立正安国論の指導原理について

【立正安国論の指導原理について】1/30  投稿者:大仏のグリグリのとこ  投稿日:2014年12月 5日(金)15時01分29秒


創価学会の平和運動の基盤は、日蓮大聖人の立正安国論の精神にあり、

正法を根底において、世界の平和の繁栄を確立しようとするものです。


大聖人は、法体の広宣流布を確立されるとともに、未来における

化儀の広宣流布の時代のために、あらゆる指導原理を残されました。


日蓮仏法は、一宗一派の独占物ではなく人類の至宝ともいうべき共有財産です。

なかでも立正安国論は、日蓮仏法の最高峰にそびえ立つ「平和の思想書」とも言えるでしょう。


そこには、戦争回避・災害防止・恒久平和などの原理が、

仏典を文証として、縦横無尽に描かれています。


近年の世界各地で多発している自然災害や経済危機、そこからくる民衆の苦悩、

また、テロの脅威という現実を前にした今こそ、指導的立場の人々が、

その解決策を立正安国論に求め、真摯に学んでいくべきではないでしょうか。


過去には日蓮系の弟子たちが、その生きた時代に合わせて、

大聖人の思想を整理し論釈してきました。


そして、その人師たちの論釈を最大限に活かし、

その法理を世界の人びとに理解させるため、人間主義の思想として論じ、

社会に展開し、具現化してきたのが創価三代の師匠です。


池田先生は『小説 新人間革命(広宣譜)』の中で

「仏法の法理を、『生命論』や『生命哲学』として論じていくことで、

広く人びとが仏法を理解する素地をつくることができる。


仏法の展開のためには、時代に対応しながら、さまざまな現代の哲学、科学の成果を踏まえ、

わかりやすく論じていくことが不可欠だ。


仏法を、いかに時代に即して展開していくか――それは、広宣流布を推進するうえで、最重要のテーマといえよう。

その責任を放棄し、努力を怠れば、広宣流布の道は閉ざされてしまうことになる。


だからこそ、学会では、そこに最大の力を注いできたのだ。

その着実な努力があったからこそ、世界の指導者、識者も、日蓮仏法に刮目し、

共感を寄せ、世界宗教へと発展してきたのである」(聖教新聞 平成二十六年十一月二十七日付)と述べられています。


【立正安国論の指導原理について】2/30  投稿者:大仏のグリグリのとこ  投稿日:2014年12月 5日(金)15時02分20秒

  世界の知性は、創価三代の思想に共鳴し、池田先生の思想を求めています。


世界広布新時代を迎えた今、

池田思想はもはや学会だけの独占物ではなく、

人類の共有財産であり、世界の至宝だと思います。


近年の「阪神・淡路大震災」から始まるここ二十年間の様々な自然災害(東日本大震災の津波等)。


とくに今年(平成二十六年)だけを見ても

「火山の噴火、台風(暴風雨)、水害、地震、土砂崩れ」などによる甚大な被害がありました。


また、経済の低迷と対立による民衆の活力の低下と、

社会モラルの荒廃によるいじめと自殺の増加。


この現実を目前にして

「これはいかなる過失から生じたものであり、いかなる誤りによるのか」と、

問うべき「時」が再び到来したのではないでしょうか。


今まで私たち会員は、立正安国論を研鑽する際、

どちらかというと「主人」側に立って研鑽し、その自覚に立って戦ってきたと思います。


だからこそ、

創価学会は世界百九十二ヶ国地域にまで発展し、

日本全土において学会の会館が建ち並び、

人口の十人に一人が会員という未曾有の拡大と発展を遂げて来たわけです。


また、日蓮正宗との二十数年にわたる闘争を経て、

今や大石寺も「七百年の歴史と伝統」だけが売り物の、

建長寺や円覚寺となんら変わらない一寺院に封じ込めました。


もはや世界をリードする宗教にはなり得ないでしょう。


また、大聖人が生きた時代は、

念仏宗が隆盛を極め、多くの人々が念仏を唱えていました。


それから七百年の時がすぎ、創価学会が誕生して、今や日本はもとより、

世界に多くの会員が誕生し、途切れることなく世界中で題目が唱えられています。


であるにも関わらず、

どうして今も自然が猛威を奮い、経済の低迷と対立に、民衆が悲しみ苦しむのでしょうか。


その原因究明と問題解決を求めて、立正安国論を研鑽していきたいと思います。


【立正安国論の指導原理について】3/30  投稿者:大仏のグリグリのとこ  投稿日:2014年12月 5日(金)15時04分13秒

  その前に確認しておきたいことは、

牧口先生は「行き詰まったら原点に返れ」との指導を残されました。


また、明治の思想家である内村鑑三氏も

「経済の背後に政治あり、政治の背後に社会あり、社会の背後に道徳あり、

道徳の背後に宗教あり。宗教は始めにして経済は終わりなり」

(「内村鑑三所感集」岩波文庫)と述べています。


創価学会の運動理念は「立正安国論に始まり、立正安国論に終る」です。

御書には「仏弟子等必ず仏法を破るべし」との戒めがあります。


これは、例外なく創価学会にも当てはまる最重要の教訓です。


創価三代の師匠と共に、無名の庶民が心血を注いで築いた世界最大の創価学会。


この偉大な学会から「師子身中の虫」を絶対に出さないために、

私たち会員も、原点を見つめ直し、謙虚な心で「主人・客」の対話を通し、

一度、客側に立って「主人」の話に耳を傾けたいと思います。


そうすることによって、何が見えてくるか、それを皆様とともに考えていきたいと思います。


立正安国論には、

「観れば、夫れ二離・璧を合せ、五緯・珠を連ぬ。

三宝も世に在し、百王未だ窮まらざるに、此の世早く衰え、其の法何ぞ廃れたる。

是れ何なる禍に依り、是れ何なる誤りに由るや」(一七頁)


――よくよく考えてみれば、太陽も月も星も、なんの変化もなくきちんと運行し、

仏法僧の三宝も世の中に厳然とある。(八幡大菩薩)も百代の王を守護すると誓ったというのに、

いまだ百代にならないが、この世は早くも衰えてしまい、王法はどうして廃れてしまったのか。

これはいかなる過失から生じたものであり、いかなる誤りによるのでしょうか――とあります。


【立正安国論の指導原理について】4/30  投稿者:大仏のグリグリのとこ  投稿日:2014年12月 5日(金)15時05分12秒

  この文は「民衆の苦悩の根本原因は何か」ということを、

徹底的に探究していく姿勢こそ、真の指導者のあるべき姿であり、

日蓮門下の使命ではないか、という大聖人の叫びとも取れる言葉です。


立正安国の原理には二つの側面があり、一つは、立正がなければ安国の実現はない。

立正を根本として戦いを進めていくなかに、安国の実現がある、ということです。


もう一つは、安国のなかに立正を確立していく。

つまり、現実の社会を生命尊厳の社会に変革していく戦いのなかに、立正が輝いてくる、という二つです。


ここでいう「社会の変革」とは、突き詰めていえば「民衆の変革」のことだと思います。

安国の「国」とは、安国論を読めば明確ですが、国家中心の国ではなく、

人間中心の国であり、民衆が中心の社会ということがわかります。


さらに「国」を国土という面と、社会という面に立て分けて考えていけば、

社会といった場合は、その本体は何かといえば、民衆なのです。


もちろん、国家の機構・体制ということもありますが、その主体はあくまでも民衆です。


しかし、今の社会やあらゆる組織体制というのは、

あまりにも機構・体制に偏っていて民衆不在になっています。


これを民衆という原点に戻さなければ、民衆が組織機構の奴隷になりかねません。

なぜなら、「安国」の精神や元意も、民衆を安んずるというところにあるからです。


また、国土という面からも、安国論が「自然と人間」という

視点から説かれている、ということを忘れてはならないと思います。


これは自然と人間の関係性のうえから、いかにして災害を根絶し、

平和楽土を創造していくべきかという原理を示しています。


大聖人は、三災七難が起こる真っ只中で、

民衆の苦悩をわが苦悩とし、立正安国論を著されました。


創価三代の師匠も、世界的な三災七難が起こる中で、

安国論を旗印に、立正安国の運動を展開してきました。


立正安国論は、過去の書物ではなく、

厳然と、今も現代社会の実像を映し出す明鏡であり、未来を開くカギなのです。


【立正安国論の指導原理について】5/30  投稿者:大仏のグリグリのとこ  投稿日:2014年12月 5日(金)15時06分16秒

  一九六〇年(昭和三十五年)五月三日――。

第二十二回春期本部総会を兼ねた『第三代会長就任式』で、

池田先生は、

「若輩ではございますが、本日より、戸田門下生を代表して、

化儀の広宣流布を目指し、一歩前進への指揮をとらせていただきます」と挨拶しました。


法体の広宣流布は、日蓮大聖人お一人の戦いが中心でしたが、

化儀の広宣流布は、大聖人のご遺命のままに、

その使命に目覚めた無数の民衆の手によって、実現されていくものです。

なぜなら、主権は民衆の側にあるからです。


現実の社会に「人類の幸福と世界の恒久平和(広宣流布)」を実現する行動こそ、

大聖人の志向された仏法実践の精神があります。


創価学会が、その社会的意義を

「平和を守り、人間文化の興隆にある」と定義し、

信頼と相互の尊厳を基調として、その実現を目指して行動しているのも、

立正安国の哲理と精神を社会に具現化していくためです。


一人の人間に「人間革命」を促し、社会を浄化し、

正しい社会観と人間観を持った人びとが協力し合い、励まし合う姿を築くのも、

また、宇宙のリズムを正し、国土に恵みと潤いをもたらすのも、私たち会員の使命と責任だと思います。


またそれが、師匠の厳命でもあります。


【立正安国論の指導原理について】6/30  投稿者:大仏のグリグリのとこ  投稿日:2014年12月 5日(金)15時07分12秒

  立正安国論の冒頭で、客は社会や民衆の悲惨な様相を嘆き、

「是れ何なる禍に依り、是れ何なる誤りに由るや」(一七頁)と主人に問います。


この客の最初の問いは、指導者一人だけの問いではなく、全民衆が感じている問いでもありました。


そこで主人は、「神天上の法門」を示します。


客からすれば、意外にもその答えは、「万民が正法に背き」、

「善人・聖人(良識・道理)」が

「国を捨て去って(良識・道理が通らない世の中になって)」、

その代わりに、

「魔王・悪鬼(力の論理・悪思想)」が世の中に幅を利かせてのさばり、

「国中に災難が起こる」というのです。


この答えは、仏法を知らない客や仏法を習い始めたばかりの会員にとっては驚きだったと思います。

そしてそれは、現代においてもなかなか理解されない原理だと思うのです。


客が「それはどこの経文に書いてあるのか、その証拠と根拠を聞きたい」というのも当然です。


しかしこの哲理は、厳しき一念三千の生命哲学による社会観であり、

宇宙観であり、日蓮大聖人の大確信であり、絶対の真理であると思います。

その大確信なくして、あれだけの大難を乗り越えることなど不可能だったと思います。


また「客」が主人の意外な答えを聞いて、謙虚にその理由を聞こうとする姿勢は、

人間として、指導者として、また対話をしようとする人のあるべき真の姿です。


偉大な人、心ある人であれば、未知の世界にはたえず謙虚であるべきです。

そこに会員である、ない、は関係ありません。

でなければ、相互理解の対話などできるはずがありません。


ましてや、人類が「恒久平和か、滅亡か」の岐路に立たされているときに、

新たな方途を見いだそうと努力するのが、為政者や、指導的立場の人の当然の姿です。


これが、王道か覇道か、人間主義か権威主義かの試金石ではないでしょうか。


【立正安国論の指導原理について】7/30  投稿者:大仏のグリグリのとこ  投稿日:2014年12月 5日(金)15時08分39秒

  災難が起こる根拠と証拠を問われた主人は、その文証として、

金光明経、大集経、仁王経、薬師経の四経の文を引いて説明します。


しかし、この四経は法華経以前に説かれた、いわゆる「爾前経」です。

大聖人は、諸御書のなかで無量義経や方便品を引用しながら、この爾前経を徹底的に破折しています。


しかしなぜ、爾前経を破折しておきながら、爾前の経々を文証として引用されたのでしょうか。


これについては「観心本尊得意抄」にこうあります。

「一北方の能化難じて云く、爾前の経をば『未顕真実』と捨て、乍ら安国論には爾前の経を引き文証とする事、自語相違と不審の事、前前申せし如し。総じて一代聖教を大に分つて二と為す。一には大綱。二には網目なり。・・・・・法華の為の網目なるが故に法華の証文に之を引き用ゆ可きなり。其の上、法華経にて実義有る可きを、爾前の経にして名字計りののしる事全く法華の為なり。然る間、尤も法華の証文となるべし」(九七二頁)。


※長いので間を抜きました。


つまり、その意味は

「成仏得道の経は、法華経にかぎるが、それ以外のことについては、その他の経文に明かされている。

成仏の本体を法華経なりとすれば、一切の経々はすべて活かされてくる」ということです。


法華経以外の経典はすべて、切り捨てるのではなく、

人類に有益なことは、内外(内典・外典)問わず、すべて活かしていこうとするのが、

大聖人の思考であり、大乗仏教の精神です。


池田先生が世界の「知性の言葉」を引用し、仏法哲学を表現しているのもそのためです。


つまり、宗派を超えて、人間という原点に立ち返り、世界の知性を結集して、

現実社会に仏法を展開していこうとする挑戦です。


これが価値を創造する「創価学」思想の根本だと思います。


池田先生は

「華厳経それ自体としては、四十余年未顕真実の教えであり

『死の法門』であるが、ひとたび、法華経の立場で用いれば、十界互具、一念三千の

説明として生かされ『活の法門』となる」(池田大作全集二十五巻)と述べられている通りです。


【立正安国論の指導原理について】8/30  投稿者:大仏のグリグリのとこ  投稿日:2014年12月 5日(金)15時09分38秒

  では、文証として引かれた「金光明経」から見ていきましょう。


「一切の人衆、皆善心無く、唯繋縛・殺害・瞋諍のみ有つて、互に相讒諂し、枉げて辜無きに及ばん」(一八頁)


――すべての人たちは、皆ことごとく善心がなく、ただ縛り合い、殺害し合い、

争い合って互いに相手を讒言し、罪のないものを無理やりに法をまげて罪に陥れる――。


これは、民衆に善心というものがなく、

皆、利己主義になって他人のことなど考える余裕すらなく、

畜生界の如く上司に媚びへつらう集団のような生活が民衆のなかに起こる。


罪人は多くなって、これを縛るのに忙しく、

ちまたにはリンチ・いじめがあり、残忍な殺害があり、

怒りと怒りがぶつかり合って修羅道となり、互いにへつらい合い、

罪なき人を罪に陥れるようになる――という、まさに暗黒と悲惨と恐怖の世界です。


そして、「伝染病が流行し、地震が起き、大雨や暴風があって農作物が実らず、民衆は苦悩を受ける」(同頁)というのです。


次に「大集経」の文中で、

「衆生及び寿命・色力・威楽減じ、人天の楽を遠離し、皆、悉く悪道に堕せん」(一九頁)


――衆生の寿命も減じ、体力も威光も楽しみも減少し、

生活が脅かされ、皆ことごとく不幸に堕ちてしまう――


とありますが、

これは人口が減少し、寿命が減じ、生命力が弱まり、その肉体も衰え、

楽しみも希望も勇気もなく、健全な生活は失われ、例えば、うつ病のような神経を病む人ばかりになる。

やがて三悪道に堕ち入り、長くそこから抜けきれず、闇から闇へと流浪していくということです。


【立正安国論の指導原理について】9/30  投稿者:大仏のグリグリのとこ  投稿日:2014年12月 5日(金)15時11分5秒

  また、

「是くの如き不善業の悪王・悪比丘、我が正法を毀壊し、天人の道を損減し、

諸天善神王の衆生を悲愍する者、此の濁悪の国を棄てて皆悉く余方に向わん」(同頁)


――このような不善業の悪王や悪比丘がわが正法を破り、天界、人界の道を滅し、

諸天善神の梵天、帝釈、四天王などの衆生を哀れむべき善王も、

この濁悪の国を捨てて皆ことごとく他方へ向かうであろう――とあります。


「不善業の悪王・悪比丘」とは、政治的指導者であり、宗教的指導者です。


現代でいえば、民衆の生活にもっとも影響力のある政権与党の政治家であり、

多くの人々に影響を与える教団首脳陣と捉えることもできます。


それらが、私利私欲にふけり、派閥抗争に明け暮れ、不正を事とし、

陰険で善人を迫害しようとする姿を見るにつけ、民衆は疲弊し苦悩する。

それは今も歴然としています。


しかし、このような指導者を誕生させたのは、いったい何が原因か。

そこに黒々とした民衆の生命の濁りを見いだすことができるのです。


これこそが、人間を奴隷化と向かわす低級宗教であり、悪思想の害毒です。


人間性を無視し、官僚主義に陥った宗教が横行し出すと、

人々は無気力となり、退廃と狂気の温床となります。


無気力な民衆を食いちらす狂気のごとき邪宗、邪義、邪智・・・、

そこから生まれる指導者、この三拍子がそろえば、まさに地獄です。


「不善業の悪王(政治家)」は「不善業の悪比丘(宗教指導者)」とともに、

民衆の幸福を説いた思想を隠し、道理は通らなくなり、

すべてがパワーゲームで物事が動いていくのです。


そして、魔来り、鬼来り、災起こり、ついに国が滅びていくという事です。


【立正安国論の指導原理について】10/30  投稿者:大仏のグリグリのとこ  投稿日:2014年12月 5日(金)15時12分30秒

  次は「仁王経」です。そこには、

「国土乱れん時は、先ず、鬼神乱る、鬼神乱るるが故に、万民乱る」(一九頁)


――国土が乱れるときは、まず鬼神が乱れる。鬼神が乱れて万民を悩ます――とあります。


この「鬼神」ということですが、大聖人は、鬼神には二つあると言っています。

それは「善鬼と悪鬼」(一二四六頁)があって、「善鬼」は御本尊を持つものを守るが、

「悪鬼」は個人に対して功徳を奪う働きをすると述べています。


「魔」が生命内在のものであるのに対して、

「鬼」は自然界や社会から生ずる働きともいえるでしょう。

たとえば、社会全体をおおっている悪思想も「鬼神」といえます。


「鬼神乱れる」様相とは何なのか。

政治の世界であれ、経済の世界であれ、教育の世界であれ、宗教の世界であれ、

あらゆる分野で行き詰まり、これほどだめにしたのは、いったい誰の一念だったのでしょうか――。


ある人は、私利私欲と派閥争いに明け暮れ、

ある人は、学問の権威の座に坐して民衆を軽蔑し、

ある人は、経済的利益のみを追い求めて公害を撒き散らし、諸外国のひんしゅくをかい、

ある人は、評論家と名乗りもっともらしい言葉で自己を飾り、

ある人は、エリートという気位に立って弱き庶民をいじめ抜く――。


つまり、あらゆる分野の指導者たちが、法や道理・秩序などを中心とせず、

会員であれば、御書や池田先生の指導を中心としないところに組織の衰退と会員の苦悩があるということです。


今なすべき緊急の課題は、生命力の減退している民衆に、

力強い生命力を与え、社会に活力を与えるために、あらゆる分野の指導者の一念を正すことなのです。


それは単なる反省とか意識変革などで変わるものではありません。

思想を支配するものが生命の働きである以上、より根源的なもの――。

結論から言えば、仏法の真髄である日蓮大聖人の教え(実乗の一善)による以外にないのです。


――貴方の会社の先輩や後輩はどうですか。貴方自身はどうですか。

貴方の組織の先輩や後輩はどうですか。貴方自身はどうですか――。


問われているのは、社会や教団ではなく、自分自身です。貴方自身です。

自分自身が社会の平和のために、友のために何をしたかです。


【立正安国論の指導原理について】11/30  投稿者:大仏のグリグリのとこ  投稿日:2014年12月 5日(金)15時13分54秒

  また「仁王経」の文では、

自然災害や社会の荒廃が起こるには、順序があり、タイムラグがあると説いています。


まず一番目に起こるのは、指導者の思想から乱れていく。

二番目は、乱れた思想をもつ指導者が立つと、その社会機構が力の論理に支配される。

三番目は、力の論理に支配されるがゆえに民衆が乱れ、自然災害が起こる。


これが、国が滅んで行く順序です。

指導者が狂い始めた直後は、民衆はまだ何が起こっているのかわからない。

民衆が気付くのは、実際に自分の職場が倒産したり、自分の所属する機構の荒廃を目の当たりにしたときです。


しかし、そのときにはもう自然環境が猛威を奮っていることでしょう。

そうなってはもう遅い。


だからこそ、その最悪の事態を避けるために、大聖人は立正安国論を著し、諌暁したのです。

しかし、先陣を切って戦う聖人・賢人は、迫害に合うことは避けられず、これも経文通りなのです。


最後に「薬師経」です。

「若し刹帝利・潅頂王等の災難起らん時、所謂、人衆疾疫の難、他国侵逼の難、自界叛逆の難、星宿変怪の難、日月薄蝕の難、非時風雨の難、過時不雨の難あらん」(一九頁)


――もし、刹帝利・潅頂王のいわゆる支配者階級のものに災難が起こるときには、

次のような七つの難がある。すなわち、

民衆が伝染病等の流行に悩まされる難、

他国から侵略される難、

自国内で反逆、同士討ちが起こる難、

星宿の変怪する難、

太陽や月が日蝕、月蝕など薄蝕する難、

時期はずれのときに暴風雨のある難、

時を過ぎても降るべき時節に雨の降らない難、

以上の七つの難である――とあります。


ここは、指導者の責任と使命がいかに重大かということが説かれているところです。


【立正安国論の指導原理について】12/30  投稿者:大仏のグリグリのとこ  投稿日:2014年12月 5日(金)15時15分21秒

  小説『人間革命一巻』には

「愚かな指導者に率いられた民衆ほど哀れなものはない」――とあるように、

指導者の誤りほど恐ろしいことはありません。


指導者の誤りは、国内を混乱させ、民衆を不幸のどん底に落とします。

さらには、国を滅亡に導き、民衆をしてその後、何百年、何千年と悲劇の道をたどらせることにもなるのです。


だから、個人の幸福を説く仏法が、単に個人にとどまらず、

指導者と仏法の関係を強調するのは当然のことです。


誤った指導者が、いかに民衆を不幸のどん底にし、

社会を滅ぼすものであるかは、古今の歴史がよく物語っています。


宗教界においては、日本天台宗しかり、日蓮正宗しかりです。


立正安国論に示されたこの四経(金光明経、大集経、仁王経、薬師経)の文は、

指導者こそ、正法をたもたなければならないことを教えているのです。


そして主人は、

「以上のように、この四経の経文はまことにはっきりしている。

誰人たりとも、これを疑うことはできない。


しかし、道理に暗く、法の正邪の区別がつかない人や、

正邪に迷っている人が、邪説を信じて正しい教えをわきまえず、

すべての諸仏や衆経に対して、無関心になり、捨て、離れる心をおこし、仏法を護る志がない。


そのため、諸天善神も聖人も、その国を捨てて他所へ去ってしまい、

かわって悪鬼、外道が災難を起こすのだ」(二〇頁)と結論するのです。


災害の起こる理由は、

第一に、人々が悪思想を信じること。

第二に、そのために道理が通らなくなり、弱肉強食の力の論理が幅を利かす社会になること。

第三に、悪思想が社会に蔓延し災難が起こること、の三つです。


これを道理と経文によって、主人は明らかに示していきました。


【立正安国論の指導原理について】13/30  投稿者:大仏のグリグリのとこ  投稿日:2014年12月 5日(金)15時16分59秒

  ここで私たち会員が、もっとも注意し大事にしなければいけないのは、

大聖人が経文を第一に引かれる深意です。


実際、この立正安国論全体の構成を見ても、全文の五十一%が「経文と釈論」に費やされ

「主人」のところだけを見ても、主人の主張が三十六%、経文が六十四%に費やされていることです。

この事実からも大聖人がいかに経文第一に、仏法を実践していたかがわかります。


これを明鏡としてみた場合、私たちはどうでしょう。

――御書根本に、池田先生の指導通りに信心を実践し学会活動していますか。

会員に、自身の我見や経験知だけを押し付けていませんか。

組織至上主義に陥っていませんか、権威主義に陥っていませんか――。


創価学会は、永遠に人間主義であり、平和主義であり、対話主義です。


その根底は日蓮大聖人の立正安国の思想であり、創価三代の思想・指導が根本なのです。


さて、この結論を聞いた「客」は、どんな反応をしたのでしょうか。

今度はそれを見ていきたいと思います。


結論を聞いた客は「色を作して曰く」(二〇頁)とある通り、顔色を変えて怒ったのです。


なぜでしょう。

なにが客を怒らす原因になったのでしょうか。


それは「道理に暗く、法の正邪の区別がつかない人や、正邪に迷っている人が、

邪説を信じて正しい教えをわきまえず、すべての諸仏や衆経に対して、無関心になり、

捨て、離れる心をおこし、仏法を護る志がない」(同頁)と言ったことに怒ったのです。


客からすれば、

「中国から日本に仏教が伝わって来たとき、仏教を排除しようとした物部守屋を聖徳太子が退治し、

仏教を興隆させたではないか。その後は多くの寺院を建立し、天皇から万民にいたるまで、

仏像を崇め、経巻をひもとき、読誦してきた。


そして多くの僧たちは教法を守り、教法を尊ぶ伝統を今日まで伝えている。

それなのに、釈尊一代の教えを破り、汚し、仏法僧の三宝を廃し、

仏法がないとは、誰が言えるのか。

もし、その証拠があるなら、詳しくその理由を聞きたい」(同頁)と怒りながら反論したのです。


【立正安国論の指導原理について】14/30  投稿者:大仏のグリグリのとこ  投稿日:2014年12月 5日(金)15時17分53秒

  私たちに置き換えて考えても、この客の反論は納得できます。


もし主人から、

「今の学会員は道理に暗く、法の正邪の区別がつかない会員や、

正邪に迷っている会員が多い。

組織の言うことは絶対に正しい、まちがいはないと、ただ盲目的に信じて自分では何も考えない。

御書や池田先生の指導をわきまえず、

教学を研鑽することも、学会の歴史を知ることも無関心になり、

日蓮大聖人の精神や池田先生の思想を護る志がない」

と言われたらどうでしょう。


当然、客と同じように、

「日蓮正宗が、大聖人の精神を失いかけたとき、牧口先生が命を懸けて守り、

それ以来、創価学会は三代に亘る会長を先頭に、日蓮仏法を全世界に興隆させたではないか。


多くの会館を全国に建立し、今や政権与党の政治家から万民にいたるまで、

日々、御本尊を拝し、勤行・題目を唱えている。


そして多くの本部職員が誕生し、池田先生の思想をまとめる仕事をして守っている。

御書や先生の指導を学ぶ伝統の教学試験も実施し、今日まで伝えている。


それなのに、日蓮大聖人の教えを破り、汚し、仏法僧の三宝を廃し、

学会に仏法がないとは、誰が言えるのか。


もし、その証拠があるなら、詳しくその理由を聞きたい」といって怒るのは当然です。


ちなみに『仏法僧の三宝』を簡単に説明すると、

仏宝とは「主師親の三徳をそなえられた仏」、

法宝とは「その仏の説いた教法」、

僧宝とは「伝持の人」ということです。


「三宝を廃す」とは、それが滅びるという意味です。


【立正安国論の指導原理について】15/30  投稿者:大仏のグリグリのとこ  投稿日:2014年12月 5日(金)15時18分49秒

  ここからは非常に大事なところなので、よりわかりやすく理解してもらうため、

私たちの学会組織に置き換えて考えていきたいと思います。


なぜなら、近い将来、学会から師子身中の虫が出ないとも限らないし、

事実において過去に公明党首脳陣からも、学会首脳陣からも反逆者を出した経験があるからです。


では始めます。

まず、現在の学会組織に仏法があるかないか。

この点で主人と客の見解が食い違っています。


客は、創価学会が誕生して以来、八十数年にわたって会員を倍増し、

初代・二代・三代・四代・五代・六代と会長が誕生し、日本全国はもとより、

世界各国に創価学会の会館を建立してきました。


今や日本の政権を握る政治家も含め、

あらゆる分野の指導階級から庶民までもが信仰に励んでいる。

それにも関わらず、どうして創価学会に仏法がないというのか――。


これに対して、

主人は、そのように万人が信仰をしているが、

御書や先生の指導とちがうことを言う幹部がいても、

誰も何も言わず、黙ってその幹部の言うことに従っている。


法に照らして、先生の指導に照らして、悪は悪と言いきる者がいない。

また、それを指摘すれば反逆者扱いにしてしまう風潮があるのに誰も何も言わない。

しかも責任ある幹部が愚かで、誰も責任を取ろうとしない。


無智で、世間知らずで、仏法の正邪を見分けることができないから、

ますますそのような保身の幹部がのさばり、ずる賢い幹部だけが栄えているのだ――と諭されています。


この「主人・客人」の考え方の根本的な違いは、客が形式主義にとらわれているのに対し、

主人は、実質を論じ、権威主義・形式主義を排して、仏法の正邪、高低、浅深という問題の核心にふれていることです。


【立正安国論の指導原理について】16/30  投稿者:大仏のグリグリのとこ  投稿日:2014年12月 5日(金)15時21分43秒

  日蓮大聖人の時代から今日にいたるまで、一貫して変わらないことは、

人々は宗教を論じるときに、あまりにも形式にとらわれ、宗教家と名がつく者、

学会であれば、幹部と名がつく者は皆、善知識だと決めてかかって、

宗教・思想の正邪、高低、浅深に、驚くほど無頓着なことです。


これが組織悪を許す根本原因なのです。


しかし、この権威主義、形式主義にとらわれ、実質を見失うのは、人間の弱点でもあります。


かつて、西洋でもキリスト教会の「宗教的ドグマ(教義)」「教会の権威」は、

未知の世界を知りたいという人間の自然の心の発露を、巨大な圧力で押しつぶし、

真実を叫ぶ偉大な知性をも葬り去り、思想の高低、浅深を論ずることを許さず、

権威と形式でしばりつけた悪夢の歴史があります。


日本においては、戦時中の神道思想への一国あげての傾注は、愚かしい狂気の沙汰でした。

初代・牧口先生は、正義の思想を守るために、その悪思想の巨大な圧力に殺されたのです。


神道思想の善悪、是非を論ずることを許さず、

権威と巨大な軍部の圧力が、民衆のうえに重くのしかかりました。


それらの底流を見るときに、権威主義、形式主義は、

民衆の生命の奥深くに根ざしていたのです。


既成の権威に閉ざされ、同調し、流されていく無気力と無智。

そして、自己保身に汲々となり、長いものには巻かれろ的な事なかれ主義。


それらの風潮が、政治面においては、民衆に君臨する巨大な独裁権力を生み、

宗教面においては、政治権力と利害で結びついた邪宗邪義を横行させ、それによって、

民衆の心は、根底よりむしばまれてしまうのです。


もし、自分の所属する幹部の不正を指摘したとき、

「創価学会をけなすとはとんでもない」といって、烈火のごとく怒りだすのは、その典型です。


自分の既存の知識、自分の既知(すでに知っている)の権威にしがみつき、

必死に抵抗しようとする姿は、哀れとしか言いようがありません。


【立正安国論の指導原理について】17/30  投稿者:大仏のグリグリのとこ  投稿日:2014年12月 5日(金)15時23分30秒 編集済

  主人は、こうした我慢偏執を捨て、思想の正邪、善悪を「法」によって検討することを教えられています。


しかし、現在の学会組織に仏法があるかないか、

その実質を論じてみれば、現場の意見も聞かず、まったく道理が通らず、

幹部の悪を指摘すれば反逆者扱い――。


それの一体、どこに仏法があるのか、どこに正義があるのか――。

それは明白ではないかと論じられているのです。


そして、

「但し法師は諂曲にして、人倫に迷惑し」(二一頁)――と。


これは組織に巣くう不正をした一般の幹部や、

中枢に巣くう一部の悪い首脳幹部の本性をえぐられた言葉です。


また、

「王臣は不覚にして、邪正を弁ずること無し」(同頁)――と。


これは、政治権力者に対して、真正面から切り込み、その愚迷を諫言された言葉です。


この一句のなかに、権威を恐れず、民衆のためを思い、会員のためを思い、

ただ一人決然と戦う広宣闘士の勇姿を見る思いがします。


また、もう一つ見逃してはならないことは、客の対話の姿勢です。


「もし、その証拠があるなら、詳しくその理由を聞きたい」(同頁)――と。


どんなに腹立たしく怒っていても、どこまでも平和的な対話で、

相手の主張に耳を傾けるという姿勢です。


これが権力をもつ側の指導者の真の姿です。


学会幹部が会員の声に耳を傾け、会員も組織まかせ、幹部まかせにせず、

主体者となって協力し、幹部・会員ともに広布の対話をしていくかぎり、

人間共和の麗しい異体同心の学会家族の和が、無限に広がっていくと確信します。


それが、池田先生の望まれる「学会は、永遠に人間学会で行く」ということだと思います。



・・・・・・・明日に続く。



【立正安国論の指導原理について】18/30  投稿者:大仏のグリグリのとこ  投稿日:2014年12月 6日(土)08時53分33秒

  安国論は、あくまでも民衆の側に視点を置き、権力者の実像を白日のもとにさらします。


そして、そのような非道を行う権力者のもとでは、

三災七難に象徴される数々の災害が起き、国家は衰退するというのが、大聖人の根本思想なのです。


さらに主人は、仁王経・涅槃経の文証を通して、

僧侶の悪の本性をあぶり出していきます。


今度は、その中で三つを見ていきます。

これも先ほどと同じように学会に引き当てて解説します。


「諸の悪比丘多く名利を求め、国王・太子・王子の前に於て、自ら破仏法の因縁、破国の因縁を説かん。

其の王、別えずして、此の語を信聴し、横に法制を作つて仏戒に依らず。是れを破仏・破国の因縁と為す」(二一頁)


――もろもろの悪い幹部は、

多くの名誉や利益を求めて、政治家や経済界や、各分野の権力者の前で、

自ら創価思想を破るシナリオ、国の法律を破るシナリオを話すであろう。


その政治家は、

それらの話のシナリオをわきまえることができなくて、その言葉を信じ、

道理にはずれた自分勝手な法制を作って、先生の立党精神や学会指導によらない――と。


また、

「悪世の中の比丘は、邪智にして心諂曲に、未だ得ざるを為れ得たりと謂い、我慢の心充満せん」(同頁)


――悪世のなかの幹部は、

邪智で心がひねくれて、学会指導に忠実ではなく、

今だに現場の会員の苦労も、信心のこともわかっていないのに、

自分は悟りを得ていると思い、自分の『我』をはる心が充満している――と。



【立正安国論の指導原理について】19/30  投稿者:大仏のグリグリのとこ  投稿日:2014年12月 6日(土)08時54分28秒

  そして、

「我、涅槃の後、無量百歳に四道の聖人、悉く復た涅槃せん。

正法滅して後、像法の中に於て、当に比丘有るべし。

像は律を持つに似て、少かに経を読誦し、飲食を貪嗜し、其の身を長養し、袈裟を着すと雖も、

猶猟師の細視して徐行するが如く、猫の鼠を伺うが如し。常に是の言を唱えん、我羅漢を得たりと。

外には賢善を現し、内には貪嫉を懐く。唖法を受けたる婆羅門等の如し。

実には沙門に非ずして、沙門の像を現じ、邪見熾盛にして、正法を誹謗せん」(同頁)


――日蓮大聖人が入滅して、七百数十年という長い年月が過ぎると、

仏法を正しく弘めた「初代・二代・三代」の師匠もことごとく入滅するであろう。


師匠がいたころの活気に満ちた時代が過ぎて、学会活動も形式ばかりになり、

いよいよ学会組織自体に信心がなくなっていく末期になると、次のような幹部が現れるであろう。


その幹部は、外面は師匠の指導を守っているように見せかけ、

少しばかり題目をあげているけれど、飲み食いにどん欲で、わが身だけを思っている。


その幹部は「本部職員」という仮面を身にまとっているけれども、

会員の財務をねらうありさまは、猟師がえものをねらって、細目に見て静かに近づいていき、

猫がねずみを取ろうとしているようである。


そして、つねに自分は「師弟不二の精神を体得している」といい、

外面は賢人・聖人のように振る舞っているが、内面はむさぼりと嫉妬を強くいだいているのである。


教学のことなど質問されても答えられない有様は、

日顕宗の坊主が学会員に責められて黙りこんでいる連中のようである。


実際には、本物の弟子でもないくせに、幹部の姿をして、我見が強く威張りちらしている。

そして師匠の心を殺している――と。


【立正安国論の指導原理について】20/30  投稿者:大仏のグリグリのとこ  投稿日:2014年12月 6日(土)08時55分15秒

  以上、三つを見てきましたが、主人はこの経文をあげた後、

「文に就いて世を見るに、誠に以て然なり。悪侶を誡めずんば、豈善事を成さんや」(同頁)と訴えています。


つまり、

この文証によって、今の学会組織の様相を見たら、まことに経文どおりではないか。

このような腐敗だらくした幹部を戒めなければ、どうして学会を護ることができようか、

どうして先生の思想を護ることができようか、と訴えているのです。


この経文は、現代の宗教界の実態を浮き彫りにしているものです。

その中でもっとも悪質なのは、宗教家を装う宗教事業家、つまり宗教屋です。


特に日顕宗をはじめとして、日本全国の寺々は、布施をもらうための寺であり、

宗教屋は、ただ偉そうに飾り立てて金を集めるのが目的です。


「善事を成さん」という善事とは、一般大衆を真実の幸福へ導くということです。


学会に、もしこんな悪い幹部が出たら、会員のために、

その幹部を追放するのが「善事を成さん」ということなのです。


立正安国論について語りたいことは、まだまだ山ほどあります。


日本が世界が、今だかつてない自然災害の脅威にさらされ、

民衆が苦悩している今だからこそ、心ある会員がこの書を研鑽し、

一人一人が主体者となって実践していく時ではないのかと思います。


【立正安国論の指導原理について】21/30  投稿者:大仏のグリグリのとこ  投稿日:2014年12月 6日(土)08時56分6秒

  では、そろそろまとめに入っていきたいと思います。

ここまで、怒りながらでも黙って聞いていた客は、

今の主人の主張を聞いてどんな反応をしたのでしょうか。


その答えは「客、猶憤りて日く」でした。

つまり、前にも倍する勢いで怒ったということです。


なぜでしょう。なぜそんなに怒ったのでしょうか。

学会員に置き換えて考えてみてもそれは当然です。


客――つまり会員からすれば

「私たちが信頼している公明党は、今や日本を動かす政権に入って、

国民のために、いろんな制度や法制を作って働いている。


学会首脳陣も、正しき道理か否かを明確に、

公平に、立て分け、組織運営をしている。


今の学会の首脳陣たちは、池田先生の弟子であるし、

全会員が全幅の信頼を寄せている。


もしその首脳陣たちが悪い幹部であれば、誰も信じないはずだ・・・・・。

そのような妄言を吐いて、学会を誹謗し、いったい、誰のことを悪幹部というのか。

それを詳しく聞きたいと思う」(二一頁)というのです。


この客の反論を聞いて、その後、主人は、具体的に

「法然」の名前をあげて「選択集」の悪思想を破折していきます――。


さて、ここで「客の反論」の本文を見ていきましょう。

「明王は天地に因りて化を成し、聖人は理非を察して世を治む」(二一頁)


――明王は治世について天地の道理に即して民衆を化育し、

聖人は、理と非理を公平に立て分けて行政を行う――とあります。


客は、当時の社会の政治的指導者、

思想的指導者に全幅の信頼を寄せてこのようにいったのです。


しかし、この文をちがう角度で読むならば、大聖人は、客の問いを通して、

本当の指導者のあり方を語られている、ということも考えられます。


事実、この文は、社会の指導者のあるべき姿を明確に示されているものです。


【立正安国論の指導原理について】22/30  投稿者:大仏のグリグリのとこ  投稿日:2014年12月 6日(土)08時57分24秒

  ここでいう明王とは、鎌倉時代においては幕府の権力者です。

しかし、現代に当てはめれば、為政者や社会の指導者のことです。


また、聖人とは、仏法上の指導者を意味しますが、

広くいえば、これも社会の指導者と考えられます。


「聖」の字には、耳の穴がよく通って、

ふつうの人の聞こえない声までよく聞くことができる、という

意味があるところから、民衆の声なき声をよく聞き、

民衆を正しく導いていける指導者も「聖人」といえるでしょう。


「明王は天地に因りて化を成し」とは、

一国の指導者、為政者というものは「天地に因りて」

これは宇宙のリズム、社会のリズム――。


つまり、社会の動き、動向、民衆の微妙な心、

要望、時代の潮流などを察知していくということです。

また、社会の構造や機構を調和させていく事とも考えられます。


「化を成し」の、化の元意は、

「徳を以って人民を導き感ぜしめ、善良なる風俗習慣を作る義」です。


抽象的ではなく、具体的に時代に応じ、社会を繁栄させ、

民衆の生活を安定させていく事が出来るということです。


それは、特定の理論や主義によって議論したり、机上の空論に走るのではなく、

どのようにして、民衆を指導し、幸せにしていくかということを考え、

実行するのが真実の指導者、為政者の最大の課題であり責任です。


しかし、実質はどうか。

同志である公明党が、政権を担っているとはいえ、いつも民衆から遊離した政治、

私利私欲のために民衆の不幸をなんら顧みようとしない政治家もいます。


もし公明党もこのような、ほんの一握りの人びとのために、

多くの大衆を犠牲にしているような政治の現状を招いたならば、

はたして、本当の政治的指導者と評価されるでしょうか。


そうならないためには、組織まかせではなく、全会員が政治家を監視し、

まちがいがあれば、道理を尽くして正していく対話が必要なのです。


【立正安国論の指導原理について】23/30  投稿者:大仏のグリグリのとこ  投稿日:2014年12月 6日(土)08時58分12秒

  「聖人は理非を察して世を治む」――。

ここで理非を察してとは、正しき道理であるか否かを明確に分け、

さらにそれを社会の根本理念としていかなければならないということです。


しかもその道理とは、人間としての道理であり、

より根源的には、生命の哲理でなければなりません。


「世を治む」とは、その学説、主張、研究、抱負などを具体的に、政治や社会に反映させ、

あくまでも民衆の生活の安定を目標としていかなければ意味がないのです。


政治、学問、学会組織は、何のためにあるのか、

その帰着するところは「民衆の幸福の実現」にこそ、その要諦があるということです。


池田先生がつねに「人間の、人間による、人間のための・・・・」

という指導をするのは、この原理によるものです。


しかし、現在のあらゆる社会機構の現状はどうでしょうか。

理非を察してではなく、利害を根本として、社会が、組織が、運営されている観があります。


そして、恐るべきことは、そのような政治や社会や組織であっても、

それを何とか改革していこうという気力さえ、民衆の大半が喪失してしまったことです。


これが、民衆の生命それ自体が濁りきった姿なのです。

これを打開する方途が見いだされないかぎり、

腐敗した土壌に、いつも劣悪な政治が繰り返されるだけです。


人間性を無視した政治が行われるのも、

人間性を無視した学会組織にするのも、

結局その底流は、民衆や会員の無気力と惰弱な生命にあるのです。



【立正安国論の指導原理について】24/30  投稿者:大仏のグリグリのとこ  投稿日:2014年12月 6日(土)08時59分2秒

  では、明王と聖人は何によって生ずるのでしょうか。


政治にしても、経済にしても、教育にしても、

これらは「人間」の営みであり、人間生命の具体的な表現です。


この人間生命を正しい方向に導き、変革し、

最高に輝かせていく方途は、日蓮仏法しかないでしょう。


その仏法を教える人が、仏法上における「聖人」の立場です。

過去の歴史を見ても、民衆のことを思い、国家のことを考えて、

政治を行う指導者が現れたときは、その国が繁栄し、国力も富に充実していました。


しかし、悪い為政者に支配された時の国家や国民は、悲惨な目にあわされています。

その善悪を決定したものは、指導者が持った「法や理念」の正邪、高低です。


さて、その後主人は、客に対して、法然のどこが悪いのか、

法然の思想書である「選択集」の何がまちがっているのかを、

道理と経文を通して、順々と説いていきます。


そして客は、主人の主張に理解を示し落ち着きを取り戻していくのです。

「客、則ち和いで曰く」(二七頁)がそれにあたります。


しかし客は、すべての主張に納得したわけではありませんでした。


客は

「確かにあなたの言うように、法然の『捨閉閣抛』という思想は、

経をないがしろにし僧を誹謗していることになる。


だからといって、あなただって法然の思想をないがしろにして法然を誹謗している。

これは同罪ではないのか。


あなたと法然とは、どちらが賢いのか愚かなのか、

どちらの主張が是なのか非なのか、自分には判断ができない」(同頁)と述べます。


【立正安国論の指導原理について】25/30  投稿者:大仏のグリグリのとこ  投稿日:2014年12月 6日(土)08時59分49秒

  学会に置き換えて言うと、

「確かにあなたの言うように、一部の幹部は権威主義に陥り、

御書と先生の指導を中心としないで会員に我見の指導している。


だからといって、あなただってその幹部の指導をないがしろにして幹部を誹謗している。

これは同罪ではないのか。


あなたと一部幹部の主張とは、どちらが正しいのか自分には判断ができない」ということです。


しかし、よく考えてみよう。

大聖人は「法に依るのであって人によってはいけない」と言い、

池田先生は「権威主義・形式主義ではいけない」と常々言っています。


しかし、御書と池田先生の指導を中心とせず、権威主義・形式主義による組織運営や、

我見の指導を流す「害毒」の大きさは、計り知れないものがあります。


「一部の幹部は権威主義に陥り、

御書と先生の指導を中心としないで会員に我見の指導している。

だからといって(本文「其の誹謗を成せども」)」と、客(会員)は言う――。


しかし、誹謗とは、善いものを嫉んで悪くいうのが誹謗なはずです。

悪を悪と断じ、その罪を糾弾することは、むしろ正義を守るための絶対必要条件です。


もしも、悪を追及することが禁じられるなら、いったい世の中はどうなるのか――。


警察は活動を停止し、裁判所は門を閉じて、悪人は「わが世の春」とのさばり、

善良な民衆は不幸のどん底に突き落とされるにちがいありません。


こうした国法上の混乱にもまして、もっとも恐ろしいことは、仏法の正義が失われることです。


だから、どんなに嫉妬され、迫害され、弾圧されてもそれを恐れず、

勇敢に、護法のため、民衆や会員の幸福のため、社会の繁栄のため、

世界平和のために正義をかかげて、進まなければならないのだと思います。


【立正安国論の指導原理について】26/30  投稿者:大仏のグリグリのとこ  投稿日:2014年12月 6日(土)09時00分32秒

  大聖人は客に語らせます。

「天下泰平・国土安穏は、君臣の楽う所、土民の思う所なり」(二六頁)


――あらゆる民衆が互いに強調し合い、

仲良く生活を楽しんでいくことや、

自然災害に侵されない安穏な国土になるのは、

指導者も民衆も、すべての人々が等しく願うところです――と。


これは、いかなる時代、いかなる国家を問わず、社会の平和と国土の安穏、

そして民衆が安心して生活に勤しみ、人生を楽しんでいける社会の実現が、

指導者も民衆も共に「願う」ことであるという原理です。


自然環境も含めた国土の安穏こそ、

大聖人の目指した真実の「安国」であり、そのための「立正」なのです。


さらに、客に語らせます。

「国は法に依つて昌え、法は人に因つて貴し。

国亡び人滅せば、仏を誰か崇むべき、法を誰か信ずべきや。

先ず国家を祈つて、須く仏法を立つべし。

若し災を消し、難を止むるの術有らば、聞かんと欲す」(同頁)


――国家は法によって栄え、法は人によって尊いのである。

国が滅び、人々が減ずるならば、仏を誰が崇めるであろう、法を誰が信ずるであろう。

まず国家の安泰を祈って、しかるのち仏法を立てるべきである。

もし、そのような災難を防ぎ、国家繁栄の術があるならば聞きたいものである――と。


【立正安国論の指導原理について】27/30  投稿者:大仏のグリグリのとこ  投稿日:2014年12月 6日(土)09時01分16秒

  まず、

「国は法に依つて昌え、法は人に因つて貴し」とは、

国の繁栄、民衆の興隆は、必ずその根底となる法、

つまり思想の高低、浅深によって決定されるという原理です。


これは客の言葉ですが、重要な真理をあらわしています。


そして

「法は人に因つて貴し」とは、

いかなる法も、それを実践する人の「実証の姿」いかんによって、

流布もするし、消滅もするということです。

これは、受持の人、実践者の重要性を意味します。


法をたもっている人が幸福になり、福運を積んでいくことによって、

その法の偉大さが証明されるのです。


反対に、法をたもっている人が凶悪となり、残忍となり、

自ら悲惨な末路をたどって滅び去ることは、その法の低級さの証明です。


すぐれた法をたもったとしても、まだ充分に身につけることが出来ず、

その人の行動の一部を支配しているのみで、大部分の行動は相変わらず、

古い考え方、低い法によって行動している人が大勢います。


そういう人たちを指導し、育てていくのが学会幹部の責任と使命だと思います。


次に

「先ず国家を祈つて、須く仏法を立つべし」とは、

国が滅び、人が死んでしまったら、仏法を信奉することができません。

だからまず、国家や社会を安定して、その後、仏法を立てるべきであるとの客の言葉です。


【立正安国論の指導原理について】28/30  投稿者:大仏のグリグリのとこ  投稿日:2014年12月 6日(土)09時01分59秒

  この客の思想の根底には、政治が「主」で、宗教は「従」という考え方があります。


客とは、為政者になぞられているから当然かもしれませんが、

こうした考え方は、現代社会においても当然のように考えられています。


たとえば「政治体制を変革しなければ、民衆の幸福はない」という議論です。


その底流には、宗教や思想を単なる気休めや、

精神修行ぐらいにしか考えない思想認識の無智です。


「体制が優先だ」という人は、政治や体制によって戦争を絶滅し、犯罪を減らし、

真実の恒久平和と民衆の幸福を実現する確信があるのでしょうか。


そんなものは、考えなくても過去の歴史を見れば惨憺たる有様です。

しかも、いつの時代も、どの国の民衆も、平和を望む心に変わりはありません。


それなのに独裁者の野心と権力の前に、民衆はいつも惨めに屈服し、

恐怖が渦巻いて戦乱のなかに自滅していきました。


戦争を憎み、平和を渇望するのも人間の心です。

戦争を起こし、戦争で利益と名誉を願うのも、また同じ人間の心です。


そう考えると、この人間の心を動かし、悪思想を追放し、民衆の英知の団結で、

すべての人間の幸福を勝ち取っていく世界平和の実現は、法によって決定されていくのです。


客の最後の言葉として

「もし、そのような災難を防ぎ、国家繁栄の術があるならば聞きたいものである」――と。


これを聞いた主人は、何と答えたのでしょうか。

それを最後に見ていきたいと思います。


【立正安国論の指導原理について】29/30  投稿者:大仏のグリグリのとこ  投稿日:2014年12月 6日(土)09時02分46秒

  まず本文です。

「余は是れ頑愚にして、敢て賢を存せず。唯、経文に就いて聊か所存を述べん。

抑も治術の旨、内外の間に、其の文幾多ぞや、具に挙ぐべきこと難し。

但し仏道に入つて、数愚案を廻すに、謗法の人を禁めて、正道の侶を重んぜば、国中安穏にして天下泰平ならん」(二七頁)


――あなた(客)は、

賢いのか愚かなのか判断できないと言われたが、

自分はもとより愚かでなにも賢いわけではない。


ただ釈尊の経文について、少しばかり考えていることを述べてみたい。


そもそも災難を対治する方法については、

仏法の教典にも、仏法以外の書にも、たくさん説かれており、

残らずここにあげることは、到底出来ない。


ただし仏道に入ってしばしば自分の考えをめぐらしてみると、

結局、謗法の人を退治し、正法護持の人を重んずるならば、

国中は安穏となり、天下は泰平となることは明白である――。


これを学会に置き換えてみれば、

「あなたの言っていることが正義なのか、

幹部の権威が正義なのかは判断できないと言われたが、

自分はもとより愚かで若輩者で賢いわけでもない。


ただ日蓮大聖人の御書を研鑽し、池田先生の指導を研鑽して

少しばかり考えていることを述べてみたい。


世界平和を実現し、自然災害を消滅させる方法については、

御書や池田先生の指導にも、また、世界の知性の書にも、たくさん書かれており、

残らずここにあげることは、到底出来ない。


ただし、学会で訓練を受け、学会活動に励んでいる中で、

自分が最近思っていることは、結局、権威主義の幹部、堕落した幹部、

悪いことをした幹部の悪事を正し、注意し、追放するか、

もしくは何らかの処置をしなくてはならないと思う。


そして、御書どおり、池田先生の指導どおりに実践し、誠実で、

公平に物事を判断して組織運営をしている幹部や、会員を人材登用していけば、

組織に活気がみなぎり、さらに自然災害も収まっていくことは明白です」――。


【立正安国論の指導原理について】30/30  投稿者:大仏のグリグリのとこ  投稿日:2014年12月 6日(土)09時03分37秒

  客の「三災七難を消し止める方法とは」の問いに答えて、

主人はその解決策の結論の極理を述べていきます。


それが「謗法の人を禁めて、正道の侶を重んぜば」です。

そしてその後、それを法華経、涅槃経の文を引いて論証していくのです。


日蓮大聖人は、立正安国論のなかで一つ一つ経文を引いて裏づけ、

経文を示して結論を導き出していきました。


安国論に示された指導原理は、すべて事実の証拠と、

経文による裏づけと、哲学的論理性があります。


だから、いかなる時代になろうとも、

いかなる国土においても、時代を超えて共通する大原理です。


安国論は、単なる歴史的文献でもなければ、文学的にもてあそぶ著述でもありません。


七百年後の今日にもそのまま通じ、民族の興亡と経済的対立、

思想的、軍事的対立に苦悩する全人類に対する「警告の書」です。


客はその後、主人の経文を通した主張に納得していきました。

そして最後に、客は決意を述べて、主人との対話を終了します。


その最後の決意こそ、日蓮大聖人の決意であり、

創価三代の師匠の決意であり、全会員の決意です。


これを最後に記して終わります。


「唯、我が信ずるのみに非ず。又、他の誤りをも誡めんのみ」(三三頁)


――ただ自分一人が信ずるのみならず、他の人たちの誤りも戒めていきたいと思う――。  完


宿坊の掲示板より


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