためです。


もう一つは、大難の因を自分自身の中に見いだしていくという「内省」の考え方です。

これは、宿命転換を可能にするためには、どうしても必要な考え方なのです。


良い結果は自分の努力、悪い結果は他人や環境のせい――このような考え方は日蓮仏法にはありません。


良い結果も、悪い結果も、すべてその因は自分の中にある、という内省が日蓮仏法の思想です。


また、大聖人はここで「罰」の問題についても、

罪なき者を迫害すれば現罰があるとされていますが、

自分以外の何か神のような存在が罰を与えるのではなく、

罰は本人の行為の結果であり、因果の法則に則っていると説いています。


次は、②の地獄に堕ちると決まっている一闡提ですが、結論からいうと、

過去の罪がある法華経の行者を迫害する者に「現罰がない」といっても、

全く罰がないということではありません。


それは即座に現れる現罰がないだけであって、

見えない冥罰が厳としてあるのです。それが一闡提です。


「順次生に必ず地獄に堕つべき者は重罪を造るとも現罰なし一闡提人これなり」というものです。


迫害者自身が、必ず無間地獄に堕ちることが決まっている場合は、

目に見えて現れる現罰はないと述べています。


他の御書には

「牢獄に入って死罪に決まった者が、その牢獄の中でどんな悪事を行っても

死罪を行うことが決まっているので、新たな罪に問われることはない。

しかし、許されることがある者は、獄中で悪事を行った時は、

いましめられるようなものである」(一〇五四頁)と示されています。


開目抄では、涅槃経を引かれて

「相当な大悪人でも、さまざまなことを縁として心をひるがえし悔い改めることがあるが、

一闡提人はそれが全くない」ことを指摘しています。


無明に覆われた暗い生命は、自分も含めて、

すべての人々に仏性があるということを信じることができません。


だから自分が犯している謗法にも麻痺し、

取り返しのつかない地獄の淵に向かっていかざるを得ません。


現罰がないといっても、心の中は仏性を信じられないから、

根本的に安心することができずに不安にさいなまれています。


その心の不安によって生命が蝕まれていくのです。

現罰が出ていなくても、すでに冥罰は受けているのです。


【開目抄の指導原理について】29/31  投稿者:大仏のグリグリのとこ  投稿日:2014年12月28日(日)08時32分59秒

  最後の③は、諸天善神が国を捨て去るということです。


これは「立正安国論」で示された『神天上の法門』の

「世皆正に背き人悉く悪に帰す、故に善神は国を捨てて相去り、

聖人は所を辞して還りたまわず。是れを以て魔来り鬼来り災起り難起る」(一七頁)のところです。


諸天善神がいないために、法華経の行者を守護し、

罰する働きがなくなるので、迫害者に現罰が出ないということです。


以上、三点を見てきましたが、

法華経の行者に襲いかかる受難は、すべて「謗法」という根源悪に関係しています。


なぜかというと、

法華経の行者は「正法」を行じる人で「謗法」を責めるからです。

謗法を責めない人に難は起こりません。


真正の法華経の行者の戦いは、悪を滅していくための「宗教革命」の戦いです。

だから必然的に競い起こってくる迫害によって、苦難を受けざるを得ないのです。


三類の強敵との戦いは、

個人の宿命転換や一生成仏のための戦いだけにとどまるものではなく、

諸天善神の働きを蘇生させ、国土の安穏を図る「立正安国」の戦いとなって現れてくるのです。


この「戦う心」を支える根本ともいうべき原動力が「大誓願」なのです。


大聖人はこのあと、胸奥から脈打つ「広宣流布の大誓願」の師子吼を宣言しました。


これを最後に見ていきたいと思います。


【開目抄の指導原理について】30/31  投稿者:大仏のグリグリのとこ  投稿日:2014年12月28日(日)08時33分43秒

  長文ですが、大事なところなので核心部分を通解で引用します。


《次々と大難に遭う大聖人が本当に法華経の行者であるのか、

法華経の行者であるならば何故に諸天の加護がないのか、

という人々の疑問について経文と道理に照らして種々、検討してきたが》


「結局は、天が私を捨てるのであれば捨てるがよい。

多くの難に遭わなければならないのであれば遭ってもかまわない。

身命をなげうって戦うのみである」(二三二頁)


――と決意を述べ、


「舎利弗が過去世に、六十劫の菩薩行を積み重ねたのに途中で退転してしまったのは、

眼を乞うバラモンの責めに耐えられなかったからである。


久遠の昔に下種を受けた者、あるいは大通智勝仏の昔に法華経に縁した者が、

退転して無間地獄に堕ち、長遠の時間を経なければならなかったのも、

悪知識に会って惑わされたからである。


善につけ、悪につけ、法華経を捨てるのは地獄に堕ちる業なのである」(同頁)


――と退転の恐ろしさを語り、


「大願を立てよう。『法華経を捨てて無量義経を信じて後生を過ごすならば、

日本国の王位を譲ろう』『念仏を称えなければ父母の首をはねるぞ』などの

種々の大難が起こってこようとも、智者に私の正義が破られるのでないかぎり、

そのような誘惑や脅しに決して動かされることはない。


その他のどんな大難も風の前の塵のように吹き払ってしまおう。

『日本の柱・日本の眼目・日本の大船』と誓った大誓願を決して破らない」(同頁)


――と大誓願の師子吼を宣言しました。


開目抄は「日蓮の大願に目を開け」「日蓮の発迹顕本に目を開け」というのが根本趣旨です。


日蓮大聖人にとって、諸天に守られるかどうかは二義的な問題なのです。


悪世末法に仏と同じ「大誓願」に生きる人こそが、真正の仏の弟子であり、

誓願によって「強き自分」を確立したときに、本当の現世安穏が開かれていくと訴えているのです。


開目抄の中で大聖人は、なにも「自分が仏だ」と自慢し誇っているわけではありません。


大聖人自身の「大願」を明かして、

弟子たちに「日蓮と同じ勝利の大道を歩め」と教えているのです。

大願は、強き自分をつくるからです。


誓願とは、弱き自分を捨て、強き自分を何があっても貫き通すための支えなのだと思います。



【開目抄の指導原理について】31/31  投稿者:大仏のグリグリのとこ  投稿日:2014年12月28日(日)08時34分36秒

  大聖人は「末法万年なり」(一四九五頁)と言われました。


ゆえに、大聖人の時代から七百年を経た現代においても、

大聖人が捉えた「末法」という時代性の本質は、何も変わっていないのです。


あらゆるものが争いへと流されていく「末法」という時代性の中で

「争い」を「調和」に転換する原動力は「自他の仏性を信じる」強い信念と、

その信念の実践化としての「人を敬う」行動以外にありません。


この信念と行動の拡大が「広宣流布」です。


「一代の肝心は法華経、

法華経の修行の肝心は不軽品にて候なり。

不軽菩薩の人を敬いしはいかなる事ぞ、

教主釈尊の出世の本懐は人の振舞にて候けるぞ」(一一七四頁)とある通り、


不軽菩薩の実践は、法華経に説かれる「人間主義」の模範です。


開目抄に示された指導原理は「誓願」を持ち、

「法」に生き抜く真実の宗教のあり方を教え、


真実の人間の生き方(師弟不二の実践)に万人が目覚めていく「開目」の本義を教えています。


その師弟不二の誓いの結晶ともいえる創価学会のシンボルの塔が、

「師匠から弟子への贈り物」と池田先生が言われた「広宣流布大誓堂」です。


昭和三十九年六月三十日、学生部第七回総会で池田先生は次のように指導されています。


「どんなものでも終着点がある。

帰趨すべきひとつの終着としてのしるしがなくてはならない。

と同じように、宗教においても、その終着点が必要です。


戸田先生は『本尊流布が、信心が、トウフである。戒壇建立はオカラである。

カスのようなものだ』このように何度もおおせになっておりました。


その本質を、皆さん方もよく知っていただきたいと思います。


戒壇建立ということは、ほんの形式にすぎない。

実質は全大衆がしあわせになることであります。


その結論として、そういう、ひとつの石碑みたいな、しるしとして置くのが戒壇建立にすぎません。

したがって、従の従の問題、形式の形式の問題と考えてさしつかえないわけでございます」

(会長講演集第十一巻二一六頁)――と。


肝心なのは形式や建物や伝統ではなく、

師匠の心を伝え残す「伝持の人」が大事なのです。


さらに池田先生は

「日蓮仏法は『人間宗』です。

大乗仏教の精髄である法華経が開いた『人間の宗教』の大道を確立され、

全人類の幸福と平和実現への方途を未来に残してくださったのが日蓮大聖人です」

(池田大作全集三十四巻)と断言されました。


人間を抑圧するあらゆる勢力と戦い、勝ち抜いていくのが池田先生の真正の弟子なのです。


最後に、池田先生が師子吼された指導の一句を記して終わります。


――私が追求しているのは「本物の人間」です。「本物の人生」です――


                       (池田大作全集三十巻)


                           ― 完 ―


宿坊の掲示板より