立正安国論の破邪顕正について

【立正安国論の破邪顕正について】1/4  投稿者:大仏のグリグリのとこ  投稿日:2014年12月10日(水)12時24分48秒

 

《虹と創価家族さんの質問内容》

「如かず彼の万祈を修せんよりは此の一凶を禁ぜんには」と御書にございます。

この部分を今の学会に置き換えると、どのように解釈されますか?

皆様、色々なお言葉があると思います。

幹部腐敗に免疫が有無により、現状の受け止め方が大変違い、その後の信心に大きく差が出ます。

自分は幹部の腐敗を糾弾しながら、現場会員一人一人に正義の世論を打ち立てるしかないと考えております――。


まず、「彼の万祈を修せん」とは何でしょう。「此の一凶を禁ぜん」とは何でしょう。


ここから考えていきたいと思います。

「如かず」というのは「あのような・このような」という意味です。


あのような事とは何かというと、

主人は「法然の選択に依つて、則ち教主を忘れて西土の仏駄を貴び、付属を抛つて、

東方の如来を閣き、唯四巻三部の教典を専にして、空しく一代五時の妙典を抛つ」(二三頁)


――法然の選択集によって、情勢は一変した。

教主釈尊を忘れて、西方の阿弥陀如来を貴び、釈尊の付属をなげうって、

天台・伝教の建立した東方、薬師如来を閣(さしお)き、ただ四巻三部の浄土宗の経を信仰して、

釈尊一代五時の聖教をなげうってしまった――と主張しています。


つまり、念仏の興隆が、天台仏法を衰退させ、

仏教の正統学派の流れを濁らせ、亡国の根源となっていると言うのです。


これを学会に置き換えて考えてみれば、

「学会が官僚主義・形式主義に陥ったことで、情勢は一変した。

日蓮仏法の思想を忘れ、信頼関係を無視し、役職が上というだけで尊び、

創価三代の精神をなげうって、池田先生の人間主義という思想を閣(さしお)き、

ただ自分に都合のよい師匠の指導だけを用いて我見の信仰をしている。


仏教三千年の史観をないがしろにし、

御書や先生の指導を基本に置いて組織運営をしようとしない」ということです。


幹部の言うことには黙って従え、トップダウンの形式ばかりの会合――。

このような雰囲気が組織を覆い始めて、組織の情勢が一変した。

学会本来の現場主義、実質主義、信心根本、会員第一の精神で組織が運営されていたのに、

それが薄れてきたことによって、会員はシラケ、不満がたまり、学会組織の衰退が始まった。

それは官僚主義が衰退の根源となっているのだということです。


【立正安国論の破邪顕正について】2/4  投稿者:大仏のグリグリのとこ  投稿日:2014年12月10日(水)12時25分41秒

  さて、これを明鏡として今の幹部や会員を見ればどうでしょう。


会員名簿を見れば、有役職者が多数いて「教授・助教授・青年一級・二級」と、

多くの人が教学の資格を持っています。

しかし実質を見れば、資格はあるが教学力がまったくありません。


「青年教学一級」保持者が、満足に自分の言葉で御書講義もできず思索もしない、

そのため言葉に力がありません。


ただ創価ネットで流されている御書講義を空覚えで紹介しているような有様です。


いつも幹部の悪評価や組織の不満を口にしているくせに、

それを正そうと戦っている同志と共に、

自分も正していこうという気概もなく、応援もしようとしない。


「組織だから仕方がない」と念仏思想のように諦め、傍観者を決め込む。


幹部は幹部で、現場の意見を聞かず、学会活動の意義を教え、

信心論を語ることもなく、組織至上主義の活動論ばかりを打ち出し、

師匠の言葉を利用して結果だけを会員に求め、それを押し付ける。


その結果、幹部に媚びへつらう人間だけが人材登用され、

幹部に物申す人は、組織の隅に置かれるという現実が、あの地でもこの地でも発生しています。


「此の一凶」とは、

人間主義を否定し「官僚主義・形式主義」に支配された人間の心です。


この心を変革しないかぎり、いくら体制を変えても、

幹部を変えても、真の変革はないのです。


しかしこの一凶は、民衆や会員の心の奥底に重くのしかかり根付いています。

そこに人間革命の必然性があるのです。


また人間革命とは、境涯革命の事とも言えます。

それは、就職が決まった、給料があがった、病気が治った、願いが叶った、

というような目に見える顕益(けんやく)の功徳を人間革命したというのではありません。


境涯革命とは、人格そのものが輝き、言葉に力があり、

どんな困難にも立ち向かっていく勇気ある自身に変わり、

弱い人に勇気を与え、希望を与え、自身の心に三徳(仏界)が表れてくることが、

真実の境涯革命であり、冥益(みょうやく)の功徳なのです。


そして、日蓮仏法は冥益が表です。

その土台のうえに顕益があるというのが大聖人の思想です。


しかし会員の大半は、顕益が信仰の中心と考え、

その功徳を中心に万祈を修しているのが現状ではないでしょうか。


もちろん、それは悪いことではありません。

ただ、それだけであの人は信心が立派だ、あの人は信心がある――というのが、まちがいなのです。


【立正安国論の破邪顕正について】3/4  投稿者:大仏のグリグリのとこ  投稿日:2014年12月10日(水)12時26分42秒

  自分の心の中にある己心の一凶と、社会に巣くう一凶との闘争こそが、

千万の祈りを修するよりも勝るものはないのです。


さらに主人は、続けてこう訴えます。

「悲いかな、数十年の間、百千万の人、魔縁に蕩かされて、多く仏教に迷えり。

傍を好んで正を忘る、善神怒を為さざらんや。

円を捨てて偏を好む、悪鬼便りを得ざらんや。

如かず、彼の万祈を修せんよりは、此の一凶を禁ぜんには」(二四頁)


――悲しいことには、数十年の間に、百千万の人が法然の魔縁に揺り動かされて、

多くの仏法に迷ってしまった。


目の前の念仏を好んで、正の法華を捨てるならば、

どうして善神が怒らないわけがあろうか。


円教である法華経を捨てて、偏頗な念仏を好んで、

どうして悪鬼が便りを得ないでいようか。


災難を根絶するには、そのような千万の祈りを修するよりは、

この一凶である法然の謗法を退治しなければならないのである――と。


「彼の万祈」とは、

立正安国論の冒頭に客が述べた、

「天災・地変を終息させようと、日本全国上下をあげて、

さまざまな宗教によって祈願をしている」ということです。


これを学会に置き換えて考えてみれば、

「悲しいことに、先生が表に出られなくなってからというもの、

多くの幹部が官僚主義・形式主義に陥り、

会員は不満を持っていながらそれと戦おうともしない。


また、何のために信心をしているのか、何のために学会活動しているのか分からず、

悶々としている人は少なくない。


自分の所属している組織が官僚的になっているのに、

それを良しとし、先生の言われる人間主義の思想を捨てて、

偏頗な形式的会合を好んでいて、どうして幹部や会員の思想が狂わないことがあろうか。


自然災害を根絶するには、中身のない上面の体裁だけの安泰を祈ることより、

学会に巣くう師子身中の虫を退治する『破邪顕正』の戦いのほうが大事なのだ」となるでしょうか。


「如かず、彼の万祈を修せんよりは、此の一凶を禁ぜんには」――。


この言葉は、三災七難の元凶は、

法然の邪義(師匠の哲学を捨て官僚主義にしてしまった思想)にあり、

これと戦うことが災難退治の要諦であるとの日蓮大聖人の大師子吼なのです。


【立正安国論の破邪顕正について】4/4  投稿者:大仏のグリグリのとこ  投稿日:2014年12月10日(水)12時27分43秒

  大聖人ご在世当時、日本は一国をあげて念仏思想に毒されていました。


そんな中、大聖人がこのように師子吼されるということは、

大迫害の嵐が吹き荒れることは火を見るより明らかだったのです。


にも関わらず、それを厳然と叫び、巨大な権力を諌める大聖人の大確信は、

法華経の行者の自覚と、民衆を救わんとする大慈悲がなければ、とても言えないことです。


事実、これを叫んだがために、念仏のテロ集団によって松葉ヶ谷の草庵を破壊され、

権力者は伊豆へ流罪し、さらにその後も、小松原の法難、

竜口の頸の座、佐渡流罪等の大難に遭われました。


その大難のすべての淵源は、この師子吼にあったのです。


しかし、大聖人は一歩も退かれなかった。

大聖人の教えを聞かなければ、国が滅び、

民衆は未来永劫に地獄の炎にむせぶことになる。

それを救うために、大聖人は自らの生命を投げ出されたのです。


前回の【立正安国論の指導原理について】の中で、

仏宝とは「主師親の三徳を備えた仏」と述べました。


――如かず、彼の万祈を修せんよりは、此の一凶を禁ぜんには――

という、この師子吼の一句に、

主師親の三徳を具備された日蓮大聖人の仏界の境涯が現れているのです。


民衆を幸せにするのは、自分以外にないとの強い責任感は「主の徳」、

邪法の迷いから目覚めさせ、正道を教えんとの偉大なる智慧は「師の徳」、

全民衆をわが子の如くあわれみ、

それを救うために身命を投げ出される大慈悲は「親の徳」です。


この主師親の三徳を生命に輝かせ、

民衆一人一人に、その涌出の方途を教えている根源の大師匠――

それが日蓮大聖人であり、創価三代の師匠なのです。


その弟子であるというなら、

御書根本、池田先生根本に生き、師弟不二の生涯を歩むべきです。


日蓮大聖人のご生涯は終始一貫、破邪顕正の生涯でした。


法然をはじめとする数々の邪義に毒された民衆を、

根底から救いきるとの確信に立たれた一生でした。


その一生は、民衆を不幸に陥れる邪宗、邪義、邪智との一瞬の休みも無き闘争だったのです。


その「破邪顕正の信心」こそ、創価三代の一貫して変わらない根本精神でした。


私たち会員は、その三代の精神を継承するために、

もう一度、新たな決意に立って、足元を検証する責任があります。


その戦いは、権力を用いるのではなく、

正義に目覚めた会員の「英知と理性」が、必ず魔の働きを禁じられると確信するからです。


最後に、

「世界広布新時代・開幕の年」が明けた本年(平成二十六年)一月一日元旦、

創価新報に掲載された池田先生の歌を記して終わります。


広宣の 一番星と 勝ち光れ


    普賢の英知で 未来を照らせや


                        ― 完 ―


宿坊の掲示板より

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