偉大なる死――涅槃について

【偉大なる死――涅槃について】1/19  投稿者:大仏のグリグリのとこ  投稿日:2015年 2月10日(火)16時42分15秒 編集済

  涅槃経という経典は、学会員にとって非常に聞きなれた言葉であるとともに、

御書の中には「三百二十六箇所」も涅槃経という言葉が登場します。


日蓮大聖人もその経典の文証を多分に引かれ、天台は「法華を命に、涅槃を重宝」(大正三十三巻七〇四頁)に譬えました。


この涅槃経には「小乗部の訳」と「大乗部の訳」があるのですが、

釈尊の死後、弟子たちはその死をどう解釈すればいいのかという問題が起こり、

その死を宗教的実践の完成と見る考え方が出来上がっていきました。


その後、大乗仏教の運動が興起する時代になると、小乗部の訳したその考え方は批判されるようになり、

むしろ釈尊が目指したような現実社会で涅槃の境涯を目指す生き方が理想であると、

大乗部の人たちは考えるようになっていったのです。


さて、むずかしい話はさて置き、この「涅槃」ということを少し考えていきたいと思います。


【偉大なる死――涅槃について】2/19  投稿者:大仏のグリグリのとこ  投稿日:2015年 2月10日(火)16時42分59秒

  しかし、煩悩の火が消えても、釈尊の生命の火は燃えていた。


その生命の輝きの火を灯しながら、民衆救済の旅を続け、

ガンジス河の中流域のあちこちに釈尊の足跡が刻印されていきました。


しかし、やがてその生命の火も、少しずつ勢いが衰えていきます。


「古ぼけた車が、あちこちを革紐で縛りつけてやっと動いているように、

私の体も革紐のたすけをかりて、どうやら動いている」という釈尊の言葉も仏典には残っています。

そして最後に、生命の火が消えてしまう。


これが第二の涅槃です。


第二の涅槃を「般涅槃(はつねはん)」と呼ぶこともあり、釈尊の入滅は「大」の字を冠して

「大般涅槃(だいはつねはん)」とも呼ばれました。


つまり「大いなる死」――という意味です。


釈尊はなぜ入滅したのか――。

この問いは過去の人々もずっと問い続けていました。


原初経典(小乗経典)の「大般涅槃経」には、その問いに対してこんな説明をしています。


場所は、後に大乗部が興起した地といわれるヴァイシャーリー都城です。

この都城は、自由な商業都市として発展し、政治形態も五つの種族から代表者を出して、

民主的な共和政治が行われていたとされています。


のちに戒律中心の閉鎖的な仏教教団の殻を破る革新運動が、この地から巻き起こったとされるのも十分うなずけます。

釈尊の仏教は本来、民衆のものです。仏教を特権階級の具にしてはならない。


釈尊以来の仏教の本来の精神に帰れという動きがここから湧き起こってきたわけです。


それはさて置き、話を「大般涅槃経」にもどします。


そこに描かれている説明では、昼間の小憩の時に釈尊が侍者の阿難に語りかけます。


「阿難よ、悟りを開いた仏陀というものは、もしも望むならば、一劫のあいだこの世にとどまることができるのだよ」――。


しかし阿難は、釈尊の言葉をただ聞き流しにしてしまった。

じつは阿難は、こう言うべきであった。


「そうでありましたなら、どうか世尊よ、一劫のあいだこの世にとどまりいただいて、われらと衆生を導いてください」と。


しかし、阿難は放心状態であった。

彼の心に悪魔がとりついていたからである――と。


経典はそんな説明をしています。  


日蓮大聖人は、一代五時継図の中で

「十九出家、三十成道、八十涅槃。涅槃経に云く八十入滅」(六五八頁)と、釈尊の経歴を紹介しています。


釈尊は十九歳の時に「生老病死」の解決の道を求めて出家し、三十歳でその解決策を会得、

その後伝道の旅を続け、八十歳の時にインド・クシナーラーで涅槃に入りました。


仏典によれば、釈尊は衰弱し、侍者の阿難の肩に寄りかかりつつ、ゆっくりと歩まれる。

沙羅樹の林の中で横になり、もはや一歩を運ぶ力さえ残っていなかった。


そして釈尊は死の直前、集まっていた弟子たちに

「お前たちは、私が亡くなっても、指導者がなくなったと思ってはならぬ。

私の説いた教えと掟とが、お前たちの指導者である。

お前たちが今、もし疑いを持っているなら、尋ねるがよい。


後になって、私が生存中に聴いておけばよかったと、後悔するようなことがあってはならない。

もろもろの事象は過ぎ去るものである。努力して修行を完成させなさい」(南伝大蔵経第七巻)

と有名な言葉を最後に残して涅槃に入ったと伝えています。


偉大な釈尊の死を、人々は「涅槃」と呼びます。


涅槃とは、サンスクリット語で《ニルヴァーナ》、パーリ語で《ニッバーナ》といい、

その語に漢訳仏典は「涅槃」といった漢字をあてました。


「涅槃」の言葉の意味は種々ありますが、その一つに「火の消えた状態」という意味があります。


この意味から考えれば、釈尊は二回の涅槃を経験したことになります。

三十歳の時に菩提樹の下で「根源の妙法」を悟ったときには、すでに煩悩の火は消えていたと思うのです。


その煩悩の火の消滅が第一の涅槃です。


【偉大なる死――涅槃について】3/19  投稿者:大仏のグリグリのとこ  投稿日:2015年 2月10日(火)16時43分44秒 編集済

  一劫とはどれぐらいの時間かというと、ほぼ永遠に近い時間です。


仏陀というのはそのような永遠に近い時間を生きながらえることができると釈尊は言った。


しかし阿難は聞き流した。


そこで釈尊は、再び

「阿難よ、悟りを開いた仏陀というものは、もしも望むならば、一劫のあいだこの世にとどまることができるのだよ」――。


阿難はなにも言わなかった。

それは悪魔のせいだ――と、仏典は再び同じ説明をしています。


釈尊はさらに同じ言葉を繰り返した。


「阿難よ、悟りを開いた仏陀というものは、もしも望むならば、一劫のあいだこの世にとどまることができるのだよ」――。


同じ言葉が三度も繰り返されれば、たいていの者は気づくはずだ。

世尊は、明らかに「なにか」を言われようとした――と。


まして阿難は、釈尊の侍者であり、何十年も世尊と行動を共にし、釈尊の気持ちを熟知し、

理解し、世尊の身のまわりの世話をしてきた阿難である。

釈尊のその言葉の意味がわからなかったはずがない。


それなのに阿難は聞き流してしまった。

まさに、悪魔に魅入られていたとしか思えない。


阿難は大きな失敗をした。

「世尊よ、どうか世尊はいつまでもこの世にあって、われらと衆生を導いてください」と、彼は釈尊に懇願すべきであったのだ。


だけども彼はそれをしなかった。三度にわたる釈尊の言葉を、うっかり聞き流してしまった。

阿難はこの出来事をのちに釈尊亡きあと、教団の第一の長老であった迦葉に叱責されています。


しかし、いくら叱責しようが、もう遅い。阿難の失敗は許されない――。


釈尊は、同じ言葉を三度反復したあと、阿難を退けられた。


「阿難よ、そなたは下がってよろしい」

「はい」


と言って、阿難は素直に下がっていった。


釈尊は一人になった。そこに悪魔が登場する。釈尊は、一種の淋しさを感じていたのかもしれない。


そして悪魔が釈尊に囁きかける。


「どうだ、もうよいではないか」――。


悪魔の言葉は、感情的に釈尊に訴えかける。


「四十数年前、お前が悟りを開いて仏陀となったとき、わしはお前に進めた。さっさと涅槃に入れと。たいていの聖者がそうする。

せっかく聖者になったのに、愚かな人間と接触して汚れてしまえばなんにもならない。


けれど、お前は変わり者であった。お前は人々に、真理を説き聴かせると言った。

わしは《よせ》と言ったが、お前は布教をはじめた。

あれから四十余年、お前の伝道も実りがあったではないか。


大勢の弟子たちがいる。大勢の在家信者がいる。彼らはお前を理解した。

教団も基礎がしっかりとできた。もう大丈夫だ。お前がいなくても、弟子たちはちゃんとやっていける。

だから、お前は涅槃に入れ。お前も疲れただろう。涅槃の世界で静かに休息するがよい」――。


【偉大なる死――涅槃について】4/19 投稿者:大仏のグリグリのとこ 投稿日:2015年 2月10日(火)16時44分29秒 釈尊は、悪魔の言葉に耳を傾けられた。 《なるほど、悪魔の言う通りである。確かに大丈夫だ。私がいなくなっても、彼らはやっていけるだろう》――。 釈尊はそう考えられた。 「悪魔よ、汝の言う通りである。されば、われは入滅しよう」 「その時期は、いつだ」 「いまから三ヵ月後――」 「よし、わかった。お前はいまから三ヵ月後に涅槃に入る。約束したぞ。忘れるな」。 その瞬間、大地は六種に震動する。地震にびっくりして阿難が駆けつけてくる。 「世尊よ、この地震の原因は何でしょうか」 「阿難よ、私はいま、悪魔に向かって宣言した。 《いまから三ヵ月後に、入滅に入る》と。私の宣言によって、大地は震動したのだよ」 「世尊よ、世尊は涅槃に入られるのでございますか・・・・、どうか世尊よ、思いとどまってください。 世尊はいつまでもこの世にあって、われらと衆生をお導きください」 「阿難よ、そなたのその願いは遅すぎたのだよ。そなたはもっと前に、その懇願をすべきであった。 私が入滅を宣言してからでは、どうにもならない。これはそなたの過失である」――。 釈尊は厳しく阿難を叱責された。うなだれる阿難・・・・。 これが「大般涅槃経」で語られている釈尊入滅の理由です。 ともあれ、小乗経典は、そのように説明しています。 この小乗経典に描かれた釈尊の死の理由を聞いて、皆さんはどう思いましたか。 ここで気付くことは、すべてを阿難の過失にしてしまっていることです。 これら小乗経典に示されている内容は、師である釈尊の言葉があまりにも回りくどく、謎かけのようにも見えるし、 まるで阿難を陥れんがために作られた話のようにも見えます。 一方、のちに興起した大乗仏教徒たちは、いままでの既存の仏教を「小乗仏教」として位置付け、 釈尊の説いた法を中心として「永遠の仏陀」を訴えていきました。 そして彼らの行き方、ものの考え方に真っ向から反対の意見を表明していくのですが、 それはひとまず置いておきます。 いずれにしても釈尊は入滅しました。そこでまずやることは釈尊の葬儀です。 そしてその葬儀は釈尊の遺言に従い、在家信者が執り行うことになっていました。 出家した弟子たちには「怠らず修行を勤めよ」――これが釈尊の遺誡でした。


【偉大なる死――涅槃について】5/19 投稿者:大仏のグリグリのとこ 投稿日:2015年 2月10日(火)16時45分13秒 在家信者たちは、花と音楽と御香をもって、遺体を飾り、その遺体を荼毘に付し、残った遺骨、 つまり「仏舎利」に、再び彼らは花と音楽と御香で供養しています。 そして遺骨を納めた仏塔を作り、その仏塔に詣でては、在りし日の釈尊を偲んでいました。 仏教の史実を紐解いて見ていくと、在家信者たちは釈尊の死を境に、 仏教の教団から離れていったことが読み取れます。 もっとも「離れた」といっても、完全に絶縁したわけではなく、 仏教教団の修行僧が托鉢にくれば、彼らに喜んで布施をしています。 ときには、長老をわが家に招いて、丁重なる供養をする信者もいたでしょう。 こういう行動面だけを見れば、釈尊在世の頃となんら違いはなかったのですが、 精神的な意味での在家信者と仏教教団との結びつきは、だいぶ疎遠になっていたようです。 その原因は、いろんな要因があると思うのですが、一番に挙げられることは、釈尊亡きあと、 仏教教団を構成していた出家者たちが、自分たちだけの問題にしか関心を持たなかったことがその原因の一つです。 彼ら出家者たちは、在家信者の指導を忘れ、教団維持の問題だけに関心が集まっていたのです。 実際、第一結集で経典が作られた動機も、釈尊入滅の報を聞いた時、一人の年老いた弟子の暴言を縁として、 迦葉が釈尊滅後の教団のなかにそうした空気が漂っていると感じ取っていたからです。 偉大な指導者が死んだのだから、直ちに弟子たちが集まって、釈尊の生前を回想し、 その教法を誤りなく後世に伝えようと経典の結集に力を入れたのは当然といえます。 阿難にしても、旧知のバラモンに会った時、 「世尊が亡くなって次の後継者は誰だ」と聞かれます。 阿難は 「友よ、そんな立派な方がいる道理はないではないか。 かの世尊は、自らこの道を悟り、自らこの道を実践した方である。 その弟子たるわれらは、世尊の教法を垂範に、後からついていくだけである。 すなわち法の所依がある」(南伝大蔵経第十一巻)と答えたと言います。 つまり「依法不依人」です。 釈尊滅後の第一結集で、教団側が最初にやったことは、釈尊亡き後の教団の意思統一を図り、 教団を維持していくうえで必要なものを優先させたということです。 第一結集によって集成された経典を、絶対のよりどころとして、 彼らはその仏説を「阿含経」と呼び、非常に権威あるものとして大切にしています。 そして不思議なことに、在家信者たちは、釈尊の死を契機として、 いったんは仏教の歴史の舞台から総退場しています。 仏教史の舞台の上には、ただ出家者だけが残っている。そんな状態が約百年以上つづくのです。 次に在家信者たちが仏教の歴史の舞台に登場してくるのは、紀元前ごろからです。 いわゆる大乗仏教の興起とともに、在家信者たちは、再び歴史の舞台の前面に踊り出てくるのです。


【偉大なる死――涅槃について】6/19 投稿者:大仏のグリグリのとこ 投稿日:2015年 2月10日(火)16時45分56秒 ただ、誤解してほしくないのは、迦葉が釈尊入滅直後、 ただちに第一結集をやったことの意義は十分にあると思います。 事実、弟子が言行録を集成し、 しかもそれが人類三千年の文明に欠くことのできない源流となっていたのですから――。 しかし、見方を変えれば、迦葉の経典結集の呼びかけに対して、 それに反対する考え方も同時にあったのではないかという捉え方です。 こういう場合、たいていの人は「白か黒か」という発想になりがちですが、 甲と乙と、どちらの意見が正しいか――といった捉え方ではなく、 甲も乙も正しいことがあり、逆に甲も乙もまちがっている可能性だってあるのです。 つまり、迦葉も正しいけれども、迦葉に反対する意見だって同様に正しい、といったこともあるということです。 なぜ、こんなことを考えるかというと、二回目に行われた仏典結集は釈尊滅後・百年後とされていますが、 この前後から仏教教団は、出家者を中心とする「上座部」と、在家信者を中心とする「大衆部」に分裂していたからです。 釈尊滅後百年といえば、師匠から直接指導をうけた弟子はすべて死んでいるでしょう。 滅後百年も経てば誰も実際の釈尊は知らないわけです。 釈尊の在世時代から数えて四代目から五代目の世代によって教団が運営されていたと思われます。 当然、時代の状況も変わっていたでしょうし、生活様式やそれを取り巻く環境もちがっていたでしょう。 そうした中で、釈尊の遺訓や教義に対しても、 時代に合わせたさまざまな解釈論が出てくるのはやむをえないと思います。 そして、なによりその解釈の土台となる経典は文字で興された経典でしか判断できないという事実です。 その経典の解釈論に端を発して第二結集が始まったのです。 それは、ヴァイシャーリー都城にあったヴァッジ出身の弟子たちが 「十か条(十事)」にわたる戒律の新たな解釈を主張したことがその原因でした。


【偉大なる死――涅槃について】7/19 投稿者:大仏のグリグリのとこ 投稿日:2015年 2月10日(火)16時46分35秒 詳しいことは省略しますが、池田先生はこの出来事に対してこう述べられています。 「ヴァッジ出身の比丘たちの主張は、教団の長老たちによって全面的に否決されてしまったわけだが、 私は、彼らの要求は、かなり妥当なものであったと思う。 それは、長老派が戒律万能主義になってしまって、人間としての生き方を説いた、 もっと広々とした釈尊の精神からは遠いものになりつつあった、と思われるからです。 いわば、仏教教団は、釈尊滅後百年にして、ひとつの革新が必要とされるまでにいたっていた、ということです。 釈尊の真価は、いかなる人間に対しても、一つの教条や戒律の枠にはめず、その具体的な個々の人間に即して、 自在に法を説いた人間性の広さと深さにあることを見のがしてはならない。 そういう意味からすれば、生命のはつらつたる躍動をたたえた、真実の自由人といっていいのではないだろうか。 ところが、第一結集の際、その少々戒の範囲をどこまでにするかについて異論があり、 なかなか決定しなかった。 経文によれば、そこで長老のマハーカーシャパ(迦葉)が、 ともかく釈尊の制定した戒はもれなく遵守することに決定してしまった。 その結果、比丘たちは戒律を守るのに汲々として、教義も固定化し、 自由な解釈も許されないまま百年が過ぎた、と思われる。 仏法には「随方毘尼」という原理がある。 これは、仏法を護る立場からすれば、大綱に違わないかぎり、 各地方の風習や習慣に随ってもよいとするものだね。」(私の仏教観 三十八頁)と述べられています。


【偉大なる死――涅槃について】8/19 投稿者:大仏のグリグリのとこ 投稿日:2015年 2月10日(火)16時47分25秒 そして 「私には、長老派、いわゆる上座部派の教団側にその原因があったように思われてならない。 これはあくまでも私の推測だが、後に大乗教徒によって『小乗教』と非難されたように、 部派仏教時代の上座部系教団は、釈尊在世中の生き生きした脈動を忘れて、大衆から遊離し、 権威主義に陥っていたのではないだろうか。 もし彼らが、釈尊の教えを見失うことがなければ、これほどの分裂はなかったはずだ。 しかし、別の一面からいえば、仏法が釈尊一人のものから万人のものとなるために、 経なければならない道程だったかもしれない。 いわば、胎動の苦悩の時期とも考えられる。 あらゆる論が出されて、それがさらに大河となって流れる時を待っていたにちがいない」 と語り、 「一応は上座部が正統派で、大衆部が異端であるかのようにみえるかもしれない。 しかし問題は、仏教本来の精神に照らして、いずれが正統派であるかといえば、 苦悩に沈む民衆のなかに飛びこみ、一人でも多くの人を救ったほうが、真実の正統派であるといえる」 (私の仏教観 四十二頁)と結論付けています。


【偉大なる死――涅槃について】9/19 投稿者:大仏のグリグリのとこ 投稿日:2015年 2月10日(火)16時48分3秒 釈尊滅後の「教団分裂」は、表面的には「十事の戒律」をめぐる争いのようにみえますが、 その根本は上座部が出家僧中心の閉鎖集団に陥っていたという背景があるようです。 上座部の弟子は、超世俗的な修行に閉じこもり、 釈尊の教えである「経と律」の文々句々をどれだけ多く知っているか、 また出家してからどれだけ多くの年数が経ったかが、 教団内の「阿羅漢(聖者)」と呼ばれる条件となっていました。 しかし、大乗経典では特に「菩薩」のあり方が強調されています。 出家者は自らの解脱をめざすだけでなく、広く大衆を教化するために 「利他行」を積極的になすべきであるというものです。 それに、釈尊自身も出家僧にだけ説法していたのではありません。 当時の上座部の弟子たちは、保守化し、教団内に閉じこもって、 釈尊の教説だけを守っていたのでしょう。 このような事例から初期の経典は、教団の出家僧を対象にしたものであったため、 現実に大衆のなかに飛び込んで布教活動を行っている人には、受け入れがたいものがありました。 つまり大乗経典が生まれる原因は、すでに第一結集の時からあったのです。 大乗部の運動は、釈尊在世の原点に帰る運動であったといえます。 それは「正統と異端」といった争いではありませんでした。 仏教の場合、革新運動はつねに「原点に帰れ」という精神から出発しているのです。 改革派は少数のようであっても、 結局は原点に正しく立った思想が勝利を収め、おのずと本流になっていく。 これが歴史の厳しき審判です。 しかしその勝利を勝ち取るためには、 そうした勢力に対して全身全霊で戦うことが必要不可欠となります。 どんな世界でも「勝負」には、必ず「勝者と敗者」が厳然として歴史に刻まれる。 それと同時に、歴史というものは勝者の側の立場に立って書かれるものです。 言い換えれば「主流派」ともいえます。 主流派からすれば、敗者・反対者・非主流派の主張が、歴史の記録に盛り込まれることなど絶対にないのです。 だから、迦葉の第一結集の呼びかけに反対した者がいたとしても、その人たちの存在は記録されていません。 ・・・・つづく。


【偉大なる死――涅槃について】10/19 投稿者:大仏のグリグリのとこ 投稿日:2015年 2月11日(水)09時21分21秒 師匠であった釈尊の言行録――。 弟子一人一人の心の中に刻まれ、それを記録した文書。 これが小乗経典です。 小乗経典は、迦葉の呼びかけに賛同した人たち「主流派」がその立場で編集された経典です。 そこには表面上、主流派の主張しか書かれていません。 だから反主流派の主張はその行間から探る以外ないのです。 経典の解釈論に端を発して「第二結集と根本分裂」が始まるきっかけを 作ったヴァイシャーリー都城に住むヴァッジ出身の弟子たち――。 「大般涅槃経」の舞台ともなり、後に大乗部が興起した地といわれるヴァイシャーリー都城は、 自由な商業都市として発展し、政治形態も五つの種族から代表者を出して、 民主的な共和政治が行われていたことは先に述べました。 例えていえば、日本でいうところの首都がある関東に対して 商業都市の関西に位置するようなところです。 仏典には、この都市に住むヴァッジ族のことが記録に残っています。 それによれば、釈尊入滅の数ヶ月前、王舎城の鷲の峰にあって、 釈尊は仏教教団の未来を予言するかのような話をしています。 その話のきっかけは、マカダ国の阿闍世王が釈尊のところに大臣を派遣してきて、 ヴァッジ族を征服するための戦争をやっていいものかどうかを問うてきたことに始まります。 先ほども触れましたが、 ヴァッジ族というのは商業都市ヴァイシャーリーという都市国家を築き、大いに繁栄していた氏族です。 マカダ国の阿闍世王は、このヴァッジ族を征服することによって、 ガンジス河北岸一帯にわたる広大な地域の支配権を確立できるのです。 当時、大いに発展しつつあったマカダ国にとって、 ヴァッジ族征服戦争は、いつかはなさねばならない戦争でした。 ただ、その時期に関しては、いまが適当か否か、阿闍世王にも自信がなかったのです。 そこで大臣を送り、釈尊の判断を仰ごうとしたのです。 あるいは、もしかしたら阿闍世王は釈尊からヴァッジ族の動向に関する情報を得ようと考えていたのかも知れません。


【偉大なる死――涅槃について】11/19 投稿者:大仏のグリグリのとこ 投稿日:2015年 2月11日(水)09時22分7秒 ヴァイシャーリーの国家にも多くの比丘・比丘尼がいましたから、 彼らを通じて釈尊のもとに情報が集まっていると信じていたのでしょう。 釈尊にしても、もともと出家前は釈迦族の王子です。 一国の王子が父王を補佐して政治に携わっていたことは十分考えられます。 しかし、釈尊は大臣を無視して、背後にいた侍者である阿難に問いかけます。 「阿難よ、そなたはヴァッジ族の人々はしばしば会議を開き、その会議に大勢の人々が参集することを聞かなかったか」 「世尊よ、わたしもそのように聞いております」 「阿難よ、ヴァッジ族は、協同して行動すると聞いたことがあるかね」 「はい、そのように聞いております」――。 このように問答が進み、釈尊はヴァッジ族には七つの長所があり、 その長所がある間はヴァッジ族が衰亡することはないだろうと予言します。 その七つの予言とは 「ヴァッジ族の人々は」―― ①しばしば会議を開き、会議に多くの人が参集する。 ②協同して集合し、行動している。 ③いまだ定めていないことを定めず、すでに定められたことを破らず、旧来の法に従って行動している。 ④故老を敬い、尊び、崇め、故老の言をよく聴いている。 ⑤良家の子女を暴力でもって拘束することはない。 ⑥祖霊を敬い、祖霊に対する供物を欠かしたことはない。 ⑦阿羅漢を尊崇し、彼らの国にやってきた阿羅漢に対して供養を怠ることはない。 というものです。


【偉大なる死――涅槃について】12/19 投稿者:大仏のグリグリのとこ 投稿日:2015年 2月11日(水)09時23分7秒 釈尊はヴァッジ族のあり方を語り、大臣が釈尊の真意を了解して去ったあと、 阿難に命じて王舎城にいたすべての修行僧を集め、ヴァッジ族の七つの長所を参考に教団の運営方法について 「合議制」の訓示が記録に残っています。 要するに、釈尊が言いたかったのは入滅後の教団運営は「合議制」で運営しろということです。 この仏教の歴史を見て思うことは、仏弟子(地涌の菩薩)の「勝負観」とは、どうあるべきなのかということです。 現代社会は三千年前と違い、あらゆるものが専門化され、 記録・情報手段・変化・移動・意志疎通等のスピード感が格段にちがう時代です。 釈尊滅後、百年の時間をかけて根本分裂が興っていますが、 今ならそういう状況になった場合、良くも悪くも物事の進展はもっと早いでしょう。 日興上人の時代において、五老僧の師敵対に対する闘争は、 熾烈を極めた命懸けの戦いだったことが想像できます。 五老僧は、師匠の珠玉の指導をすき返しにしたり、 かな文字で書かれた御書を「師匠の恥辱」であると言って火に入れました。 日興上人は日蓮大聖人が入滅した後、師の正義を護るために、 半世紀(五十年)もの間、生きて生きて生き抜いて、師匠の正義を証明され、 五老僧に打ち勝って「五老僧の大罪」の詳細な記録を、後世の弟子に残しました。 これが日興上人の「勝負観」だったと思います。 なぜそれが七百年後の弟子が理解できるのかというと、 日興上人は勝者だからです。 五老僧との闘争に勝利したからです。 熱原法難期、熱原の地の総指揮官は弟子の日興上人でした。 師匠は、弟子に厳命します。 「伯耆房(日興)よ、戦いに勝つ要諦は異体同心の団結だ(趣旨)」(一四六三頁)――と。 そして、悪は多くとも「悪」が「一善」に勝つことは絶対にできないと訴え、 その道理と方程式を中国古書「史記」を通して教えます。 そしてその結論は「長の一念」で勝負は決まるということでした。 「殷の紂王は、七十万騎なれども同体異心なればいくさにまけぬ。 周の武王は、八百人なれども異体同心なればかちぬ」(同頁)とあります。 なぜ殷の紂王は「同体異心」で団結できずに戦いに負けたのか。 なぜ周の武王は「異体同心」の団結ができて勝利したのか――。


【偉大なる死――涅槃について】13/19 投稿者:大仏のグリグリのとこ 投稿日:2015年 2月11日(水)09時24分18秒 編集済 「殷の紂王」の特徴は、暴虐な政治を行う独裁者。 「周の武王」の特徴は、善の政治を行う孝養の人であり、礼を尽くす人格者。 暴虐な政治を行う独裁者のもとでは、どんなに立派な大儀名分があったとしても 異体同心の団結などは絶対にできないし、優秀な人材も集まらないと思います。 そこにあるのは恐怖と脅しが渦巻く世界であり、私利私欲と保身と利害が結託する世界です。 誰も他人のために命を捨てようなどとは思いません。 しかし、年配者の意見をよく聞き、誰に対しても礼を尽くす人格者のもとには、 優秀な人材が集まり、大儀のためならば、 また、この人のためならば命も惜しまない、という人材が集まってくる「信義・信頼」の世界です。 これが世間の道理であり、仏法で説く団結の方程式です。 つまり異体同心の団結の要は「長の一念」で決まるのです。 日興上人は、この師匠の厳命を心に刻み、 最後まで一人の退転者も出さず、熱原の法難を見事に乗り越えていきました。 この弟子の「不滅の戦い」が機縁となって、師匠は出世の本懐を宣言したのです。 これは皆さんがよくご存知のことだと思います。 時はめぐり、今、私たちも同じ立場に置かれているような気がします。 池田先生の思想と学会精神を後世の弟子たちに「誤りなく」伝えていくのも先生の弟子ならば、 先生の思想を自分たちの権威のために「改ざん」して後世に伝えるのもまた先生の弟子です。 もしもこういう闘争に遭遇したならば、正義の弟子が戦って勝たなければ、 結果を出して証明しなければ、後世の池田先生の弟子に笑われます。 「何をやってたんだ、あの時の弟子は、だらしがない」――と。 日蓮正宗・七百年の歴史を見てもそうです。 六十数代続いた法主のなかでも真に尊敬できる法主は、たったの二・三人だけです。 曾谷入道殿許御書には 「涅槃経に云く『内には智慧の弟子有つて、甚深の義を解り、外には清浄の檀越有つて、仏法久住せん』」(一〇三八頁) とあります。 「智慧の弟子」は誰がなるのですか。 「清浄の檀越」は誰がなるのですか。 誰が先生の正義を護り「仏法久住せん」とするのですか。


【偉大なる死――涅槃について】14/19 投稿者:大仏のグリグリのとこ 投稿日:2015年 2月11日(水)09時25分7秒 また、開目抄に 「涅槃経に云く『我涅槃の後、乃至正法滅して後、像法の中に於て当に比丘有るべし。 持律に似像して少かに経を読誦し、飲食を貪嗜し、其の身を長養す。 袈裟を服ると雖も、猶猟師の細視徐行するが如く、猫の鼠を伺うが如し。常に是の言を唱えん。 我、羅漢を得たりと。外には賢善を現わし、内には貪嫉を懐かん。 唖法を受けたる婆羅門等の如し。実に沙門に非ずして沙門の像を現じ、邪見熾盛にして正法を誹謗せん』」(二二五頁) とあります。 この涅槃経に描かれた正法を誹謗する人物は誰ですか。 誰がこのような仏敵を倒すのですか――。 それは 「涅槃経と申す経に云く『法に依つて人に依らざれ』」(報恩抄二九四頁) を忠実に実践している池田門下の真正の弟子以外にありません。 涅槃経には 「『身は軽く法は重し。身を死して法を弘む』と見えたり」(松野殿御返事一三八六頁)とあります。 また、戸田先生は 「第三代会長を守れ! 絶対に一生涯守れ!そうすれば、必ず広宣流布できる」と遺言されました。 これらの師子吼を心に刻む弟子ならば、いったい何を守るのか、何を継承するのか――。 この問題について再度、確認し合い、考える事がもっとも最重要の課題ではないでしょうか。 それには二つの面があると思います。 ――時間と空間に制約された肉体の釈尊。 ――時間と空間を超越した法としての釈尊。 当時の在家信者たちは、釈尊の遺骸を荼毘に付し、それを仏舎利にして受け継ぎました。 一方、出家者たちは釈尊の法を継いだ。しかし、百年も過ぎると根本分裂が起きます。 それは法の解釈論がことの発端でした。 そして、小乗部たちは「法の訓詁註釈」に縛られ、民衆から離れていきました。 それに対して、大乗部たちは「法の依義判文」を展開しながら、民衆に仏法を弘め、 仏法を哲学的に昇華させ、釈尊の精神を守り継承しました。


【偉大なる死――涅槃について】15/19 投稿者:大仏のグリグリのとこ 投稿日:2015年 2月11日(水)09時25分54秒 五老僧は、師匠の精神を忘れ、師匠が長年住まわれた身延地を権威付け、 大聖人入滅の地である池上邸を大切にして、時間と空間に制約された大聖人を受け継ぎました。 一方、日興上人は時間と空間を超越した日蓮大聖人の法を継承し、 未来の弟子に大聖人の精神と広宣流布の厳命を伝え託しました。 しかし、その日興門流も「正・像・末」の流転のなかで、 いつしか時間と空間に制約された日蓮大聖人の「法の訓詁註釈」に縛られ、 日蓮大聖人の正義が失われようとした時に、信徒教団であった創価学会が登場しました。 そして、かつての大乗部たちのように「法の依義判文」を展開しながら、世界の民衆に仏法を弘め、 日蓮仏法を哲学的に昇華させ、日蓮大聖人の精神を守り継承しました。 これが仏教における歴史の審判であり、現証であり、人類の記録史であるといえるのではないでしょうか。 「第三代会長を守れ! 絶対に一生涯守れ!そうすれば、必ず広宣流布できる」――。 私たち池田門下の弟子は、創価三代会長の何を守るのでしょうか。何を一生涯守るのでしょうか。 時間と空間に制約された肉体の創価三代会長――。 時間と空間を超越した思想としての創価三代会長――。 「生死即涅槃」「難即悟達」「九界即仏界」「宗教革命即人間革命」――。 これらの標示の回答を見出し、実践する方途は、弟子一人一人が自分の頭で考え、自分の意志で決断するものだと確信します。


【偉大なる死――涅槃について】16/19 投稿者:大仏のグリグリのとこ 投稿日:2015年 2月11日(水)09時26分38秒 池田先生は「二十一世紀の創価学会」の未来を担う指導者を育成するために、 一九六四(昭和三十九)年六月の男子部幹部会において、 青年部に、新たに「高等部」「中等部」の組織を設置することを発表します。 そして、一九六五(昭和四十)年一月十五日、高等部・中等部の全国各地で部員会がもたれ、中等部はこの日が結成の日となりました。 この当時のことが、小説「新・人間革命(鳳雛)」第九巻に描かれています。 これを最後に見ていきたいと思います。 先生はその鳳雛たちに、自身の本門の活動の決意を披歴してこう語りました。 「師匠と弟子というのは、『針』と『糸』の関係にあります。師匠が『針』、弟子は『糸』です。 針は着物を縫う時、先頭を切っていきますが、最後は不要になり、後に残った糸に価値がある。私は針です。 最後に広宣流布の檜舞台に立つのは皆さんです。 諸君のために、完璧な布石をしていくことが、私の本門のなかの本門の活動であると決意しております」――と。 そして、ベトナムと韓国の、二人の青年革命家(殉教者)の姿を紹介し 「もちろん、私は皆さん方には、そんな苦しい戦いは絶対にさせません。 体を張って守り、苦労は全部、私が引き受けていくつもりでおります。 ただし、広宣流有の決意という面では、殉難の覚悟が必要です。 遊び半分では、尊き世界の平和を築くことも、不滅の民衆の時代を開くこともできない。 広宣流布の活動というのは、権力の魔性との厳しき戦いであり、人生をかけた、断じて負けられぬ、 真剣勝負の戦いであることを、申し上げておきたい」と結びました。 その後、池田先生は、高等部長に御書講義を開始する旨を伝えてこう語ります。 「高等部員の大多数は、いわゆる『学会二世』で、親が先に入会し、いつの間にか、 自分も信心をするようになっていたというメンバーであった。 したがって、信心で生活苦や病苦を乗り越えたといった、 自分自身の体験をもっている人は少なかった。 そうした世代が、仏法への確信を深めていくには、教学を身につけることだ。 教学という理は、信を生み、高められた信は、さらに仏法への理解を深めていくからである」 と、高等部員の本格的な成長を図るために、池田先生は御書講義を行う決意をしたのです。


【偉大なる死――涅槃について】17/19 投稿者:大仏のグリグリのとこ 投稿日:2015年 2月11日(水)09時27分35秒 池田先生は、この御書講義を通して珠玉の指導を綴り、小説「新・人間革命」に留めました。 そして、二十一世紀の革命児にこう訴えます。 「大聖人亡きあと、なぜ、日蓮教団は分裂していったのか。 それは、日興上人を中心に、団結することができなかったからです。 人間は、年とともに、権力に心を奪われ、自分の地位、立場などに強い執着をもち、名聞名利に流されていく。 『自己中心』になっていくものです。 すると、信心をもって、団結することができなくなる。 それでは、どんな学会の役職についていたとしても、信心の敗北だ。 信心というのは、結局は、この『自己中心』の心との戦いなんです」(九巻)――と。 さらに佐渡御書の 「悪王の正法を破るに邪法の僧等が方人をなして智者を失はん時は師子王の如くなる心をもてる者必ず仏になるべし・・・・」 の段では、こう語りました。 「大聖人の時代も、また、これからも、悪は徒党を組んで正法を滅ぼそうとする。 学会憎しの一点で、政治権力も、宗教も合同して、攻撃の牙をむいてくるにちがいない。 しかし、たとえ、一人になっても、《師子王》のごとき心をもって、広布の使命を果たしていくのが本当の弟子です。 戸田先生も、師の牧口先生亡きあと、ただ一人、広宣流布に立たれた。それが創価の精神であり、学会っ子の生き方です。 その精神を失えば《烏合の衆》となってしまう。 真実の団結というのは、臆病な人間のもたれ合いではない。 一人立つ獅子と獅子との共戦です」――と、真実の団結のあり方を教えました。 また「師子身中の虫の師子を食」の講義では次のように強調しています。 「この御書にも『仏弟子等・必ず仏法を破るべし』と仰せのように、 広宣流布を破壊していくのは、外敵ではなく、《師子身中の虫》です。 たとえば、最高幹部であった者が、野心から、あるいは嫉妬から、 学会を裏切り、造反し、躍起になって攻撃しようとする。 それと戦い、学会を守っていくのが諸君です。 また、絶対に《師子身中の虫》になってはならないし、諸君のなかから《師子身中の虫》をわかしてもならない。 《師子身中の虫》というのは、造反者だけではありません。 仮に、立場は幹部であっても、堕落し、怠惰、無気力になったり、虚栄を張って見栄っぱりになり、 すなわち自己中心主義に陥り、一念が広宣流布から離れていくならば《師子身中の虫》です。 そうした幹部がいれば、みんながやる気を失い、学会は蝕まれていく。 怖いのは内部です。恐ろしいのも内部です。 どうか、諸君は、創価学会の精神は、広宣流布に通ずる、 清らかな精神であることを、生涯、忘れないでいただきたい。 また、それを後輩に教えていっていただきたい。ともあれ、広宣流布は、諸君に委ねます」 と、時に遺言のごとくメンバーの胸に鋭く迫りました。


【偉大なる死――涅槃について】18/19 投稿者:大仏のグリグリのとこ 投稿日:2015年 2月11日(水)09時28分23秒 池田先生は、この講義を青春時代の思い出に終らせるのではなく、広宣流布のために、 生涯にわたる永続的な軌道をつくっておきたかった、と述べています。 さらに先生は、鳳雛たちに指導します。 「私は、今日集まった諸君を、頼りにしてまいります。 諸君が成長してくれれば、私も、年ごとに安心することができる。 しかし、私がこれほどまでに期待しているのに、 もし、諸君に広宣流布の総仕上げをしていこうという心がなく、 団結もできないようならば、それは、もはや諸君が悪いのではなく、私の方に福運がないんだ。 私は、これからも、諸君のことを、十年、二十年、三十年と、見続けていきます。 何人が落ち、何人が残るか、どのように変化していくか―― その結果を見たうえで、広布の総仕上げの、バトンタッチの方法を考えていきたい。 したがって、どんなことがあっても、御本尊を一生涯抱き締めていきなさい。 学会を守り、築いていきなさい――この二つが鳳雛会の根本の精神です。 諸君は、私と師弟の絆で結ばれた人であると思っているが、そう信じていいですね」――と。 そして 「私は今日、諸君に薫発の因を与えた。しかし、自ら大使命に生き抜いていこうという一念、 努力がなければ、結果として、使命の芽は、出てこない。 自分の立身出世や名聞名利ではなく、広宣流布のために何をするかです。 どうか、歯を食いしばり、努力を重ねて、使命を果たしていただきたい。いいですね」と訴えました。 そして鳳雛会の代表二人に七月三日に発刊された「立正安国論講義」に名前を認めて贈りました。 これが小説「新・人間革命」第九巻に描かれた、二十一世紀の檜舞台に躍り出る「師・弟子」の《師弟の絆》の物語です。 貴方はこれを単なる小説と読みますか。 それとも、創価学会の永遠の指導原理と読みますか――。


【偉大なる死――涅槃について】19/19 投稿者:大仏のグリグリのとこ 投稿日:2015年 2月11日(水)09時29分12秒 いずれにしても、この《師弟の絆》の出来事から五十年の歳月が流れ、 この鳳雛たちは現在の六十代の壮年・婦人になりました。 現在、小説「新・人間革命(広宣譜)」に描かれている 《師弟の絆》の物語は、一九七八(昭和五十三)年に、舞台は移りました。 そして、今再び、この時代の高等部員に対して、 先生は万感の思いで「高等部歌」の作詞に着手する場面が綴られています。 そして先生は訴えました。 「高等部員は、全員が創価の大切な後継者である! 私の最高の宝ともいうべき愛弟子である! 二十一世紀の広宣流布のバトンを託す正義の走者である!」 (二〇一五年二月四日付「広宣譜六十三」)――と。 この時の高等部・中等部のメンバーが、現在のヤング壮年婦人世代(五十代・四十代)です。 池田先生は、この未来会のメンバーに、厳しく指導するとともに未来の学会を託しました。 これを最後に記して終ります。 彼は、一人ひとりを見すえながら語り始めた。厳しい口調であった。 「皆さんは、未来会として広布後継の誓いを固めて集われた。学会の未来は、皆さんの双肩にかかっています。 だから、あえて厳しく言っておきます。生涯、誓いを破ってはいけない。甘えてはいけない。 艱難を自ら求め、乗り越えていく『正義の人』になれ――これを守れる人は?」 皆が手を挙げた。 「ありがとう。私は、君たちを信じます。 そして、これから、どのように成長していくのか、見続けます。 次の学会を頼むよ! 君たちは私の宝だ」――。 (二〇一五年二月七日付「広宣譜六十六」) 「諸君の躍り出る本舞台は二十一世紀です。 その来るべき新世紀を、断固として凱歌の世紀にしてほしいんです。 《妙法のメロス》たる王子・王女の皆さんに、私は未来を確かに託しました!」 「我れ今あとを 継がんとて・・・・」 彼は、微笑みを浮かべ、大きく頷いた。 《頼むよ! 頼むよ! 私は嬉しい。君たちのために全力で道を開くよ。戦い抜くよ》 立派な後継者を育てた人が勝利者である。後継の人こそが、いかなる財宝にも勝る創価の至宝である。 (二〇一五年二月十日付「広宣譜六十七」)                                       ― 完 ―


宿坊の掲示板より