第三 僭聖増上慢の特徴は「悪心」

【第三 僭聖増上慢の特徴は「悪心」】1/5  投稿者:大仏のグリグリのとこ  投稿日:2015年 5月18日(月)15時12分5秒

  では法華経の行者に、これらの障魔が競うのは、何が原因かというと、

それは大聖人の仰せ通りに、師匠の指導通りに、組織悪と戦い折伏を行じたからです。


しかもこの第一(俗衆)と第二(道門)の増上慢は、折伏の度合いによってその現れ方は変わってきます。


たとえば、友人の間違った思想を正し、会員の我見の信心を諌め、正しい仏法を説こうとすれば、

たちまちこの俗衆増上慢は姿を現し闘争が始まります。


相手の悪思想を責めなければ、俗衆増上慢は現れません。


そしてさらに強く責めれば、仏説のごとく非難や迫害の的となるのです。

しかしこの段階では、まだ第二の道門増上慢は出てきません。


第二の道門増上慢が現れるのは、組織悪との闘争を決意し、それを強く破折した瞬間から始まります。


もともと道門増上慢は、自分や家族のことしか考えない、保身と心諂曲が特徴です。

自分の陣地が脅かされない限り動きません。


それでも強く責めて、ひとたび自分の陣地に踏み込まれれば、

権威にものを言わせて、恫喝、査問、左遷等と迫害を加えてきます。


所詮、彼等の本質は、次に出てくる第三(僣聖)の奴隷であり、手先なのです。


ここまで俗衆増上慢と道門増上慢を見てきましたが、この「無智」と「邪智」からくる迫害者は、

どちらかというと目に見えてわかりやすいと思います。


無智な人と組織論・信心論の対話をすれば、すぐに無智だと見抜けます。


邪智の人は、露骨に行動に表われますから、これもすぐにわかります。


しかし、第三の僣聖増上慢はわかりにくい。


なぜかといえば、心は「悪心」ゆえに迫害をするのですが、表面上は聖人君子の様相を呈しているからです。


だから「僣聖」の正体を民衆や会員に暴くことが大事なのです。

一部の人が目覚めただけでは社会は変わりません。


行動を起こして僣聖増上慢をあぶり出すしかないのです。


妙楽大師も


「第三の者(僣聖増上慢)が一番悪質である。より一層、正体を見抜きにくいからである」(二二九頁)


と述べています。

 

【第三 僭聖増上慢の特徴は「悪心」】2/5  投稿者:大仏のグリグリのとこ  投稿日:2015年 5月18日(月)15時13分14秒

  「僣聖」とは、《聖者を装う》という意味です。では、第三の僣聖増上慢を見ていきましょう。


「あるいは、人里離れた所で、粗末な衣を身にまとい、静かな修行の場にあって、

自分では真実の道を行じていると思い、俗世間を軽蔑する者がいるでしょう。


自分の利益に執着して、それを貪るために在家の人々に法を説いて、

世間から厚く敬われるさまは、まるで六種の神通力を得た聖者のようです。


この人は邪悪な心を抱いて、常に世俗のことばかり考え、

山林で修行している立場を表に出して、私たちの過失を上げつらうことに余念がないのです。


常に大衆の中にあって、私たちを非難しようとして、国王や大臣、高僧や社会の有力者および

その他の僧たちに向かって、私たちを誹謗し、悪人であると説き、邪義を唱える人であり、

外道の論を説いていると訴えるでしょう」(通解 二二四頁)


これが第三の「僣聖」です。


「六種の神通力を得た聖者」とあるように、僧侶(職員)であっても一般の僧侶ではなく

もっとも高い地位にあって、世間からは仏の悟りにもっとも近い存在――。


学会でいえば、会長・副会長・理事長・役員等の幹部のことです。


つまり「高僧」のことです。


大聖人は、この僣聖増上慢の特徴を詳しく挙げていきました。


それをまとめると、


■【人里離れた場所に住み、衣を着て、宗教的権威を装う】


世俗を離れた大寺院(信濃町本部など)、いかにも仏道修行に専念しているかのような場所

にいるということです。


じつは、場所自体に宗教的権威を感じさせる所にいるのが僭聖増上慢です。


■【自分は真の仏道を行じていると言って、人々をバカにする(人間を軽賤する)】


これも道門増上慢と同様に、自分自身では真の仏道を行じて何らかの境地に達していると思っています。


実際には、何の境地にも達していないのですが、高い地位(役職)にいて人々から崇められていることから

本当は何かを得ているような錯覚を持つのです。


しかし、それは単なる思い込みや錯覚、あるいは願望みたいなもので、何の実体もないのが道門と、これまた同様なのです。


要するに、彼にとって偉いのは自分だけであって、他の何者も尊敬に値するものはない。


社会的な地位や評価がいかに高い存在であっても、いかに偉大な権力者・富豪・学者・芸術家であれ

僭聖増上慢にとっては、所詮ゴミのようなものであり、何の意味も持たない。


価値があるのは、唯一自分だけであり、自分以外の一切の他者は無価値であるという徹底した

自己愛とニヒリズムに生きるのが僭聖増上慢の本質です。


彼にとって他者が意味を持つのは、自分にとって利用できるのみの時だけです。

自分にとって利用価値がないと判断した時、何者であっても切り捨てていくのです。


もちろん、社会的に力と権威を持っている存在には表面的には相応の礼儀は示しますが、

彼の内心は、一切は徹底した蔑視の対象なのです。


つづく。



【第三 僭聖増上慢の特徴は「悪心」】3/5  投稿者:大仏のグリグリのとこ  投稿日:2015年 5月19日(火)11時31分38秒

  ■【利益を貪るために在家に法を説く】


彼の内面においては民衆救済、仏法弘通(広宣流布)などという観念は皆無です。

彼が法を説くのは、権威を保持することで利益を獲得するためであり、宗教は徹頭徹尾、金儲けの手段なのです。


■【世間の人々から六種の神通力を具えた聖者のように崇められる】


実態を知らない会員信者からは、悟りを得たような聖者のように尊敬され、

また尊敬を受けられるような高い地位にいます。


しかし、その内実は自分の利益追求のために宗教を道具として利用している悪人です。

自身の実態を隠してあたかも聖者であるかのように偽っていることが「僭聖」の名の所以なのです。


■【法華経の行者に「悪心」を抱いて「種々の迫害(法華経の行者の過失や罪をあげつらう)」を起こす】


俗衆増上慢が「無智」、道門増上慢が「邪智」であるのに対して、

僭聖増上慢は法華経の行者に対して「悪心」を起します。


つまり、明確に害意・敵意を持ち、自ら意識して、法華経の行者の前に敵対者として現れるのです。


そして、法華経の行者を社会的に抹殺しようとして、僭聖増上慢はこのように言います。


①法華経の行者は利益を貪っている。

②法華経の行者が主張しているのは、仏法ではなく、外道の論議である。

③法華経の行者は経典を捏造して、世間の人々を惑わそうとしている。

④法華経の行者は名声を求めるために教えを説いている。


僭聖のおもしろい所は、利益や名声のために仏法を利用しているのは、実は僭聖自身なのですが、

彼は自身の姿を法華経の行者に投影して非難していくことです。


■【権力者や社会的な有力者を利用して法華経の行者を迫害させる】


僭聖増上慢は、国王や大臣などの世俗の権力者、現在で言えば、政治家や経済人・マスコミの類になるかと思います。

あるいはバラモンや比丘などの宗教的権威者に近づき、彼らを動かして法華経の行者を迫害するように仕向けます。


僭聖増上慢は、直接手を下さず、陰に回って策謀を働くのです。


例えば、元会長の秋●や、学会顧問弁護士の八●などがそうです。


俗衆増上慢と道門増上慢が、直接、法華経の行者に迫害を加えるのに対して、

僭聖増上慢は、自らが表に出ることなく、陰に隠れて法華経の行者への攻撃を企てます。


そこに俗衆、道門以上に、悪質・狡猾な僭聖増上慢の本質があるのです。


少し長くなりましたが、以上が僭聖増上慢の特徴です。



【第三 僭聖増上慢の特徴は「悪心」】4/5  投稿者:大仏のグリグリのとこ  投稿日:2015年 5月19日(火)11時32分17秒

  さらに、僭聖増上慢は

法華経の行者に対して「汝らは皆、仏なんだ」と嘲笑します。


彼のこの言葉が、法華経の行者をあざける言葉であることに、一つの意味があります。


つまり、法華経の行者が「あらゆる人は成仏できる」と説くことに対して、


僭聖増上慢は「それではお前たちは、自分らが皆、仏だと言うんだな」と反発するのです。


その背景には、法華経の作成された当時は、仏とは一般人からかけ離れた「尊極の存在」であり、

法華経などという新奇な経典を説いて回っている、社会的な立場もない卑しい人間が

仏であるはずがないという観念が働いたものと考えられます。


この世で仏であるのは「釈迦仏一仏」のみであり、仏弟子は声聞の阿羅漢の位に成るのが精一杯である

とする「小乗仏教者」からは、一切衆生の成仏を説く「法華経」は到底容認し難いものと見られていたのでしょう。


「お前たちのような者が仏だと言うのか。冗談ではない」という激しい反発が、

法華経の行者に加えられたことをこの言葉は示唆しています。


というより、

そもそも万人成仏を説く「法華経・御書・先生指導」を実践していれば、

人を子分や道具のように利用するはずがありませんし、できません。


法華経を弘めていった人々には、

法華経こそがあらゆる人々を仏へと高めていける最高・無上の教えであるとの確信がありました。


法華経を弘め、守ることが一切衆生の成仏の道を守ることであり、

それは自身の身命以上のものであると受け止めたと思います。


法華経の行者の中に命をなげうってでも経典を守るという信念がなければ、

厳しい迫害に耐えて法華経を伝えることは不可能だったと思います。



【第三 僭聖増上慢の特徴は「悪心」】5/5  投稿者:大仏のグリグリのとこ  投稿日:2015年 5月19日(火)11時32分55秒

  池田先生の弟子もまた、これらとまったく同じ状態にあると確信します。


創価三代の思想を守り、後世に誤りなく伝えていくことが、万年の人類の成仏の道を守ることであり、

それは自身の命以上に尊く大切なことだと思います。


この無上最大の人生が、弟子の師匠に対する「一死を尽くす身の誠」だと信じたい。


勧持品は「悪比丘は仏が方便として説いた教えを知らない」と説いている。


つまり、悪比丘は、従来の教えが衆生を「一仏乗」へと導くための方便であるという仏の「本意」を

知らず、方便の教えに執着して、正法である法華経を誹謗しているということです。


勧持品が僭聖増上慢の説明にもっとも多くの言葉を費やしているのも、僭聖増上慢こそが、


法華経の行者の前に立ちはだかる「最大の仏敵」であるということを示唆しているからだと思います。


日蓮大聖人が、ご自身の修行の要に置かれた「勧持品」は、

三類の強敵は、俗人よりも僧侶、一般の僧侶よりも聖者のような高僧こそが、

正法弘通を妨げる悪であると説かれ、僧侶こそが仏教を破壊する元凶であると断言しているのです。


実際にインドや中央アジアなどで仏教が衰退・滅亡していった歴史的背景をたどってみても、

その要因は必ず僧侶の腐敗・堕落があり、空理空論にふけって、民衆から遊離していたことが挙げられます。


在家信徒が仏教の滅亡をもたらしたことは、皆無といってよいほどありません。


仏教が滅亡する時、そこには「必ず」といってよいほど僧侶が内部から仏教を破壊していったのです。


「外道・悪人は、如来の正法を破りがたし。仏弟子等必ず仏法を破るべし。師子身中の虫の師子を食等云云」(九五七頁)


とは、日蓮大聖人の真実の言葉であり、未来の弟子に対する「警告・用心抄」と捉えたい。


― おわり ―