創価思想の源流について

【創価思想の源流について】1/39  投稿者:大仏のグリグリのとこ  投稿日:2015年 2月 1日(日)23時32分41秒 編集済

  誠実一路さんから

「日興遺誡置文を今の学会に照らし合わせるとどのように捉えたらよろしいでしょうか」

との質問がありましたが、そもそも日興上人が「遺誡置文」を著した目的は、

「偏に広宣流布の金言を仰がんが為なり」(一六一七頁)

――ひとえに広宣流布せよとの日蓮大聖人の御言葉を仰ぐためである――というのがその目的であり結論です。


この遺誡の真意を身読し、現実のものとしたのは「創価三代の会長」であるということを考えれば、

「日興遺誡置文を今の学会に照らし合わせる」ということよりも、むしろ創価学会会則の


――《第1章 総則 /(三代会長)第3条 牧口常三郎初代会長、戸田城聖第二代会長、池田大作第三代会長の

「三代会長」は、広宣流布実現への死身弘法の体現者であり、この会の永遠の指導者である》――


に照らして見ていく方が価値的だと思いますと述べました。


とはいうものの、

日興遺誡置文を検証するのは決して無駄ではないと思いますので要点だけを若干述べてみたいと思います。


日興遺誡置文については「大石寺五十九世・日亨」が

《「富士日興上人詳伝」聖教文庫》のなかで注解していますので、それを参考に見ていきたいと思います。


日亨はこの遺誡の主要部分を三段に立て分けて注解しています。それは、


第一、万代法則ともいうべき主要にして、かつ永遠性を帯びたもの(五人所破抄・門徒存知事の要点と共通)

第二、永遠性を帯びても普通の一般的なもの

第三、軽重にかかわらず一時的なもの


この三つです。下記がその立て分けです。


■第一 万代法則ともいうべき主要にして、かつ永遠性を帯びたもの

一、富士の立義聊も先師の御弘通に違せざる事。

一、五人の立義一一先師の御弘通に違する事。

一、檀那の社参物詣を禁ず可し、何に況や其の器にして一見と称して謗法を致せる悪鬼乱入の寺社に詣ず可けんや。

  返す返すも口惜しき次第なり、是れ全く己義に非ず経文御抄等に任す云云。

一、未だ広宣流布せざる間は身命を捨て随力弘通を致す可き事。


■第二 永遠性を帯びても普通の一般的なもの

一、謗法を呵責せずして遊戲雑談の化儀並に外書歌道を好む可からざる事。

一、器用の弟子に於ては師匠の諸事を許し閣き御抄以下の諸聖教を教学す可き事。

一、学問未練にして名聞名利の大衆は予が末流に叶う可からざる事。

一、当門流に於ては御書を心肝に染め極理を師伝して若し間有らば台家を聞く可き事。

一、論議講説等を好み自余を交ゆ可からざる事。


■第三 軽重にかかわらず一時的なもの

一、御書何れも偽書に擬し当門流を毀謗せん者之有る可し、若し加様の悪侶出来せば親近す可からざる事。

一、偽書を造つて御書と号し本迹一致の修行を致す者は師子身中の虫と心得可き事。

一、時の貫首為りと雖も仏法に相違して己義を構えば之を用う可からざる事。

一、衆議為りと雖も仏法に相違有らば貫首之を摧く可き事。

一、刀杖等に於ては仏法守護の為に之を許す。但し出仕の時節は帯す可からざるか、若し其れ大衆等に於ては之を許す可きかの事。

一、若輩為りと雖も高位の檀那自り末座に居る可からざる事。

一、先師の如く予が化儀も聖僧為る可し、但し時の貫首或は習学の仁に於ては設い一旦の・犯有りと雖も衆徒に 差置く可き事。


ということですが、日亨はこれらの三段は「必ずしもそれにこだわる必要はない」とも述べています。

 

【創価思想の源流について】2/39  投稿者:大仏のグリグリのとこ  投稿日:2015年 2月 1日(日)23時33分30秒

  ここでは日亨が特に重視した第一の「万代法則ともいうべき主要にして、かつ永遠性を帯びたもの」

とした条目だけを学会に引き当てて考えてみたいと思います。


まず「一、富士の立義聊も先師の御弘通に違せざる事」ですが、

これを学会に照らせば「一、創価三代会長の指導は、いささかも日蓮大聖人の御書に相違していないし、

日興上人の立てる道理にも相違していない」ということだと思います。


これは歴史的事実から見ても客観性から見ても創価三代会長こそが、

日蓮日興という「師弟不二の信心」を継承している万代法則ともいえるものです。


そしてこれが「日蓮大聖人直結」の文証です。


次に「五人の立義一一先師の御弘通に違する事」は、

「日顕・秋谷・八尋・原田・谷川の立てた教義は、一つ一つ、

先師・日蓮大聖人・日興上人・創価三代会長の御化導に相違している」となるでしょうか。


なぜなら、日蓮大聖人の広宣流布を現実のものとしたのは創価三代会長以外ないからです。

これも永遠に変わらない万代の法則です。


また

「一、檀那の社参物詣を禁ず可し、何に況や其の器にして一見と称して謗法を致せる悪鬼乱入の寺社に詣ず可けんや。

返す返すも口惜しき次第なり、是れ全く己義に非ず経文御抄等に任す云云」


とありますが、これを学会に照らせば

「会員が、日蓮大聖人や三代会長の思想に違背した教団に布施をするのはまちがいである。

まして、本部職員でありながら、師匠に違背した輩の生活の面倒を見るなど許されない。

(そのような職員がいることは)返す返すも残念なことである。

これは、全く私が勝手に言っているのではない。経文や御書などに説かれている通りに戒めているのである」

と訳せばどうでしょうか。


創価三代会長が、この誡めの通り「謗法厳誡」を貫いてきたことは万人が知っています。

牧口先生はそのために獄死までされたのです。


そして最後の「一、未だ広宣流布せざる間は身命を捨て随力弘通を致す可き事」――。


この条目こそ二十六箇条のなかで最も重要な、中心となる永遠の規範です。

この条目を実践したのは創価三代会長と創価学会だけです。


学会の本部職員でありながら不惜身命の実践もなく、遊蕩三昧にふけり、

学会の師弟を破壊し、広宣流布を断絶しようとするものは、創価三代会長の敵であり日興上人の敵です。


この仏敵を倒さずして広宣流布はありません。

その時に身命を捨てて責め続けた人が創価三代に連なる本物の弟子だと思います。


以上の条目を現実社会で実践し、

日興上人が重視した「師弟不二の法門」の継承者が創価学会であることを世界に宣揚したのが創価三代の会長です。  


【創価思想の源流について】3/39  投稿者:大仏のグリグリのとこ  投稿日:2015年 2月 1日(日)23時34分27秒

  仏教三千年の流転や日興門流の歴史を見て強く感じることは、いかに優れた人格者や指導者であっても、

必ずその時代の社会体制やその国の文化、風習、民衆の機根等の制約を受けています。


しかし各時代に生きた仏教指導者は「五義」に則り、経典を新たな視点で捉えなおして、

まったく新しい解釈や表現法を使って、仏教哲学へと昇華し、体系化し、その時代の民衆に宣揚していきました。


日蓮大聖人滅後、七百年にして創価学会が誕生し、日興門流が伝え残してきた人師論師の論釈を踏まえつつも、

創価三代会長は独自の視点に立って、日蓮仏法を日本だけでなく世界百九十二カ国地域の人々に宣揚してきました。


この歴史は仏法史上、未だかつて誰もやったことのない壮挙であり、

日蓮仏法史に燦然と輝く黄金の歴史といえます。


では、この「生きた日蓮仏法」を世界に向かって宣揚している創価思想とは、どのようなものなのでしょうか。


これを考えていきたいと思います。


その前に、最初に断っておきたいことは、もともと私のような愚昧の弟子が、先生の思想の全体を

体系付けるなどという傲慢な考えは当然ありませんし、できませんし、先生の全体的な思想なんてわかりません。


まだまだ勉強中です。

また、教えをたれるという根性も毛頭ありません。


ただ、自分が勉強と研鑽をして実感したことの片鱗だけをここでは述べてみたいと思いますので、ご理解ください。


創価学会の「信仰と思想」の核心部分の構成は、

いうまでもなく日蓮仏法を踏まえて形成されてきましたが、


なかでも池田先生の時代に入って、先生の行動を丁寧に追っていくと、

その足跡は多方面に亘り、それは会内会外問わず、常人ではとても理解し難い出来事というしかありません。


池田先生は、第一に創価学会(民衆組織)の指導者であり

「仏教者」「文学者」「哲学者」「教育家」「政策提言者」「写真家」「社会事業家」

「平和運動家」「環境活動家」「民間外交家」「芸術愛好家」「文化運動の推進者」の顔を持っています。


あらゆる面で高度に専門分化された現代社会で、一人の人間が半世紀以上も突出した活動を続けてきたのです。

その行動の多面性に対する思考は、歴史上の偉人を遥かに越える足跡といえるでしょう。  

 

【創価思想の源流について】4/39  投稿者:大仏のグリグリのとこ  投稿日:2015年 2月 1日(日)23時35分23秒

  一九六〇(昭和三十五)年の五月三日、三十二歳という若さで

第三代会長に就任(在職期間十九年間)した池田先生の指揮のもとに、

創価学会は発展に発展を重ね、今では海外一九二カ国・地域に会員が誕生しました。


さらに池田先生の手腕は、単なる会員の拡大だけではなく、急激な組織拡大と共に、

創価学会の運動に「政治的・社会的・文化的」な広がりを持たせ、


一九六二年に「東洋学術研究所(現・東洋哲学研究所)」、

一九六三年に「民主音楽協会」を創立し、

一九六四年に「公明党」を結成しています。


それに加えて

一九六八年に「創価中学・高校」、

一九七一年「創価大学」、

一九八五年に「創価女子短期大学」、

二〇〇一年にはアメリカに「アメリカ創価大学」と、教育機関を次々と創立しました。


この他にも、札幌、シンガポール、香港、マレーシア、ブラジル、韓国の地に「創価幼稚園」を開設しています。


また社会的活動も活発で、

一九七〇年に「欧州経済共同体(EEC)」の創始者であるクーデンホーフ・カレルギー、

一九七二年には歴史家アーノルド・トインビーとの本格的な対談を行うなど、

幅広く国内外の知識人や政治的要人と対話を重ねてきました。


現在までに、世界各国の大学や学術機関から池田先生に対し、

三五五(二〇一四年十一月現在)もの名誉学術称号が授与されています。


これは池田先生の対話運動が、いかに世界中から注目を集めているかを物語っていると言えます。


池田先生が世界中から注目を集めるに至った原因は、池田先生の類まれな人間的な力にあったと共に、

池田先生の「思想」を抜きにして創価学会の思想を語ることはできないと思います。


創価思想の基盤を端的に言うと、日蓮大聖人の仏法(教義)を


「牧口先生の価値論」

「戸田先生の生命論」

「池田先生の人間論」


という三つの視点から社会に展開したものだと見ることができます。


価値創造の実践力を問うた牧口先生の「価値論」は、仏法の「智慧」を志向したものと言えます。

価値の創造とは、対象をより良く生かすことに重点が置かれ、煩悩を断破(煩悩即菩提)した仏の智慧は、

外に向かってはすべてを生かしていこうとする力になっていきます。


だからこそ牧口先生の価値論は、仏法の「智慧の力」を追求したものであり、

人間の実践を主題とした創価思想の「倫理哲学(あらゆる方面の道徳や正邪の基準を考える哲学)」ともいえます。


また「ある」「ない」の二分法では捉え切れない「生命」こそが「仏の正体」であると獄中で悟達した

戸田先生の生命論は、釈尊の説いた「中道」「縁起」、また龍樹の説いた「空観」等と表現される

大乗仏教の真理の現代的表現であると言えます。


つまり、戸田先生の生命論は、創価思想の「哲学それ自体」であると思います。


そして、主体的な人間と人間とが調和的に結びあう世界を展望する池田先生の人間論は、

仏法の「慈悲」を社会理念として定着させるものと捉えることができ、

人間の社会的意義を規定する創価思想の「社会哲学(社会のあり方について考える哲学)」を鮮明にしていきます。


整理すると、仏法の実践論を構成する「智慧」「真理」「慈悲」の三つの側面を創価思想は


「価値論は智慧」

「生命論は真理」

「人間論は慈悲」


として現代に展開し、大乗仏教哲学をそれぞれ違った角度から光を当てたもので、

いずれも独自の思想的価値のあるものです。

 

【創価思想の源流について】5/39  投稿者:大仏のグリグリのとこ  投稿日:2015年 2月 1日(日)23時36分12秒

  戸田先生・池田先生の思想や足跡は、皆さんはよくご存知と思いますので、

ここでは創価の源流である牧口先生の思想と、三代の師弟論の要点を見ていきたいと思います。


牧口先生の著した「人生地理学」が出版されたのは、一九〇三(明治三十六)年、牧口先生が三十二歳の時でした。


「人生地理学」は一〇〇〇ページにも及ぶ大著で、その内容は、地理・地勢だけにとどまらず、

人間社会の営みと地理の関係を語り、自然と共生を訴え、

さらに世界市民の自覚に立った新たな世界観の提示までが描かれています。


つまり牧口先生の考える地理学とは「人と地」の関係を読み解きながら、

人間が生きるうえでの世界観と生きる目的を与えていこうとする学問です。


そして人生地理学にみられる牧口先生の思想・学問の最大の特徴は

「人間・社会・自然」を統合的に把握していた点にありました。


この大著を読んで不思議に思うことは、

仏法で説く「依正不二(依報<環境>と正報<人間主体>は一体である)」の原理が、

この人生地理学にはすでに萌芽的ではありますが含まれていることです。


人生地理学を出版した当時は、まだ日蓮仏法とはめぐり合っていませんが、

人間がよって立つ環境を大事にしようとする考え方は、その後の「創価教育学」にも貫かれています。


別の言い方をすれば、牧口先生の学問は、

始めからその対象がつねに人間と生活を離れないものであったということです。


人生地理学のなかで牧口先生は、吉田松陰の

「地を離れて人なし。人を離れて事なし。人事を論ぜんとせば、まず地理を究めよ」という言葉を引用し、

人生地理学の『人生』を説明しています。


それは「人間の一生」と「人間の生活」の二つの意味があって

人生地理学の場合は「人間の生活」を意味しました。

つまり「人生」とは「人の生活」という意味です。


牧口先生は、晩年に日蓮仏法の信仰に入るわけですが、

この時の思考が人生と真剣に取り組んでいく中で、一層仏法的な生き方へとふくらんでいったとも考えられます。


現在、環境破壊等の問題を契機にして生態学的な発想に立って、

人間と自然の調和を図っていかなければならないという考え方が世界中に広まっていますが、


識者の間で「人生地理学」の発想・視点が注目されているのも、

人間と自然を統合的にとらえているからだと思います。


そのことは同時に、仏法の「依正不二」の原理がますます関心を集めていくということでもあるのです。

 

【創価思想の源流について】6/39  投稿者:大仏のグリグリのとこ  投稿日:2015年 2月 1日(日)23時39分1秒

  牧口先生は、一九二八(昭和三)年六月に日蓮正宗に帰依しますが、

それ以前の宗教観は、どのようなものだったのでしょうか。


それを見ていきたいと思います。


まず

『創価教育学体系「法華経と創価教育」※読みやすいようにしました』の中で


「もとは禅宗の家に生れ、法華の家に養はれたのであったが、なんら信仰の念はなかった。

苦学力行の青年期に敬愛し親近した師友は、キリスト教徒であったが、

ついに入信の程度には至らなかった。


壮年上京以後、儒教の道徳だけでは不安に思えて、再び禅に参じ、

キリスト教徒に聴き、深呼吸法をも習い、その他の教説にも近づき多少の入信はしたが、

ついに深入りするには至らなかったが、神道に基づく禊会(みそぎかい)には十数年間、

夏冬のいづれかに参加し、お陰で今もなお毎朝の冷水浴は欠さないほどに至っている。


が、心から信仰に入ることは出来なかった。いづれも科学および哲学の趣味を転ぜしめ、

又はそれと調和するほどの力あるものと感ずることはなかったからである」

(牧口常三郎全集八巻四〇五頁)と述べられています。


合理的、実証主義的な生き方を貫いている牧口先生ではありましたが、

この述懐でもわかるように、牧口先生の人生行路は必ずしも平穏とは言い難く、

それらの苦悩と関連付けて宗教遍歴を自分なりにうなずける向きがあったのかも知れません。


事実、一九二四(大正十三)年十二月、五十三歳の時に次男の善治(二十三歳)・

一九二八(昭和三)年七月、五十七歳の時に四男の長志(十九歳)が相次いで亡くなっています。


家庭の不幸、しかも最愛の子息を亡くすという出来事は

五十代を向かえた牧口先生にとっては耐え難い苦悩であったと思います。


牧口先生にとって「信仰に入る」という道程は、

「科学および哲学の趣味を転ぜしめ、又はそれと調和するほどの力あるものと感ずる」ものであって、


ある種の宗教教団の教祖の説や、それを現在に伝えている時の代表者(法主的なもの)の言葉を、

盲目的に信じて随順するものではなかったということです。


これらの宗教遍歴を見てもわかるように、もともと牧口先生は宗教を否定するような態度はとっていません。

 

【創価思想の源流について】7/39  投稿者:大仏のグリグリのとこ  投稿日:2015年 2月 1日(日)23時40分4秒

  それは、一九三〇(昭和五)年に刊行した『教育学体系』第一巻の「教育学組織論」で


「もとより我々といえども、科学をのみ万能視するものではない。

科学の力を以て、宗教や芸術の領分までも解釈し、解決し、得べし、とするものではない」

(牧口常三郎全集五巻三〇頁)と述べていることからも明らかです。


むしろ牧口先生は、宗教への関心は強かったように思うのです。

というのは、北海道時代(当時二十八歳)の一八九九(明治三十二)年五月十三日に、

北海道師範学校の食堂で開催された「同校同窓会」の席上で請われて行った演説「山と人生」

の論文を見ても、その一端が見受けられるからです。


そこには

「宗教家が山において大観することや、日蓮の身延山に入り、空海の高野山に入り、

最澄の比叡山に登りて一派の宗教を開くが如きは、日本の宗教が山において発達せりと云ふを得べし・・・・


世界の大宗教は又、山において発達せり、

釈迦のヒマラヤ山中の霊鷲山において仏教三千年の基を開きしが如き・・・・


要するに、半島が両陸間交通の媒介をなすが如く、山は実に天と人とを結び交際せしむるもの」

(牧口常三郎全集七巻三四四頁)と述べ、


さらに

「吾人はこれ点より観察して、天を知り、天を解し、天と融合するを得べし。

そして天に近くと共に益々、その勢力広大無辺なるを知るに比例して自己の微弱なるを知り、

これにおいて吾人は高等なる一の勢力に支配せらるを悟る、これ宗教趣味のよりて生ずる所なり」

(同三四六頁)と結んでいます。


このように宗教が

「個人の精神界に偉大の影響ある」(一九〇三年十月十五日、文會堂書店刊「人生地理学」七〇七頁)と、

とらえる牧口先生の態度は一貫しています。


そして同じく『人生地理学』の《宗教上の吸引力》に


「人智の発達に従って宗教心の減退するか否かは別問題として、

宗教と崇拝地との関係が人智の発達と共に、疎隔するの傾向あるは争うべからざる事実なり。


発達したる人民は必ずしも宗教の起源地、其の他の霊地を参詣せずとも

内心の信仰によりて其の宗教心を満足するを得るに至るが故なり」(同九二四頁)と明確に述べています。


牧口先生は、宗教が人間の精神面において偉大な影響力を持っていると自覚しつつも、

その宗教宗派の「起源地やその他の霊地」に価値を置いていたのではないのです。

 

【創価思想の源流について】8/39  投稿者:大仏のグリグリのとこ  投稿日:2015年 2月 1日(日)23時40分46秒

  事実、牧口先生は日蓮正宗に帰依してからも

「発達したる人民は必ずしも宗教の起源地、其の他の霊地を参詣せずとも、

内心の信仰によりて其の宗教心を満足するを得るに至る」という考えは、いささかも揺らいではいません。


それは、当時の状況を語った戸田先生の論文『創価学会の歴史と確信』を読めばわかります。


そこには

「御開山上人の御遺文にいわく『時の貫首為りと雖も仏法に相違して己義を構えば之を用う可からざる事』、

この精神において、牧口会長は、神札は絶対にうけませんと申しあげて下山したのである。


しこうしてその途中、私に述懐して言わるるには、

『一宗がほろびることではない。一国がほろびることを、なげくのである。

宗祖聖人のお悲しみを、おそれるのである。いまこそ国家諌暁のときではないか、なにをおそれているのか知らん』」と。

(戸田城聖全集第三巻一〇六頁~七頁)。


牧口先生の態度は、あくまでも「大聖の教義にそむけば」であり、

「一宗(日蓮正宗)がほろびることではない。

一国がほろびることをなげくの」であり「宗祖聖人のお悲しみを、おそれるので」あって、

時の法主の指南に信伏随従していた訳ではないのです。


この精神は、創価学会創立以降、二代・三代会長に受け継がれている精神で、

創価学会は始めから「御本尊根本」「依法不依人」「御書根本」に立って広宣流布を推進して来たのです。


これを今の私たちに置き換えればどうなるでしょうか。


「創価学会が滅びることを嘆くのではない。

日本や世界の民衆が不幸になっていくことを嘆くのである。

大聖人の悲しみ、三代会長の悲しみを恐れるのであって、

私たちは時の会長や組織の方針に信伏随従しているのではない」ということになるでしょうか。


私たちは、今までも、これからも、

永遠に「御書根本」「三代会長根本」に立って広宣流布を推進していくのです。


これが創価三代に受け継がれている学会精神であり、本門の池田門下生が歩む道です。


牧口先生が入信して三年目に当たる一九三〇(昭和五)年十一月十八日、

『創価教育学体系』第一巻が刊行されたのを機に、牧口先生と常に行動を共にしてきた

戸田先生の二人の手によって「創価教育学会」として歩みを開始しました。

 

【創価思想の源流について】9/39  投稿者:大仏のグリグリのとこ  投稿日:2015年 2月 1日(日)23時42分35秒

  創価教育学体系・第一巻では、

科学と宗教・芸術とは領域が異なり、科学だけでは宗教的問題のすべては解決しないことを述べ、

ただ科学と重なる領域での説明を「宗教と科学」の矛盾があってはならないと述べられるのです。


そしてこの一巻の段階では、

まだ後に主張するような「宗教の科学的証明」ということは全く述べられていませんでした。


そして「創価教育学体系・第一巻」出版後、四ヶ月もたたずに一九三一(昭和六)年、

牧口先生六十歳・入信四年目に『創価教育学体系・第二巻「価値論」』を出版します。


つまり第一巻では、人間の生きる目的を「幸福」に置き、その幸福を「価値」の獲得と定義して、

次の第二巻で「価値」の内容について考察していくのです。


そして牧口先生は、日蓮仏法を「価値論の観点」から多くの人々に理解させていきました。


なぜそうしたかというと二点あります。


一点目は「日蓮仏法が真理である」ということを理解させるための「手段」として価値論を使ったということです。

簡単にいうと仏法とは本来、成仏のための修行法を説いたものですが「仏」とはどういう存在であり、

日蓮大聖人の説く「修行法のみが正しい」ということを価値論によって説明したのです。


牧口先生は価値論によって日蓮仏法が科学的「超宗教」(牧口常三郎全集八巻八一頁)

であることが証明できると考えていました。


二点目は、日蓮仏法に従った「生活」がどのような意義を持っているかを説明するために価値論を使ったということです。

牧口先生は一九四一(昭和十六)年《牧口七十歳》ごろから、

日蓮仏法に従った「生活」こそ、最高の生活(大善生活)であると強調していきます。


これは、道徳の根底に仏法を置いたことを意味し、

仏法を生活法と無縁なものと解釈してはならないという主張です。


牧口先生は「価値論は信仰への梯子段である。梯子段なしでは二階へ上がれない」と述べています。


このことについては、副会長の和泉覚氏も、


「私たちは、どちらかというと牧口先生をとおして耳学問で勉強した方だ。

それで牧口先生は『価値論は御本尊に到着するハシゴだよ』といつも話され、

信心の原典である御書の重要性の方をむしろ強調されていた。

そのことを本当に理解し、自身で受け止めていた人は、退転するようなこともなかった。

しかし、そのことが分からずに価値論だけに走っていた人も実際にはいて、ほとんどみな退転していった。

これは後世への重要な戒めでもある」

(創価学会の歴史と伝統「昭和五十一年六月六日 聖教新聞社発行」二六頁)と証言しています。

 

【創価思想の源流について】10/39 投稿者:大仏のグリグリのとこ 投稿日:2015年 2月 1日(日)23時43分20秒 また、大石寺・日淳も 「よく先生(牧口のこと)は『真・善・美』に於いて『真』は相待の世界にをかず 『善』と『美』とをそれにをいて、絶待の『真(日蓮仏法のこと)』より絶待の『善』を見て大善と称し、 此れを大善生活と殆んど口ぐせの様に言ってをられました」 (「価値創造」<再刊>第十一号、昭和二十二年十一月一日)と述べています。 つまり、価値論は仏法理解の手段であると同時に、 仏法が価値論の完成の根底ともなっているという関係です。 これは、一般的には「科学と宗教の関係」と「宗教と道徳の関係」という 問題になるわけですが、牧口先生はそれを価値論を通して解釈していったのです。 それでは「価値論」の内容を見ていきましょう。 まず初めに確認したいことは、戸田先生は『価値論・補訂再版の序』で 「恩師牧口常三郎先生が獄中に逝いて既に十年、来る十一月十八日をもって十周年を迎えることとなった。 先生の御一生を通じて特に先生の偉大な御功績の思想的な背景となったものは、実に此の価値論である。 ・・・・先生は広くこれを問うために、創価教育学体系の出版に着手されたのであったが、 ・・・・世界の哲学界が、先生の学説を理解するためには先生の没後三十年はかかるであろうと申し上げたことがあった。 これを聞かれた先生は多少御不満のようであったが、事実はその通りになろうとしている。 今ここに、先生の十周忌を期して、先生の価値論を校正増補し、世界の学界に問わんとするものである。 但し先生の御出発は教育学にあり、価値論の著述に当たられた当時もこの面に重点があった。 然し晩年には生活指導法の原理として価値論をお説きになっている。 今余はこれを承継して世に問うものである」(価値論 第三文明社 昭和五十四年発行)と述べています。 つまり、戸田先生も牧口先生の「生活指導法の原理として価値論」を継承しているという事実です。 牧口先生は、第一章・緒論の冒頭で 「創価学説の目的とする所は、個人にとっても社会にとっても全人類の一人一人が無上最大の幸福を獲得するにある。 而してその幸福の要素はすべて価値の創造である」(十六頁)と、創価学説の目的を述べ 「如何なる価値を獲得し、如何なる価値を社会に提供する事ができるか、 そのためにこそ努力精進しているのが人生の実相である。 故に創価学説を理解することが即ち人生の指導原理を確立することである」(同頁)と方向性を示しました。 ・・・・つづく。

 

【創価思想の源流について】11/39 投稿者:大仏のグリグリのとこ 投稿日:2015年 2月 2日(月)11時42分19秒 それでは、牧口先生の宗教に対する考え方を「価値論」から見ていきましょう。 ①「人を救い世を救うことを除いて宗教の社会的存立の意義があるわけがない」(一四二頁)。 宗教の社会的存在の意義として「人を救い世を救う」宗教でなければ、その存在意義はないと批判しています。 ②「宗教と科学との関係においては互いに対立し、絶対に相容れない様に思われているのが現代の常識である。 神の世界・仏の世界・それらは科学者の望み得ない世界とし、わからないものだとしている。 ・・・・以上の様な宗教と科学の関係を正しいとしている宗教は『真実の宗教』ではないのである。 ・・・・真実の宗教は、その研究態度が科学的であり、 その研究の結果は論理的に体系づけられ且つ科学的な実験証明がなされねばならぬ」(一四三頁~一四四頁)と述べました。 このように「宗教と科学」とを対立的に考えることを批判したのも、日蓮仏法は、科学とは対立しないことを知ったからです。 つまり「道理と文証と現証との具有にあらざれば、仏法論述の自由を禁ぜられてある」(牧口常三郎全集五巻三五九頁) と述べているように、文証(文献的証拠)、理証(理論的整合性)、現証(実験証明)という真理の確定方法が、 科学においても仏法においても共に必要とされることを指摘しているのです。 ③「この本尊(日蓮図顕の本尊のこと)は、仏法の最高理論を機械化したものと理解してよろしい。 ・・・・仏教の最高哲学を機械化した本尊は何に役立つかと云えば、人類を幸福にする手段なのである。 されば日蓮大聖人の最高哲学の実践行動は、この御本尊を信じて南無妙法蓮華経と唱えるにあって、 この実践行動によって人類は幸福になり得るのである。 以上述べたように、宗教とは人生に幸福をもたらすべき物でなければならない。 すなわち、個人に、また社会に『利・善・美』の価値を創造させる根本のものというべきである」(一四七頁) と述べ、宗教のための宗教ではなく、人間が幸福になるための宗教でなければならないと断言しました。

 

【創価思想の源流について】12/39 投稿者:大仏のグリグリのとこ 投稿日:2015年 2月 2日(月)11時43分4秒 ④「宗教とは人間が人間以上のある対象を神とか仏とか名づけて信仰していることであると考えている人がある。 ・・・・その本尊がどんな力を持ち、どんな作用を持っているか、すなわちその本尊の実体を明らかにしなければ、 これを信仰の対象とすることが馬鹿らしいことである」(一八〇頁~一八一頁)、と述べています。 牧口先生は、人間が人間以上のある対象を神とか仏とか名づけて信仰をするのではなく、 あくまでも法(御本尊)を対象として信仰していくことと考え、 その本尊の実体が明らかなものを用いるべきであると考えていました。 これを見ても明らかなように、牧口先生は徹底して「依法不依人」という精神に立って宗教を検証しているのです。 ⑤「日本人の多くは仏教の各宗派に属していて、先祖伝来の墓を守り、 お盆やお彼岸にはそこへ参詣して僧侶に供物でも上げたり墓の掃除をすることなどが 宗教であると考えている者が多い。 これに対しては現代の腐敗した寺院の僧侶たちは喜ぶにちがいないが、 これでは釈尊の真意はまったく忘れさられてしまったのである」(一八三頁~一八四頁)。 牧口先生は、葬式や法事などの形式は宗教ではないと考えていました。 どこまでも「皆が幸福を求め、自己自身も幸福になり、平和で幸福な社会を建設するために、 根本的な原理となり、規準となるものが宗教でなくてはならない。(趣意)」(一八四頁) と考えていたのです。 このように価値論を見てみると、宗教は現実の人生や社会に価値を創造しなければ、 意味がないと考えており、葬式仏教と化した既成仏教を厳しく批判しています。 また、人間以上の何かに人間がひれ伏していくような信仰のあり方にも疑問を持っていました。 この牧口先生の宗教批判は、日蓮大聖人の宗教批判とみごとに合致しています。 現代に至り、ようやく世界各国で正当な評価が始まった「価値論」ですが、 牧口先生が生命本来の価値を創造することに、信仰の本義を置いていた日蓮仏法にたどりついたことは、 当然といえば当然だったのかもしれません。 日蓮宗各派の中で、牧口先生が日蓮正宗を選択した理由は、 端的にいえば、日蓮正宗が他の日蓮宗各派よりは正しく日蓮の信仰を今に伝えていると判断したからでしょう。

 

【創価思想の源流について】13/39 投稿者:大仏のグリグリのとこ 投稿日:2015年 2月 2日(月)11時43分53秒 牧口先生は、一九二九(昭和四)年二月のある日の夕刻、目黒にあった戸田先生の自宅を訪ねます。 「戸田君、小学校校長として教育学説を発表した人は、いまだ一人もいない。 ・・・・私は、小学校校長として現職のまま、この教育学説を、今後の学校長に残してやりたいのだ」。 そう話し出す牧口先生の思いを聞きながら、戸田先生は師(牧口)の学説の体系は自分が出版しようと決意します。 「先生の教育学は、何が目的ですか」 「価値を創造することだ」 「では先生、創価教育と決めましょう」 こうして、牧口先生の教育学説は「創価教育学」と名付けられることになったのです。 その後、牧口先生は率先して全国を回り、活発に活動していく中で、宗教の研究法を詳細に語っていきました。 この「宗教の研究法」の主張は、一九三七(昭和十二)年の 「創価教育法の科学的超宗教的実験証明」の中に記されています。 そこには 「先ず『師』とするに足る正しい人の言を信じ『如説の実行(師の教説の通りに実践する)』をなし、 体験によって価値の有無を証し、無価値なる主観的の観念論を捨て、以て人をも離れて生活関係の『法』を信ずるのである。 さらに何故に価値が証明されるかを、経文ならび道理にただして、益々信仰を確立し、 かくて価値の遠大と近小とを比較対照して研究し、ついに無上最高の極意に達し、 ここに初めて畏るる所なき安全の境地に達する。 『(一)信、(二)行、(三)学』という科学」(牧口常三郎全集八巻七四頁)と述べています。 ここは大事なところなので、詳しく解説します。 牧口先生は、宗教の研究法として「先ず『師』とするに足る正しい人の言を信じ」、これが(一)の「信」。 その「言説の如く実行し、体験によって価値の有無を証し」、これが(二)の「行」。 もって人をも離れて説かれている生活関係の法そのものを信じ、 さらに何故に価値が証明されるかを「経文ならび道理にただして」、これが(三)の「学」。 いよいよ信仰を確立するというように、 宗教における価値の「遠大と近小」を比較対照して研究することを力説しました。 この考えは、日蓮大聖人の「一閻浮提第一の御本尊を信じさせ給へ、あひかまへて・あひかまへて・ 信心つよく候て三仏の守護をかうむらせ給うべし。行学の二道をはげみ候べし、行学たへなば仏法はあるべからず。 我もいたし人をも教化候へ、行学は信心よりをこるべく候、力あらば一文一句なりともかたらせ給うべし」(一三六一頁) の御文が基本になっていると思います。

 

【創価思想の源流について】14/39 投稿者:大仏のグリグリのとこ 投稿日:2015年 2月 2日(月)11時44分35秒 編集済 このころ創価教育学会の会員は、 青森・宮城・新潟・長野・茨城・神奈川・兵庫・山口・宮崎・鹿児島などの各県に広がっていて、 支部も東京に九支部、地方に七支部という陣列になっていました。 教育改造を目指してきた創価教育学会が、 宗教革命を根底とした「生活革新運動」へと姿を変えはじめたのは、 一九三九(昭和十四)年(六十八歳)のころからです。 地道な運動のなかで、教育者ばかりではなく、 家庭の婦人や一般の職業の人たちも会員に多く集まっていました。 じつはこの頃、牧口先生自身も法華経はすべての生活法の革新の鍵で、 教育法の改革はその一部にすぎないという思いを強く持つようになっていたのです。 同年十二月に東京で総会を開き、教育者はもとより、 教育者ではない会員も多く参加し、この会の事実上の「第一回総会」としました。 そして、一九四〇(昭和十五)年十月(六十九歳)の時に、「第二回総会」を開いて、 創価教育学会の綱領・規約・組織などが検討され、この時点で牧口先生は、 「創価教育学会研究部・研究所長」から正式に「会長」の任に就き、戸田が「理事長」に就任しました。 この綱領が、翌年の一九四一(昭和十六)年の「価値創造」(創刊号二号~四号)に発表され、 そこに記された「会の目的」には 「第二条 本会は日蓮正宗に伝はる無上最大の生活法たる三大秘法に基づき、 教育・宗教・生活法の革新を計り、忠孝の大道を明らかにし、 以て国家および国民の幸福を進めるを目的とす」(牧口常三郎全集十巻六二頁)と定めたのです。 そこには「三大秘法に基づき」「教育・宗教・生活法の革新を計り」 「国家および国民の幸福を進めるを目的」と明記され、仏法流布を推進することが確認されました。 つまり牧口先生は 「日蓮大聖人の大願とする広宣流布を実現する団体」と創価教育学会を位置づけたのです。 この年の「価値創造」発刊の時期は、あくまでも一対一の対話を基本にする座談会という形で、 本格的な宗教革命運動の実践(大善生活法の実践・折伏行)が急激に盛り上がっていたのです。

 

【創価思想の源流について】15/39 投稿者:大仏のグリグリのとこ 投稿日:2015年 2月 2日(月)11時45分15秒 繰り返しになりますが、当時の創価教育学会は、日蓮正宗の在家信徒ではありましたが、 創立時から「御書根本」「広宣流布根本」の団体であり、旧法華講のような 在家信徒が寺院や僧侶に盲目的に所属し、説法を受けるとの図式ではなかったのです。 この方程式に則って現在を語れば、会員は組織や幹部に盲目的に所属し、 説法を受けるという図式ではなく、学会組織と連携しつつ、一人一人が自分の頭で考え、 地域の広宣流布達成を目指していく責任と使命を自覚して、実践する時代がいよいよ到来したといえるでしょう。 昭和に入ると軍国化した政府は、 一層宗教統制を強め、「大本教」「ひとのみち」「ほんみち教団」を弾圧して壊滅させています。 一九四一(昭和十六)年には、国家神道の下に宗教統制する目的で「治安維持法」が改定され 「神宮の尊厳を冒涜すること」が刑罰の対象となり宗教弾圧の口実とされました。 それにより、新宗教やキリスト教各派が弾圧されることになるのです。 国家権力は、日蓮宗各派に対しても、御書の中に天皇や神に対する不敬があるとして削除を求めてきました。 同年三月十日、日蓮正宗・本山で「僧俗護法会議」が開催され、牧口先生は戸田先生と共に出席します。 その席上、牧口先生は、合同を迫る小笠原一派に対し、軍部政府の宗教政策に迎合することなく、 日蓮仏法の正法正義をつらぬくように主張しました。 その背景には、当時、宗門の高僧だった小笠原慈聞が、軍部とつながりがあって、 宗門に「神本仏迹論(神が本地で仏を迹とする邪義)」へ教義の改変をするように主張していたことにありました。 本地垂迹説が、天照太神を絶対的な存在としていた当時の国家主義思想と正反対であるため、 権力による弾圧におびえた宗門は、本地垂迹説関連の御文の箇所を削除することで、 国家権力と神道に屈服し、日蓮大聖人の正義を捨てたのです。

 

【創価思想の源流について】16/39 投稿者:大仏のグリグリのとこ 投稿日:2015年 2月 2日(月)11時46分0秒 同年六月「身延派・顕本法華宗・本門宗」が合同した「新日蓮宗」では、 御書七十余編の中の二百八か所の削除を決め、さらに「日蓮大聖人縮刷遺文」を絶版にし、 発行を禁止しています。 同年八月二十四日、日蓮正宗でもそれにあわせて、宗務院の院達を出して御書の発刊を禁止しました。 削除された中には、 「日蓮は一閻浮提第一の聖人なり」(聖人知三世事九七四頁)、という箇所も入っていました。 そのほかにも、天照太神を低い位置に置いた御文を削除しましたが、 それは天照太神への不敬になることを恐れたからです。 また、国主について述べた箇所や、後鳥羽上皇が幕府に敗れて 流罪されたことを述べた御文が削除されたのは、天皇への不敬となることを恐れたからです。 国家神道一色に塗りつぶされ、軍国主義に押し流されていく時局の真っ只中で、 牧口先生は同年七月、創価教育学会の機関紙として「価値創造」を創刊し、 精力的に論文を書いて会員の指導にあたっていきました。 そして、今までにも増して座談会や地方折伏に情熱をそそいでいきます。 座談会では、御書を引いて話しをするようになり、厳格に日蓮仏法を守り、謗法払いもつづけていました。 さらに同年十一月五日、創価教育学会・九州総会が開催されます。 この当時の情況が「牧口常三郎(聖教新聞社刊)」のなかで再現されています。 少し長い引用になりますが見てみましょう。 「牧口の一行が当日、初の九州総会の会場にあてられていた福岡県二日市の武蔵旅館へ 到着したときには、すでに福岡市八女郡福島町などから、かけつけた約四十人の人たちが待っていた。 このとき、初めて九州の各地に散らばっていた会員が一堂に会したのであった。 総会の準備にあたっていた、人のよい、真面目な小学校校長の安川鉄次郎は 『大変なことになりました。特高刑事が三人もきています。総会ができるかどうか』とただおろおろするばかり。 牧口は『なに大丈夫だよ』というと、二階広間へ平然とあがっていった。 そのとき、白い着物を身にまとった男が牧口の前にはだかり 『国が天照太神の奉祀をすすめているのに、それを悪くいうような宗教はおかしいではないか』と大声で怒鳴り始めた。 その男は、高飛車な態度でまくしたてる。 『どうだ、答えられないだろう』――。

 

【創価思想の源流について】17/39 投稿者:大仏のグリグリのとこ 投稿日:2015年 2月 2日(月)11時46分42秒 牧口は男の方に視線を向けたまま、しばらくは沈黙していた。 男もいうだけのことをいうと静かになった。 牧口は出席者の方に向き直ると『天照太神とは法華経の行者を昼夜にわたって守る諸天善神なのです。 ・・・・現実生活に証明される大善生活法は、人生の理想として誰人も渇望している。 仏教の極意である成仏法こそ妙法であり「神ながらの道」の神髄もこれでなくてはならない』と説き始めた。 出席者の表情もやわらぎ、次第に牧口の話に吸い込まれていった。 いつの間にか、男の姿は消えていた。 こういう突然の出来事で始まった総会は、そのあと会員の体験発表に続いて質問会へと移った。 そして『時間だ』と特高刑事がストップをかけるまでの二時間、牧口は淡々とした態度で指導を続けた。 (一三六頁~七頁)」(牧口常三郎全集十巻八六頁)――と。 牧口先生にとって宗教は、実生活のうえに、 どれだけの価値をもたらすかが「正邪」の判断の唯一の基準だったのです。 会員たちの実生活のうえに現れる体験や変化は、 そのまま牧口先生の日蓮仏法への確信になっていったのです。 そんな中、同年十二月八日、日本は米英に宣戦布告。 太平洋戦争(第二次世界大戦)が始まりました。 一方、弱腰であった宗門の時の貫主は、第六十二世日恭です。 日恭は戦争が始まった時、宗内一般に対して「訓輸」を発し、開戦の必然性を述べたうえで 天皇の威光のもとに陸海軍が多大な戦果をあげたことに感謝し「仏祖の遺訓に基づき」 未曾有の大戦に必勝を期すべきであると日蓮大聖人の教えを都合よく利用して、開戦を賛美し戦意を鼓舞したのです。 牧口先生は、一九四二(昭和十七)二月からは、座談会の名称を「大善生活法実証・座談会」と変え、 会員たちに「菩薩行」に徹する「大善生活」を強調していきます。 そのころ、創価教育学会の支部は、東京に十六、地方に十二を数え、会員数は四千人にまでなっていました。 太平洋戦争の戦時下にあっても、牧口先生の行動は衰えることはありませんでした。 しかし、国内の思想統一を企てる軍部権力によって、反戦思想とみなされた宗教団体や思想団体への弾圧が激しくなり、 創価教育学会の機関紙「価値創造」も治安当局の指示で廃刊を命じられ「価値創造(大善生活実証録)」は 同年五月十日発行の第九号をもって廃刊となりました。 創価教育学会の活動を、治安当局は危険視し出したのです。

 

【創価思想の源流について】18/39 投稿者:大仏のグリグリのとこ 投稿日:2015年 2月 2日(月)11時47分27秒 ちなみに、この「価値創造」第九号には、 『実験証明』の第七章にある「法罰観」をそのまま全文掲載し、その中で 「日蓮宗中の邪法信者のみならず、吾々、日蓮正宗の信者であっても、純真に大善生活を行しているものを 怨嫉するものは『法華経を信ずれども信ずる功徳なしかへりて罰をかほる』こととなるのである」 (牧口常三郎全集十巻四九頁)と付け加えています。 牧口先生は、日蓮正宗内部における反対にもかかわらず「法罰」を主張しました。 「価値創造」が廃刊となったため、それに代わるものとして、不定期刊行という形で、 同年八月十日発行の「第四回総会報告」と、同年十二月三十一日発行の「第五回総会報告」を発行します。 そして「価値創造」廃刊直後に第四回総会が五月十七日に開催され、 約四百名の会員が一橋の会館に集まり「価値創造」復刊のための請願書を提出中であることが述べられていますが、 それが認められなかったために「大善生活実証録」を出版しました。 この第四回総会での牧口先生の講演の内容は、 まず会員が大善生活実証の体験談を数多く発表したのをねぎらい、その実験証明の意義を強調し、 次いで、せっかく入信しながら退転して地獄の生活に落ちるものも居ると語り 「そこで退転しない様にと座談会があるのです。 あるいは又、体験談を実際に持ってきて始めて論より証拠を示しあうので、 お寺だけでは出来ない事を、我々が演じているのであり、ここに本会の大切なる価値があります」 (牧口常三郎全集十巻一四五頁)と創価教育学会の存在意義を明かしています。 そのうえで 「同じ正宗信者でも自分だけがよいと云う独善主義の従来の信仰者は、個人主義の信仰であります」(同一四六頁) と訴え、日蓮正宗旧法華講を批判し 「我々は菩薩行をなし、人のために骨を折り、大慈悲を施さねばならぬ」(同一四七頁) と、会員に自覚を促しています。 さらに 「我々は国家を大善に導かねばならない。敵前上陸も同じである。 数千人の説教中に一人も残らないような従来の教化運動とは異なり、十年前はただ一人だった同志が、 このように、繁栄したのは、全く信仰の基礎に立ち、現証を示し合えばこそである。 ここまで来たのを以て察するに、今後とも、家庭を救ひ社会を救い、 そうして広宣流布に到るまでのご奉公の一端も出来ると信ずるのであります。 お互はこの大事な使命を帯びていれば、自分本位ではなく、利用するのでなく、如何なる時にも、 この選ばれた大善人である事を自覚して精進せんことを誓わねばならぬ」(同一四七頁~八頁) と訴え、当時の国家権力を相手に、広宣流布の実現のための使命をはたすことを初めて打ち明けました。

 

【創価思想の源流について】19/39 投稿者:大仏のグリグリのとこ 投稿日:2015年 2月 2日(月)11時48分10秒 当時、会員の多くは生活における「罰・功徳」の現証を通じて仏法を理解していましたが、 牧口先生はより一層深く「宗教的使命」を自覚して、そのことを会員に訴えていたのです。 しかしそんな牧口先生とは裏腹に、宗門は同年八月に教師練成講習会を大石寺で開催し 「寺院にあっては庫裏に神札を祀るように」と徹底しており、難が及ばないよう必死で対策をとり、 仏法の正義に完全に背いていたのです。 日蓮正宗宗務院は、一九四二(昭和十七)年十月十日付けの院達で、毎年十月十七日に行われる 伊勢神宮の神嘗祭(かんなめさい)の当日、午前十時を期していっせいに各在所において 「神宮を遥拝(遠くから拝む事)せしむる様」に信徒に徹底するよう通達しています。 また、同年十一月十九日には、日蓮正宗・報国団が結成され、総裁には日恭が就任しました。 そして、宗務院に本部が置かれ、全僧侶・信徒が団員とされ、 日恭の指南のもと、戦争に協力し、献金を行うなどの事業を行っていきました。 そんな中、創価教育学会は同年十一月に第五回総会を行っています。 「第五回総会報告」に掲載された牧口先生の総会講演では、 法華経の「信者」と「行者」と「学者」の研究に対して論及しています。 そこには、日蓮正宗の御本尊を信じて題目を唱えるけれども、 他人に仏法を教えるという菩薩行をしない者のことを「信者」といい、 菩薩行をする者を「行者」であると区別しています。 それが次の文です。 「われわれ正法信者の仲間にもなお、信者と行者と学者との区別があり ・・・・信者と行者と区別しなければならない。 信ずるだけでもお願いをすればご利益はあるに相違ないが、ただそれだけでは菩薩行にはならない。 自分ばかりご利益を得て、他人に施さぬような個人主義の仏はいないはずである。 菩薩行をせねば仏にはなられぬのである。 すなわち、親心になって他人に施すのが、真の信者であり、且つ行者である」(同一五〇頁~一頁)――と。 そして、菩薩行をする者には経文の予言通り「三障四魔」という迫害が生ずることを述べます。 「さて、そうすると必ず魔が競ひ起るのであって、日蓮大聖人は『この法門を申すには必ず魔出来すべし。 魔競はずば正法と知るべからず』と仰せられ、又摩訶止観の『第五に曰く、行解既に勤めぬれば三障四魔紛然として競ひ起る。 乃至随ふべからず、畏るべからず。之に随へば人をして悪道に向はしむ。之を畏るれば正法を修することを妨ぐ等云々。 此釈は日蓮が身に当るのみならず門家の明鏡也。謹みて習ひ伝へて未来の資糧とせよ』と仰せられたのはこれである」(同一五一頁)――と。

 

【創価思想の源流について】20/39 投稿者:大仏のグリグリのとこ 投稿日:2015年 2月 2日(月)11時48分51秒 さらに、 ①「日蓮大聖人御在世当時の天台宗は、現今の日蓮宗の中でも『日蓮正宗』に相当すると思はれる。 さらば従来の日蓮正宗の信者の中に『誰か三障四魔競へる人あるや』と問わねばなるまい。 そして魔が起らないで、人を指導しているのは『悪道に人をつかはす獄卒』ではないか。 然らば魔が起るか起こらないかで信者と行者の区別がわかるではないか」(同一五一頁~二頁)。 ②「旧式信者の中には、『創価教育学会の連中は罰をいったりしてひどい』と非難して、 せっかく信仰に入った弱い婦人などを退転させるものがあると聞くが、御当家の御僧侶中にも一緒になって、 こういう事をいう人があるということである。これは実に容易ならぬ謗法の行いである」(同一五二頁)。 ③「言わねばならぬことを、どしどし言うて折伏するのが随自意の法華経であらせられると思ふ。 故に我々はこれで戦ってきたのだが、今日の盛大をいたした所以であり、今後もそれで戦はねばならぬと思ふ」(同一五二頁)。 ④「失礼ながら僧侶方の大概は、御妙判と称して御書やお経文によって説明はして下さるが、 現証によって証明して下さらないのを遺憾とする。 しかも川向いの火事を視るが如く真理論でやるが、日常生活に親密の関係の価値論でそれをやらないから 無上最大の御法も十分に判ろうはずがない」(同一五三頁~四頁) とも述べています。 先ほども振れましたが、 日本が国家神道一色に染まり、軍国主義が台頭していくなかで、国家権力におびえていた日蓮正宗は、 自宗に「難」が降りかかることを恐れ、日蓮教義の根幹である「御書」の一部削除まで行い、 時の法主である日恭は「訓輸」を発してまで「仏祖の遺訓に基づき未曾有の大戦に必勝を期すべきである」 と、大聖人の教えを都合よく利用して戦争を賛美しました。 創価教育学会が「罰論」を表にして折伏することに、日蓮正宗内部には反対もありましたが、 牧口先生はその宗門に対して、御書を通し、罰論もいえない臆病者は、 日蓮大聖人の弟子とはいえない、宗門の僧侶はただの「信者」にすぎないと痛烈に批判しました。

 

【創価思想の源流について】21/39 投稿者:大仏のグリグリのとこ 投稿日:2015年 2月 2日(月)11時49分30秒 まさにこの時、牧口先生はただ一人、国家諌暁の闘争を展開していたのです。 牧口先生は、宗門の当局への迎合に憤りを感じていたにちがいありません。 大御本尊を伝え、形ばかりの謗法厳戒を守り伝えてきたとはいえ、 宗祖日蓮の「広宣流布達成」の遺命などは夢のまた夢、考えもしなかったであろう日蓮正宗です。 また、戦前・戦中の国家権力の弾圧を恐れ、日蓮大聖人の精神を踏みにじり、 あっさりと捨て去ってきた事は隠しようのない事実です。 そこに出現した牧口先生の思想・精神は、日蓮大聖人の精神とストレートに共鳴し、 創価学会を「広宣流布の団体」と明確に位置づけたのです。 宗門によって失われようとしていた日蓮大聖人の正法正義を死守し、その命脈を受け継いだのは、 まぎれもなく牧口先生であり、もしも創価学会が出現しなかったならば、釈尊から始まる仏法の流れも、 末法と言う濁流の狭間で途絶えてしまっていたかもしれません。 一九四三(昭和十八)年に入ると、牧口先生は二度、警視庁へ出頭を命じられます。 五月には中野署に一週間留置され、 神札や神社への礼拝などの問題について取り調べを受けています。 牧口先生の謗法厳戒の指導によって、学会員が神札を受けないことが、 弾圧の口実になると恐れた宗門は、同年六月に、牧口先生ら幹部を大石寺へ呼びつけて、 会員に神札を受けさせるように命じました。 当時の状況を、戸田先生は『創価学会の歴史と確信』の中でこう述べています。 「当時、御本山においても、牧口会長の宗祖および御開山のおきてに忠順に、どこまでも一国一家も個人も、 大聖の教義にそむけば罰があたるとの態度におそれたのである。 信者が忠順に神だなをまつらなければ、軍部からどんな迫害がくるかと、御本山すらおそれだしたようである。 昭和十八年六月に学会の幹部は登山を命ぜられ、神札を一応はうけるように会員に命ずるようにしてはどうかと、 二上人立ち会いのうえ渡辺慈海師(庶務部長)より申しわたされた。 御開山上人の御遺文にいわく『時の貫首為りと雖も仏法に相違して己義を構えば之を用う可からざる事』、 この精神において、牧口会長は、神札は絶対にうけませんと申しあげて下山したのである。 しこうして、その途中、私に述懐して言わるるには 『一宗がほろびることではない。一国がほろびることを、なげくのである。 宗祖聖人のお悲しみを、おそれるのである。 いまこそ、国家諌暁のときではないか、なにをおそれているのか知らん』」――と。 (戸田城聖全集第三巻一〇六頁)。

 

【創価思想の源流について】22/39 投稿者:大仏のグリグリのとこ 投稿日:2015年 2月 3日(火)11時38分48秒 この時、牧口先生が権威に従わず、正義をつらぬき、日興上人の遺誡を守りぬいたからこそ、 正法の命脈と、広宣流布の道は断絶することはなかったと言えます。 しかし、日蓮大聖人の正義を守ることよりも、難を恐れ、我が身の保身を第一にした宗門は、 法主である日恭の立ち会いのもとで、信徒に神札を祀るという「謗法を行う」ように命じたのです。 牧口先生は「神札は絶対に受けません」とその勧告を拒否します。 そして、六月二十八日、再び大石寺に登山し、 日恭に直接「神札を甘受することは誤りである、いまこそ国家諌暁のときである」と訴えました。 しかし、それは受け入れられず、当局の追及を恐れた宗門は 「申し渡し」を聞き入れない「牧口・戸田」をはじめ学会幹部を「登山禁止処分」にしたのです。 以前から、牧口先生が出席している座談会には特高警察が立ち会うことがありましたが、 一九四三(昭和十八)年ごろからは話が「神札」や「国家体制」のことなどに及ぶと 「弁士! 中止、中止!」と、直接さえぎるようになりました。 牧口先生はそのたびに話をそらし、また神札のことに話を戻します。 すると再び「中止!」の声がする。官憲によって何度中断されようとも、 牧口先生は国家崇拝・邪宗崇拝の非を訴えることを止めませんでした。 牧口先生は、自分の神札排斥の言動が不敬罪などに問われ、 それが不当逮捕につながる危険性があることを予想していました。 そうなれば、法廷で自分の考えを主張しようと「国家諌暁」の姿勢をつらぬく決意を固めていたのです。 そんな覚悟を表すかのように、牧口先生は春ごろから本部の二階で「立正安国論」の講義をはじめています。 そして、逮捕を現実の問題として受け止めはじめていたのです。 牧口先生は家族に 「これから先のことだけど、僕にもしものことがあって、死んだときには、 一切、戸田君がしてくれる。お焼香をするのは戸田君がいちばん先だ。 お前たちは、いちばん最後だよ」と話したといいます。 一九四三(昭和十八)年七月四日、特高警察の厳しい監視下にもかかわらず、 牧口先生は伊豆におもむき、蓮台寺の旅館の一室で座談会を開いていました。 その一週間前には、学会の幹部数人が淀橋署に検挙されています。 翌五日は、下田で座談会を行い、夜、須崎の知人宅に折伏に向かいました。 その家で一泊し、翌六日、朝食が終わったころ、 下田署の刑事が、牧口先生に面会を求めにやってきたのです。 そして、そのまま下田署に連行されました。 ・・・・つづく。

 

【創価思想の源流について】23/39 投稿者:大仏のグリグリのとこ 投稿日:2015年 2月 3日(火)11時39分29秒 編集済 牧口常三郎・七十二歳、逮捕。 逮捕容疑は「治安維持法違反および不敬罪」でした。 連行される直前、牧口先生は「戸田君によろしく」という一言を残しています。 しかし、その戸田先生も同じ日、目黒の自宅で逮捕されていたのです。 伊豆下田で逮捕された牧口先生は、刑事をしばらく待たせ、着物を着、袴をつけ、 そして毅然とした姿で下田署までの五キロの道のりを歩きました。 それは、まるで刑事を従えているように見えたといいます。 そして下田署で一晩留置され、翌七日、東京の警視庁に向かいます。 こうして、その「獄死」までの五百日に渡る身命を賭した「国家諌暁」の闘いがはじまったのです。 警視庁の五階の取調室で、牧口先生は約一ヶ月半にわたり、連日の厳しい取り調べを受けます。 取調室は、一坪ほどの広さで、真ん中に机が二つ置いてあるだけの部屋で、 窓にはめている太い鉄の柵が、部屋の雰囲気を威圧的にしていました。 特別高等警察(特高)第二課の刑事によって検挙された牧口先生の取り調べには、 特高二課の課長が自らあたり、牧口先生はどんな質問にも、日ごろからの態度のままに、 悠然と自分の信条をあまさず述べています。 その記録が『内務省警保局保安課「特高月報』の「訊問調書抜粋」です。 訊問調書抜粋は、 内務省警保局保安課「特高月報一九四三(昭和十八)年八月分(昭和十八年九月二十日発行)」の 末尾に、宗教運動の研究資料として摘録されたものが残っています。 当時の学会幹部の証言によると、 その訊問調書の供述は、牧口先生の筆答が大半であることが判明しています。 牧口先生は、聞き取りをもとに特高二課で作成した訊問調書に、 法華経や日蓮仏法の教義など難解な部分は、自ら筆をとり加筆、訂正までしました。 ふつう被告が書くことはありえない取調べ調書を、検事の許しを得て自分で書きはじめるのです。 この取調べ調書を書き、当時の軍部政府に提出することこそが、獄中での闘いだったのです。 その訊問調書資料の内容は、「牧口常三郎全集十巻」に詳細に記されています。 この訊問書を見ていくと、牧口先生が国家権力に対して、厳然と国家諌暁していることがわかります。

 

【創価思想の源流について】24/39 投稿者:大仏のグリグリのとこ 投稿日:2015年 2月 3日(火)11時40分7秒 それでは抜粋しながら見ていきます。 問 創価教育学会の指導理念の目的は。 答 本会は日蓮正宗に伝わる無上最大の生活法たる三大秘法に基づき、教育・宗教生活法の革新を計り、   忠孝の大道を明らかにし、以て国家および国民の幸福を進めるを目的とす、と書示して置きました。・・・・   故に、本学会の目的とするところは、日本国民の一人でも多く本会に入会せしめて   日蓮正宗の信仰を基礎とした私の価値論を認識把握せしめて、人生生活の安穏幸福を招来せしめる事にありますが、   価値論の教義的・具体的・指導理論は後で詳細に申し上げます。(同一八六頁) 問 会員獲得の手段方法に就いては。 答 学会に入会せしむる手段方法は・・・・会員全体が自分の知人・縁故関係を宣伝折伏するのであります。・・・・   宣伝折伏の方法には、文書による場合と、口頭をもってする場合があります。(同一八六頁) と述べ、会員獲得の手段方法をこの後、詳細に述べていきます。 それを端的にまとめると、文書による方法としては、 時習学館より出した月刊雑誌「新教材集録」「教育改造(新教)」、 それに牧口先生の執筆した「価値論」であるとし、単行本としては「創価教育学体系」を 第一巻より第四巻までを発行したと述べます。 そして「第四回総会記録」「第五回総会記録」を「大善生活実証録」と題して約千部発行し、 機関紙としては「価値創造」を毎月千部を発行し、配布したと述べています。 次に、口頭による宣伝折伏としては、会員が友人や親戚などを個人折伏し、 大衆折伏は、座談会を通して、毎月各地で約二十回づつ開催しているとしています。 その他一般的なものとして総会を開催し、学会内部の統制強化策として、幹部会を毎月一回開催し 「退転防止委員会」という名目で会員の退転防止を協議していることを述べています。 さらに、以上の方法で獲得した会員は、 日蓮正宗の四つ(歓喜寮・砂町教会・本行寺・常在寺)の寺院で受戒し、御本尊を授けていると述べました。

 

【創価思想の源流について】25/39 投稿者:大仏のグリグリのとこ 投稿日:2015年 2月 3日(火)11時40分50秒 編集済 そしてなぜ、このような方法を用いるのかという理由がつぎの文です。 「私は正式の僧籍を持つ事は嫌いであります。 僧籍を得て寺を所有する事になれば、従って日蓮正宗の純教義的な形に嵌った行動しか出来ません。 私の価値創造論をお寺において宣伝説教する訳には参りませんので、 私はやはり在家の形で日蓮正宗の信仰理念に価値論を採り入れたところに私の価値がある訳で、 此の処に創価教育学会の特異性があるのであります」(同一八八頁)と。 次に、 問 創価教育学会の信仰理念の依拠(よりどころの意)する処は日蓮正宗に相違なきや。 答 只今申し上げた通り日蓮正宗に所属している事は間違いありません・・・・   日蓮正宗の信者として「常在寺・歓喜寮・砂町教会・本行寺」において授戒して居りますが、   創価教育学会そのものは前に申し上げた通り、日蓮正宗の信仰に私の価値創造論を採り入れた処の   立派な一個の「在家的信仰団体」であります。(同一八八頁) 創価教育学会の信仰の「よりどころ」は日蓮正宗か、という問いに対して、 創価教育学会は、日蓮正宗の信仰理念に、価値論を結び付けるところにその特異性があり、 立派な一個の在家的信仰団体と明確に述べられています。 これらは訊問調書の一部ですが、 この訊問調書によって牧口先生は、治安維持法違反と不敬罪で起訴されたのです。 そして創価教育学会は、翌年の三月までに二十一人の学会幹部が逮捕――。 日蓮正宗の僧侶では、藤本蓮城が不敬罪の容疑で逮捕(昭和十九年に刑務所で死亡)されました。 あわてふためいた宗門は、創価教育学会の幹部を信徒除名とし、 藤本蓮城も擯斥処分にして僧籍を剥奪しています。 日蓮大聖人の正義を貫いた僧俗を切り捨ててまでも我が身に累がおよばないよう画策したのです。

 

【創価思想の源流について】26/39 投稿者:大仏のグリグリのとこ 投稿日:2015年 2月 3日(火)11時41分27秒 戸田先生は「創価学会の歴史と確信」のなかで、その時の宗門のあわてぶりをこう述べています。 「まことに大聖人のご金言はおそるべく、権力はおそるべきものではない。 牧口会長の烈々たるこの気迫ありといえども、狂人の軍部は、ついに罪なくして罪人として、 ただ天照大神をまつらぬという『とが』で、学会の幹部二十一人が投獄されたのである。 このとき、信者一同のおどろき、あわてかた、御本山一統のあわてぶり、 あとで聞くもおかしく、みるもはずかしき次第であった。 牧口・戸田の一門は登山を禁ぜられ、世をあげて国賊の家とののしられたのは、 時とはいえ、こっけいなものであった」(戸田城聖全集第三巻一〇七頁)――と。 牧口先生は、連日、取り調べを受けたあと、 同年九月二十五日に身柄は、巣鴨にあった東京拘置所に移されます。 宗教関係等の検挙者の場合、検事が裁判の必要があると認めれば 東京巣鴨拘置所に拘留されたのです。 この東京巣鴨拘置所から留守宅の家族にあてた「獄中書簡」である手紙は、 現在残っているもので三十一通あります。 この三十一通の獄中書簡は、「牧口常三郎全集十巻」に収録されています。 その獄中書簡の文面に「十日に一度手紙」と牧口先生自身が記しているように、 獄中内から家族たちに出す手紙は十日に一度、一通と決められていました。 各舎には、文字を書く部屋があったものの、手紙を書く時間は限られていました。 それも開いた状態のドアの外で看守が監視し、そのうえでなお検閲がされるのです。 事実、獄中からの葉書には検閲済みの印が押されており、 手紙によっては所々、文面が黒く削除されています。 官憲の厳しい思想統治下で、獄中にあってもっと学会のこと、会員の消息等について知りたかったでしょうし、 書きたかったであろう牧口先生が、自身の思いを文に託すことを制約しなければならなかった状況にあったのです。 だから、検閲を受けることを念頭において手紙の内容を表現せざるをえなかったと思います。

 

【創価思想の源流について】27/39 投稿者:大仏のグリグリのとこ 投稿日:2015年 2月 3日(火)11時42分3秒 では以上のことを踏まえて、獄中書簡の一部を紹介します。 ※(抜粋してなるべく読みやすいように変換します) 《昭和十八年九月三十日》(牧口常三郎全集十巻二七三頁) 去る二十五日から当所へ参りました。先より楽(ひざの病)で、身体も健全。 ひざの病が先月二十一日より不思議に治ったようです。大変な功徳です。 ついては朝夕のお経(勤行)はなるべくそろって怠ってはいけません。 必ず「毒が変じて薬となる」御法門を信じて安心してくらしています。 左の通り差し入れて下さい。 洋三(三男)は、戦地より無事の手紙ありましたか。洋子を大切にそだてなさい。 御二人が心を合わせて信仰が第一。間もなく帰れましょう。 一、金二十円、一、着物合わせ一枚、一、ざぶとん一枚、一、御書二冊 《昭和十八年十月十一日》(同二七五頁) 昨日は、久しぶりで入浴が出来ました。理髪もしました。中々暖か味があります。 ただ独房ゆえ、人にきけないので困りましたが、少しなれました。 まあ、三畳間、独り住居のアパート生活です。 《昭和十八年十月二十三日》(同二七七頁) 去る十一日に出した手紙はまだ行かなかったということを検事さんから聞いた。 価値論を理解して下さったということを書いたため、 検閲に回ったが、特別に通して下さったという事です。 警視庁とちがって三畳一人のアパート住居で、本が読めるから楽であり、何の不足はない。 心配しないで留守を守って下さい。 お互いに信仰が第一です。災難と云うても、 大聖人様の九牛の一毛です、とあきらめて益々信仰を強める事です。 広大無辺の大利益に暮らす我々に、かくの如き事は決してうらめません。 経文や御書にある通り、必ず「毒変じて薬となる」ことは今までの経験からも後で解ります。 《昭和十九年一月七日》(同二八二頁) 心配しないで留守をたのみます。戦地を思うと、がまんができます。 大聖人様の佐渡の御苦しみをしのぶと何でもありません。 過去の業が出て来たのが経文や御書の通りです。 御本尊を一生懸命に信じていれば、次々に色々の故障がでて来るが皆直ります。

 

【創価思想の源流について】28/39 投稿者:大仏のグリグリのとこ 投稿日:2015年 2月 3日(火)11時42分40秒 《昭和十九年一月十七日》(同二八四頁) 御守り御本尊、母のものでも入れて下さい。これは特にお願いして下さい。 信仰を一心にするのが、この頃の仕事です。これさえしていれば、何の不安もない。 心一つのおき所で、地獄に居ても安全です。 三人で朝夕の信仰を怠ってはなりません。 《昭和十九年十月十三日》(同三〇〇頁) 十月五日付、洋三戦死の御文、十一日に拝見。びっくりしたよ。がっかりもしたよ。 君国のための戦死だけ、名誉とあきらめ、ただ冥福を祈る信仰が、いちばん大切ですよ。 二人共。私も元気です。 カントの哲学を精読している。 百年前、およびその後の学者共が、望んで手を着けない「価値論」を私が著し、 しかも上は法華経の信仰に結び付け、下、数千人に実証したのを見て、自分ながら驚いている。 これ故、三障四魔が紛起するのは当然で、経文通りです。 この書簡の一部を見ても明らかなように、獄中にあって信心の姿勢、心境は、 いささかも揺らぐことなく、日蓮仏法の信仰への確信、仏法の正義を死守し、 平和主義、人間主義に生き抜いた強靭な信念が読み取れます。 妙法を根本にして民衆救済の戦い、立正安国を願って行動を貫いたがゆえに、 命にもおよぶ大難を何度も受けられた日蓮大聖人の振る舞いが、 獄中にあった牧口先生にどれほどの励みになったか計り知れません。 特に、日蓮大聖人の首を斬ろうとして結局、斬れなかった「竜口の法難」と それに続く「佐渡流罪」を悠々たる境涯で乗り越え、 末法万年の民衆救済の道を歩み抜かれた大聖人の振る舞いを思うと、 いかに厳しい獄中生活であれ、 それは「大聖人様の九牛の一毛です、とあきらめて益々信仰を強める事」に過ぎないのであり 「過去の業が出て来たのが経文や御書の通り」故の難にほかならなかったと思ったのかもしれません。 「あきらめて」という言葉には、そうした牧口先生の心情、透徹した人生観が 披瀝されているといえるのではないでしょうか。 それはまた、大聖人が「佐渡御書」に記した 「日蓮も又かくせめらるるも先業なきにあらず不軽品に云く「其罪畢已」等云云」(九五八頁)、 また 「当世の王臣なくば日蓮が過去謗法の重罪消し難し」(九六〇頁)と仰せのように、 獄中生活を余儀なくされたが故に、 牧口先生自身の宿業が転換していけると捉える確たる信心に立っていたことを示すとともに、 必ず立正安国の平和な世界が実現すると確信していたのだと思います。

 

【創価思想の源流について】29/39 投稿者:大仏のグリグリのとこ 投稿日:2015年 2月 3日(火)11時43分21秒 独房の中で、毎日筆を執って約一ヶ月かけて書き上げた訊問調書は、 一冊の本になるぐらいの厚さになっていました。 七月四日付けの書簡には、それを予審判事に提出したことが記されています。 この自筆の調書は、日蓮大聖人の「立正安国論」に比すべき、 獄中における烈々たる執念の「諌暁の書」だったといえるでしょう。 牧口先生が、自ら病監(刑務所内の病院)へ移ることを希望したのは、 一九四四(昭和十九)年十一月十七日のことです。 すでに死を予想していたのか、足袋から下着、 襦袢にいたるまで洗濯をしたものを身につけていました。 「おぶってさしあげましょうか」 看守が体の衰弱を見て声をかけます。しかし、牧口先生は、静かに断りました。 「せめて手でも引いてあげましょうか」 「ひとりで歩けますから、ありがとう・・・」 このように一人で病監に歩いて行きベッドに横たわるとゆっくり目を閉じます。 老衰と極度の栄養失調でした。 翌十八日午後六時すぎ、 この日は奇しくも創立の日と同じ十一月十八日、 牧口先生は眠るようにして七十三年の死身弘法の尊い生涯を閉じたのです。 その顔には、やるべきことをやり終えたという、 穏やかな安堵の表情がただよっていたにちがいありません。 最後の最後まで一歩も退かず、日蓮大聖人の如く「国家諌暁」の道を貫いた牧口常三郎先生。 牧口先生は、生涯を通してどうすれば 民衆の幸福が築かれるのかを追い求めてきた思想家でもありました。 やがてその答えを日蓮仏法に求めたのは、必然的な帰結だったといえます。 殉教の道を歩んだ牧口先生の思想と行動は、常に「民衆の幸せ」と「世界の平和」でした。

 

【創価思想の源流について】30/39 投稿者:大仏のグリグリのとこ 投稿日:2015年 2月 3日(火)11時44分1秒 牧口先生は、日蓮仏法と出会うことでもともと人間生命に備わっている エネルギーを無尽蔵に引き出す「法」があることを知りました。 その法にしたがって生きることこそ、はじめて人間性を開花させ、 幸福を生むことができると実感したのです。 さらに仏法の理解が深まるにしたがって「大悪」とは、 人間の生命を脅かすすべての物や現象だと明確に位置づけするようになりました。 そして、日蓮仏法を根本にして生活することこそ「大善生活」であると主張します。 それは、人権、平和、共生などに敵対する「大悪」に対して、 闘いつづける屹立した個人の確立は仏法をもってしかできないという確信です。 そして、そういう個人の連帯が、 新たな人間主義の時代を開く鍵になると仏法流布の闘いを展開したのです。 牧口先生がつくろうとしたのは、国家という枠組みを超えた、 人間という普遍的な存在に目覚めた個人の連帯だったといえます。 その行為は、戦争遂行のために、ますます国家という枠組みをきつくしようとしていた 当時の軍部政府と真っ向からぶつかるものでした。 ある意味で牧口先生の逮捕は、必然だったといえます。 戦争遂行のために、国民の統合に利用されている天皇を神とする国家神道の 間違いをただし、天皇も人間であり、過ちを犯すこともあると指摘し、 教育勅語は最低の道徳であるとする持論を訊問調書の中で語っています。 そして仏法の教えは、大日本帝国憲法よりも優先することを明言しているのです。 先ほどもふれましたが、獄中で訊問調書を書き、 当時の軍部政府に提出することこそが、獄中闘争だったのです。 訊問調書は、人間の生命を脅かす最大の「大悪」である戦争を推進しようとする 当時の権力者への諌暁の叫びともいえます。 権力者の生命に巣くう魔性の正体をえぐり出し、 それを断ち切っていこうとする気迫をこめた牧口先生の「国家諌暁書」なのです。 不二の弟子であった戸田先生は、後年「牧口先生」という論文を発表し、次のように述べています。 「牧口先生は人格高潔、物事にたいして、いやしくも軽々しく事を行わず、 一文半銭も貪ることなく、清貧に甘んじて、いっさいの衆生のために仁慈をたれられたお方である。 こと不義と名のつくものには仮借なくこれを責めて、正道に生きることを主張せられた」 (戸田城聖全集第一巻三一八頁)――と。

 

【創価思想の源流について】31/39 投稿者:大仏のグリグリのとこ 投稿日:2015年 2月 3日(火)11時44分39秒 編集済 そして 「国家を憂うる尽忠の念は天より高く、大衆を愛すること仏のごとくである。 信心は強固にして金剛のごとく、仏の教えにたがわざらんことを願っては、 夜なく反省し、ご明珠のごとき生活であらせられた。 また、その学問上の功績にいたっては、全世界の一大理論たるべき価値論をあらわし、 その人を教化するや、門下三千人、かかる高徳の人が、どうして牢屋で獄死せられたのでしょうか。 もし先生が法華経の行者でなかったら、この運命はありえないのです。 されば、先生は、法華経のために身命をなげうったお方である、法華経に命をささげた、ご難の見本である」 (同三一九頁)と語りました。 さらに、難を恐れて牧口・戸田両先生を見捨てた日蓮正宗に対して 「先生の法難におどろいて先生を悪口した坊主どもよ、法を捨て、先生を捨てたるいくじなしどもよ。 懺悔滅罪せんと欲すれば、われらが会にきたって先生の遺風をあおぎ、仏のみ教えに随順すべきであるぞ」 (同三二一頁)、と痛烈に批判しました。 戸田先生の怒りは激しかった。 獄死した牧口先生は、日蓮正宗の悪侶に切られ、いじめぬかれた。 懺悔し、罪を滅する気があるならば、学会に来るべきである。 学会には日蓮大聖人の精神が脈々と流れているのだ。 「仏のみ教え」に随順するつもりがあれば、 学会で学ぶべきであるという戸田先生の大確信でもあったのです。 ここで大事なことは、戸田先生は日蓮正宗に来なさいとは言われていない。 「われらが会」創価学会に来なさいと言われたことです。 恩師を捨てた宗門と退転者に対する戸田先生の無念の叫びであり、 すさまじい怒りであり、正義の怒りであったのです。 大聖人も「瞋恚(怒り)は善悪に通ずる者なり」(御書五八四頁)と仰せです。 さらに 「先生のお葬式はと聞けば・・・・巣鴨から、小林君が先生の死体を背負って帰ったとか。 そのときの情けなさ、くやしさ。世が世でありとも、恩師の死を知ってか知らぬのか、知らないで来ないのか。 『よし!この身で、かならず、かならず、法要をしてみせるぞ!』と誓ったときからのわたくしは、 心の底から生きがいを感じました」(戸田城聖全集三巻四二〇頁)とも語っています。 戸田先生は、牧口先生という大師匠を本当に大切にされた。 ただ一筋に恩師・牧口先生を思われた。 池田先生も同じく、戸田先生を一心に求め、戸田先生に全生命をかけて尽くされた。 この「師弟不二」の一念が仏法の真髄であると思います。 これこそが創価三代にわたる「創価学会の魂」なのではないでしょうか。 ・・・・つづく。

 

【創価思想の源流について】32/39 投稿者:大仏のグリグリのとこ 投稿日:2015年 2月 4日(水)09時38分12秒 三谷を通して、日蓮仏法の「立正安国論」に出会ってからの牧口先生の人生は、 まさに「立正安国論」に始まり「立正安国論」に終わるという人生そのものだったように思います。 初代会長の獄死という「殉教」を通して、 創価学会は日蓮仏法の正統として、その法脈を引き継ぎました。 法門や御本尊を護持しながらも、広宣流布への精神を忘れていた日蓮正宗を、 在家信徒である創価学会が宗祖の精神に立ち返らせようとしたのです。 不二の弟子であった戸田先生は「創価学会の歴史と確信」の中で次のように述べています。 少し長いですが、大事なところなので引用します。 「創価学会が、初代会長牧口常三郎先生に率いられて、 大法弘通のために立たれたときは、罰ということを正宗信者が忘れていたときである。 牧口先生は罰論をもって大法を弘通せんとし、内外にこれを説いて、あらゆる難にあったのである。 罰論を説くのは、日蓮正宗の教義に背くものとして攻撃した僧侶すらあったのである。 牧口先生は、敢然として法罰の恐ろしさ、法罰厳然たるを説いてゆずらずして、ご一生を終わったのである。 『御本尊様は偉大な力がおありになる。罰なくして大利益があるわけがない。 子をしかる力のない父が、子に幸福を与えられない。御本尊様をじっと拝んでみよ。 「若し悩乱せん者は頭七分に破れん」との御本尊様のおおせが聞こえないか。 御本尊様が罰をおおせではないか』とは先生の持論で、私も先生の持論は正しいとおもう。 これに反対する者は、大御本尊の威力を信じない者であり、これこそ、釈迦仏法のやさしい 慈悲のすがたのみをあこがれる文上仏法のやからで、日蓮正宗の正流ではない」 (戸田城聖全集第三巻一〇二頁)――と。 また 「利益と罰は、われわれ日常の真実の生活であり、価値生活の全体である。 この尊いことを忘れておって、牧口先生がこれを説くや、おどろきあわてた連中のすがたは、 いま思い出してもこっけいのきわみである。 そして、いまごろになって、むかしから知っていたような顔をしている悪侶もあるのにはおどろくのである。 今日にいたって、なお、これを思い出さない愚侶もいるのには、おどろくというより無知を悲しむものである」(同一〇三頁)――。

 

【創価思想の源流について】33/39 投稿者:大仏のグリグリのとこ 投稿日:2015年 2月 4日(水)09時39分9秒 さらに 「時あたかも、わが国は太平洋戦争に直面し、国をあげて修羅のちまたに突入したのである。 牧口会長は、この大戦争の間に、強く大聖人の御精神を奉戴して、 国家の悪思想たる天照大神を拝むということに対立したのであった」(同一〇四頁) 「このとき、牧口会長は、天照大神の神札を拝むことは、 正宗の精神に反すると、きびしく会員に命ぜられたのである」(同一〇五頁) 「牧口会長のあの確信を想起せよ。絶対の確信に立たれていたのではないか。 あの太平洋戦争のころ、腰抜け坊主が国家に迎合しようとしているとき、 一国の隆昌のためには国家諫暁よりないとして、『日蓮正宗をつぶしても国家諫暁をなして日本民衆を救い、 宗祖の志をつがなくてはならぬ』と厳然たる命令をくだされたこをと思い出すなら、先生の確信のほどがしのばれるのである」(同一一八頁)。 「私は学会の総意を大聖人の御命令と確信し、矢島理事長の辞任とともに、 会の組織をあらため、折伏の大行進の命を発したのである。 ここにおいて、学会は発迹顕本したのである。 顧みれば、昭和十八年の春ごろから、故会長が、 学会は『発迹顕本しなくてはならぬ』と口グセにおおせになっておられた」(同一一九頁)。 「私どもは、故会長の意志をついで、大御本尊の御前において死なんのみであります。 この確信が学会の中心思想で、いまや学会に瀰漫しつつある。 これこそ発迹顕本であるまいか」(同一二〇頁)。 「御僧侶のなかには、また次のごとくいうであろう。『めったやたらに本尊はお下げしない』と。 とんでもないことである。そんなことで、寺を建てたが、本尊を下げわたさないというならば、 寺は建ったが、なんのはたらきもしない。ただ坊主の寝床をつくったにすぎないことになる。 広宣流布とは寺を建てることとかいうことではなくて、結論においては、 正法が流布して中心がきまらなければならなくなって、寺が建つことである」 (同一二五頁)――と表明しています。

 

【創価思想の源流について】34/39 投稿者:大仏のグリグリのとこ 投稿日:2015年 2月 4日(水)09時40分1秒 このように戸田先生は、牧口先生を誹謗し、苦しめ、 切り捨てた日蓮正宗の大悪(悪侶)を絶対に許されなかったとともに、 牧口先生の意志である「広宣流布の実現」を目指して立ち上がりました。 そしてそれは、池田先生の時代に入っても一貫して変わらない学会精神であり、 世界百九十二カ国に日蓮仏法を宣揚した事実がその証明です。 これらのことを踏まえて、最後のまとめに入っていきたいと思います。 創価思想における「師匠」の意義、また池田先生の思想とはどういうものなのでしょうか。 「牧口・戸田・池田」と三代に続く学会の師弟は、 思想的にも実践的にも、個性は違えど、連続性を保っています。 だからこそ「師弟不二の信仰」と言われるわけです。 この三代に続く仏法指導者は、それぞれの時代において、 いずれも日蓮仏法の模範的信仰者として会員の尊敬を集めてきました。 しかし、それぞれの信仰上の強調点は異なります。 牧口先生は何より「法則の信仰」を教えた教育者であり、戸田先生は「使命の信仰」を強く訴えた宗教的使者であり、 池田先生は「自己の信仰」を第一義として、人間的究極者の理想を唱えている、と解釈することが出来ると思います。 つまり、牧口先生が提唱した「大善生活法」「法罰」「実験証明」などは、 日蓮大聖人の「立正安国」を科学的思考に立って再解釈した結果でもあり、 「法則の信仰」の色彩が濃いものでした。 戸田先生もこの「法則の信仰」を引き継ぎましたが、 戦時下の獄中で自らが「地涌の菩薩」であるとの自覚に立ったことが大きな転機となり、 戦後の学会員に 「われらこそは、えらばれたるところの末法御本仏の弟子であり、家来であり、子どもである」 (戸田城聖全集第三巻 二〇二頁)と、会員の使命感を鼓舞しながら「使命の信仰」を際立たせました。 戸田先生の論文『大利益論』に 「この御本尊様と大聖人様と自分とが区別がないと信じて、 そのありがたさを心にしみて感謝申し上げ、熱心に題目を唱えるとき、 宇宙のリズムとわがリズムと調和して、宇宙の大生命が即わが生命とつらなり、 偉大な生命力が涌現してくるのである」(同前、一六六頁)と述べているように、 「使命の信仰」は明らかに「自己の信仰」へと向かう性格を秘めています。 戸田先生の時代には「自己の信仰」を中心に置くことはなかったものの、 池田先生の代になって、それが「人間主義」として主題化され、「人間革命運動」として 学会の信仰における「自己」の重要性は、世界が注目し、年を経るごとに高まりを見せています。

 

【創価思想の源流について】35/39 投稿者:大仏のグリグリのとこ 投稿日:2015年 2月 4日(水)09時40分46秒 このうち、教育者と宗教的使者については、思想や宗教の世界では 一般的によく見かける指導者像ですから、私たちの目にもさほど違和感がありません。 しかし、最後の「人間的究極者」になると、もはや前代未聞という以外にありません。 牧口・戸田両先生と比較して、 池田先生に対する社会の一部からの反発は、特段に強いという印象があります。 その理由は、池田先生が学会を大発展させたからだけではないでしょう。 池田先生が「人間主義の宗教」を強調し、自らも人間的究極者の理想に生きようとしたことが、 知ると知らずとにかかわらず、大きな波紋や誤解を呼んだように思うのです。 人間的究極者とは、何も絶対的なカリスマを言うのではありません。 それは、仏法の信仰を通じて「自己」の究極を開花させゆく人間のことです。 池田先生は、師と弟子が向かい合うのではなく、同じ方向を見て進むべきだと訴えています。 もちろん、修行の上では師弟が向かい合う相対の関係も必要です。 しかしそれは、弟子が師を尊敬する一方で、師も弟子を尊敬するような師弟相対であり、 両者が尊敬を捧げる先には、一切平等の妙法があります。 だから結局、妙法の師弟は同じ方向を向いているのです。 皆が未完成の完成者として、尊敬し合う世界における中心軸、それが池田先生なのです。 先生は、全学会員とまったく平等でありながら、 しかも平等の世界を成り立たせるために、特別な位置を占めています。 模範の師なくして、修行も相互尊敬も成り立ちません。 一切平等ながら、いや、一切平等のゆえに、 池田先生の存在だけは、余人を持って代え難いのです。 そうした面から創価学会は、三代の会長を「永遠の指導者」と規定しているのだと思います。 池田先生の指導は、中道の実践をする立場から、基本的に「皆が仏」というのが先生の世界です。 「自己こそ最高に尊貴なり」とする世界では、 模範となるべき「師の人格」の偉大さが強調されるのは当然の帰結でしょう。 「牧口先生時代」や「戸田先生時代」に比べて 「池田先生時代」に《師の尊敬》が声高に強調されるのは 「自己の信仰」の意義から考えると、決して怪しいものでもありません。 それを見て 「戸田時代になかった個人崇拝ではないか」と批判する人がいるとしたら、 創価学会の信仰が「代」を経るごとに重層化し、池田先生時代に初めて 「自己の信仰」が中心的位置を占めたということに「無知」なだけです。

 

【創価思想の源流について】36/39 投稿者:大仏のグリグリのとこ 投稿日:2015年 2月 4日(水)09時41分32秒 創価学会の批判の中には、この学会内の「師弟関係」に向けられることがよくありますが、 法華経の重要な箇所(従地涌出品から嘱塁品まで)では、永遠の師弟の道が説かれています。 だから日蓮仏法も、創価思想も、師弟の道を非常に重視しているのです。 池田先生は戸田先生の弟子であり、私たちは池田先生を師匠と仰いでいます。 しかし、この法華経の精神である師弟の道を、 まるで専制君主と奴隷的人民の関係のように扱い「池田独裁論」とあげつらう言説が見られますが、 その批判者たちは、池田先生が指導する「師弟不二」の精神を、権力者への盲従と捉えて、 信仰者の心の内面を知ろうともしない点に問題があると思うのです。 誰かが自分にとって、価値ある何かを示したとすれば、 自然と頭を低くして、教えを請うのが人の常です。 これと同じように、信仰者もより深い宗教的洞察を持った人に、 より深く敬意を表すものです。 真面目な信仰者が「師に随順」するのは、その師を心から尊敬し、 また師の教えに無上の価値を感じるからに他なりません。 これが強制的な主従関係にしか見えないようなら、その人は、 およそ思想や人格に対して、尊敬の感情というものを持ち合わせていないのでしょう。 要するに、創価思想の「師弟不二論」は、 同じ目的に進む戦友の関係であるといえるのではないでしょうか。 池田先生の思考は徹頭徹尾、人間から出発して人間へと帰着します。 だからこそ「人間主義」の哲学と言われるわけですが、 人間の存在が、社会や環境と関わる局面を考える場合にもこの姿勢はかわりません。 つまり、社会的な存在としての人間は「すべてを生かす哲学」の実践者たるべきなのです。 ここ数十年の池田先生の行動は、 他の宗教や思想との対話に、積極的な姿勢を貫いてきました。 池田先生は、キリスト教の神学者、儒教の知識人、マルクス主義を奉ずる政治家、 中国の著名な仏教学者、東南アジアのイスラムの指導者等々、次々と対話の機会を持ち、 数多くの対談集を発刊してきました。 池田先生が対話する相手は主義や信条といった 思想の服をすべて脱ぎ捨てた裸の人間、生活者としての人間です。 しかしこれは、自らの信仰を捨ててまで、 人間対人間の話し合いを行うという意味ではありません。 仏法はむしろ、生活者としての人間を無二に尊重する哲学なのです。

 

【創価思想の源流について】37/39 投稿者:大仏のグリグリのとこ 投稿日:2015年 2月 4日(水)09時42分21秒 小説『新・人間革命』第十九巻には、人間主義の対話を広げゆこうとする、 池田先生の決意の言葉が、次のように綴られています。 「人間の救済を掲げてスタートした宗教が、やがて異教徒を迫害、弾圧したり、 宗教同士が戦争を引き起こしているのが、残念ながら人類の歴史といえる・・・・ 人類の未来を考えるなら、宗教差別や宗教戦争を根絶していくために、 人間という原点に立ち返って、宗教間、文明間の対話を展開していくことが、 何よりも重要な課題になる。 その突破口を開いていくのが、仏法者としての私の使命であると思っている。 仏法の本義は、一言すれば、《人間宗》ともいうべき、人間生命の尊重の思想だからだよ」 (一九五~六頁)――と。 「人間宗」である仏法が、一種の仲介者となって諸宗教や、 諸文明を人間の次元で結びつけ、融和させていくこと。 池田先生による対話運動の根本的な意義は、そこにあると言っても過言ではありません。 また、それは極悪人に対しても変化の可能性を信ずるということでもあります。 池田先生にとっては、反人間主義も生かすべき存在なのです。 創価学会から見て、不当な「破門」を行った日蓮正宗――。 この既成仏教の権威と戦う意義を語った次の言葉は、それを証明するものだと思います。 「広宣流布を破壊する仏敵とは、絶対に妥協してはならない。 徹底して戦い、破折し、打ち負かして、その末路を歴史に刻んでいくことこそ、真の慈悲である」 (聖教新聞二〇〇七年八月二十八日付)。 「仏法破壊の者とは断じて戦いぬく。いつわり親しんではならない。 それでなくては、かえって《敵》となる。妥協してはならない。 はっきり言ってあげることが、仏法の慈悲にかなう実践であり、相手を守ることになる」 (池田大作全集第七十九巻一六八頁)――と。 悪を打ち破って、初めて善の意味が明らかになります。 その意味では、悪は善の顕揚のために生かさねばなりません。 また、打ち破られた悪が、自己を悪と認識すれば、もはやそれは悪ではないのです。 氷が水であると知れば、あとは氷を溶かせば良いのです。 氷は氷の中身のまま水となります。 そのように、悪人は自らを変えずに蘇生します。 これが池田先生の信ずる「人間の変化の可能性」です。 万人が己の本性を真に生かす可能性です。 つまり、善を輝かせ悪を善化するために戦う――それが仏法本来の慈悲ではないかと池田先生は訴えているのです。 人間主義の戦いは、善悪ともに「生かす」戦いなのです。

 

【創価思想の源流について】38/39 投稿者:大仏のグリグリのとこ 投稿日:2015年 2月 4日(水)09時43分16秒 池田先生が戸田先生に初めて会った座談会場で、 真っ先に質問したのは「正しい人生とは何か」であったと言います。 この質問で感じることは、池田思想の出発は「人間」の探求からだと思います。 それが、創価学会の信仰を通じて思想上に血肉を与えられ、 裸の人間同士が打ちあう真剣な実践の中で鍛えられ、 日々の思索によって次第に深められながら、今日の「人間論」「人間主義」と言われる 一つの実践的な思想を生み出してきたのだと思うのです。 冒頭に、人間論は、仏法の「慈悲」を社会理念化するものと捉えることができ、 人間存在の社会的意義を規定する創価思想の「社会哲学(社会のあり方について考える哲学)」を 鮮明にしていきますと述べました。 池田先生は、常日頃から、自分は平凡な庶民の一員であることを強調しています。 大国の指導者と会見しても、一民間人の立場を標榜し、最高学府から名誉称号を授かる時には、 庶民の代表に対する栄誉として受けるのが常です。 世界的な歴史学者であるアーノルド・トインビーとの対談の中で、 人間生命の全体性について、池田先生はこう説明しています。 「知性、理性、感情は、この生命自体の表面の部分であって、生命全体ではありません。 知性や理性、感情は、この全体的生命を守り、そのより崇高な発現のために奉仕すべきものです」 (池田大作全集第三巻 二九八頁)と。 生命こそ「人間の全体性である」というならば、 「知的」な学者も「感性」に生きる芸術家も「理性」ある社会を築こうとする社会活動家も、 それぞれ専門家である前に、等しく生命という「人間の全体性に生きる」存在者でしょう。 池田先生は、トインビーとの対談で 「人間は、知識人や大衆である前に、同じ人間であるということを、まず大前提におかねばならない」 (同前、一三五頁)と主張しています。 池田先生の多面的な活動は、孤高の高みを目指す行動なのではなく 「生命」という原点の全体性にいき抜いた証なのではないでしょうか。 先生は、生命を磨く仏法の信仰者として、また人間の全体性に徹する者として、 知性であれ、理性であれ、感情であれ、あらゆる精神活動を自在に生かし、多彩な活動を行ってきました。 池田先生は言います 「総合性こそ、信仰者の徳である。《妙法蓮華経》には、徳も生命力も情熱も、知性も福運も哲学も、すべてが総合的に備わっている」 (一九九九年、第三十三回本部幹部会での講演)――と。

 

【創価思想の源流について】39/39 投稿者:大仏のグリグリのとこ 投稿日:2015年 2月 4日(水)09時45分11秒 創価思想の原点は「妙法蓮華経はわれわれの生命自体である」と教えています。 そうであるならば、 池田先生の活動の多面性は「生命の法=妙法」に生き抜いた結果であると言えるのではないでしょうか。 池田先生は、創価三代の「使命と責務」についてこう語っています。 「牧口先生は、本当に偉大な方である。たとえて言うならば、牧口先生は『無限の水脈』に通ずる『井戸』である。 そして、弟子の戸田先生は、その『井戸』から水を汲み出していく『ポンプ』といってよい。 ゆえに第三代の私は、その水を活かして、大地を潤し、花を咲かせていくのが使命であり、責務であると思ってきた」 (「SGI最高協議会」一九九七年四月十七日)――と。 そして 「戸田先生は、こう話された。 『(三国志時代の呉)孫権は三代でありながら、二代のもつ良き補佐を備え、しかも三代の福運をもっていた』、 さらに 『大事業は、初代と三代が大事である。初代の時、そのもとに英才がいると、その人たちが二代を守る。 しかし、三代になるとその英才も老いて、硬く、保守的になる。 この人たちには、もはや「若さ」を指導しうる力がない。 したがって三代の場合、その「若さ」を補給し、指導できる力のある人物でなければならない』と。 また、先生は、徳川三百年の存続も、三代家光によるところが大きかったとされつつ、次のように言われた。 『私は二代だから硬くなってもよい。三代が大切である。三代で、社会へ、文化へ、大きな布陣をしくのだ』。 私の入信は十九歳。そのとき戸田先生にお会いして以来、 先生の後を継ぎ、第三代として立つことが宿命づけられていたのかもしれない」 (「第十九回全国青年部幹部会」一九九〇年一月八日)と、「三代の役割」について語りました。 戸田先生の不二の弟子である池田先生は「創価思想そのもの」とも言うべき、 戸田先生の思想を「小説」という手法を用いて「『人間革命』全十二巻」に収め、後世の弟子のために残しました。 民衆救済と世界平和の創出を誓った牧口・戸田両先生の志は、 三代会長・池田先生に厳然と受け継がれ、夜空を飾る無数の星辰のように、 不滅の輝きを放つ時代を世界に築き上げたのです。 あとは、私たち弟子がその創価三代会長の思想を厳守できるかどうかに、未来のすべてがかかっていると思います。 そしてそれは、立場や役職ではなく、創価三代会長が身命を捨てて築き上げた「創価学思想」を護り、 継承していくのは、いつの時代も、偉大なる「無名の庶民」群像だと確信します。 最後に、小説「新・人間革命 (広宣譜)」の一節を記して終ります。 私は、諸君が、その誓いを本当に果たし、決意を実践していくのか、じっと見ています。 口先では、なんとでも言えます。大切なのは、行動です。結果です。 君たちが見事な実証を自ら示すまで、私は励ますことも、讃えることも、褒めることもしません。 厳しく見ています。                     (二〇一五<平成二十七>年一月三十一日付 聖教新聞)                                         ― 完 ―

 

宿坊の掲示板より

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コメント: 1
  • #1

    藤原 秀希 (土曜日, 09 5月 2015 12:09)

    いつも拝見させていただいております。気になることなので、教えていただけますか?本部職員でありながら、師匠に違背した輩の生活の面倒を見るなど許されない。とはどの様なことなのですか?