永遠の生命について

永遠の生命  投稿者:月夜の散歩  投稿日:2016年 1月 7日(木)20時54分55秒

  たまご様

 

永遠の生命について

他の方の説明もありましたが、私も少し書かせてもらいました。

補足や間違いがあったらご指導下さい。

この件については最近の学会は軽く見ていますがかつての折伏はここの所を強調して宿業転換をターゲットにしていたものです。

ここが他の宗教なかんずく数ある仏教の中でも、一念三千という法理を説いている法華経が、他と違い卓越して深い思想である部分です。

 

生命には、三つの側面があります。

これを三諦、又は三身と言います。

 

中諦(法身、如是体)ー生命における普遍の法則。これによって一つの生命の空諦、仮諦を統合しており、又生命は縁起の法則によって存在している。

空諦(報身、如是性)ー生命の働きの目に見えない部分、性分や宿業など。

仮諦(応身、如是相)ー表面に現れた姿、形、又は計測できる生命の側面など。

 

この三つを簡単に、全体と個という区別をつけるとしたら、中諦である「法」は全ての生命の普遍の法則、共同の領域として「全体」と言えるでしょう。

それに対して、空諦である「報」と仮諦である「応」は個の生命の側面です。

そして中諦である「法」は又空諦である「報」と仮諦である「応」を一つの生命として永遠に統合しています。

中諦である「法」は普遍の真理ですから不変であり変化しませんが、空諦である「報」と仮諦である「応」は一瞬一瞬変化しています。

しかし永遠に変化し続けるという意味においてこれらも「法」と共に永遠です。

そして生命の実相は円融の三諦、三身即一身といってこの三つは永遠に切り離せないものです。

つまり、個の生命は個の因果(宿業)に則って円融の三諦として過去現在未来の三世の生命を永遠に輪廻して生きていくというのが法華経の卓越した教えです。

ここをはずすと外道や爾前教に陥ります。

ここでひとつ忘れてはならないのは生命の輪廻とは宿業の継続と同義語だという事です。

宿業が永遠に続くからこそ大聖人の仏法では、善の宿業を多く積み、又悪業も価値的に転換していく事を強く言うのです。

 

この円融の三諦に対して、空仮中を別々に説く考え方を隔歴(きゃくりゃく)の三諦といいます。

いくつか例を挙げてみます。

 

最近、永遠の生命という時、この三つの中で特に中諦いわゆる「法」だけを抜き出してこれだけを永遠の生命として絶対化する見方がはやっています。

いわゆる「法」を絶対的領域とし、「報」と「応」つまり個人の生命を含む現実の世界を相対的領域とする見方です。

この見方の中では、個人の生命の輪廻や宿業の有無などは、どうせ相対的な世界なので、どうでもよくなります。

 

この考え方は悪利用すれば世の中の全ては合一の普遍の存在だとするいかにも深い思想を装いながら、その陰では「全体主義」という、個人抜き、骨抜きの社会を作りやすくなります。

外にある悪もどうせ相対的な出来事なので、戦おうとはせず、主観を内へ内へと向けていかせる事により悪の権力が増強するおそれがある社会になります。

世界中で今この考えがもてはやされていますが、私達が智慧を持って権力を監視していかないと権力はこういう所に忍びこんで社会をコントロールしようとするおそれがあります。今この思想が広がっていく様子に私は個人的に憂慮しています。

外国人であれば、西洋の禅仏教の創始者とも言われるアラン ワッツ、エックハルト トール、など多数いますが

これらも三世の因果を説かない、又、空仮中の円融の三諦を説かないことから言えばまだ外道のレベルです。

よく知られている世界大宗教の外道としては、

 

 法の擬人化をして人格化し、創造主の神を立てたキリスト教、イスラム教、一部のヒンズー教など

 法を宇宙の真理として(人格化はしてない)創造主としたヒンズー教のウパニシャッドやイスラム教の神秘主義など

 

「梵我一如」を立てているウパニシャッドが「法」と一体となるという悟りとしてのゴールは何回もの輪廻の果てに個の生命の消滅を以って達成されるのに対し、その他のほとんどの外道は死後の生命は神に裁かれた後はその結果によって住む世界が違う、つまり死後の永遠の生命を説いてはいますが、これらの生命観は、全ての生命は創造主に作られた創造物であるという生命の起源においてすでに三世の因果を説かない思想であり、円融の三諦とはずれています。

もうひとつ追加しますと、十界互具を説かない爾前教においては、九界を凌駕して仏界に至った仏は宿業や輪廻を超越していると説きますから、その意味では「梵我一如」を説くウパニシャッドと似ていて是もまた

完全な円融の三諦ではありません。

更に日本の仏教の中では、身近な所では禅や法身大日如来を立てる真言、などがあります。

 

しかし、真実は「法」と言っても「報」や「応」のいわゆる現実の諸法、個別の生命の中にしか存在しなく、その外にあるものではないのです。

「実相」は「諸法」の中にあるのです。

それはあたかも仏界は九界をはなれては存在しない(九界即仏界、仏界即九界)様なものです。

中諦である「法」だけを絶対視するのは、担中の理、といって法華経では否定されています。

 

私が一番懸念しているのは今の学会の新教学がこのように、仏の生命やその具現化である御本尊に対しても、「法」だけを絶対視し、「人」の側面である「報ー仏の智慧」、「応ー仏の体(御本尊の体)」

は相対的なものだとして排斥傾向が見え隠れしていることです。

 

それは次の様な見解からも読み取れます。

 

 

創価学会教学部の現教学研究者 2012年

「元々仏教には業思想はなく、“過去の因を知らんと欲せばその現在の果を見よ、未来の果を知らんと欲せばその現在の因を見よ”の心地観経の一節はバラモン思想の混入で、

業思想のない仏教にあること自体間違っている。

法華経に混入している業病の話しは仏教とは関係のないもので、戦後の『宿命転換』という言葉は会員に判りやすく広めるための一時的なものだったはずが、誰もその言葉を止められずにこの瞬間も

間違われて使われている」

 

創価学会・東洋哲学研究所の研究

「『仏教は輪廻思想や業報因果論を主張する』という誤解は、かなり広まっている。しかし、真実は逆である。仏教は、輪廻や業報因果からの解放を説く宗教であった」

「“スッタ・ニパータ”の“アッタカ・ヴァッガ”に伝えられる限りの釈尊の「悟り」とは、本来、「悟りなどはない」という形のものであったのである。

『悟りなどはない』というと、語弊があるかもしれないが、解脱すべき、悟るべき「自己」という考えこそ、我執の最たる者ではないだろうか。

『《実在》視された《自己》こそ《我執》の核に他ならない時、どのような経過で《自己》の《解脱》があったにしても、《解脱》という名の《我執》の《完成》になる』という山口博士の指摘は、まことに正鵠を射たものといえよう」

(友岡雅弥「『法華経』の宗教性」『東洋学術研究』第34巻第2号 1995年11月)

 

では戸田先生はどう講義されているでしょう

私はこれが真実だと思っています。

 

 

戸田城聖全集 第6巻 講義編Ⅱ  P.190より転載

http://www16.plala.or.jp/PC-MURA/TodaJousei.htm

 

 

・・・吾人がいま持つところの肉体そのものが、子供の時より老人にいたるまである傾向にしたがって変化するごとく、われらの今日の肉体と精神とが永遠に変化して実在することが、法報応三身の常住で無始無終の生命観である。

 

まずわれらの肉体の変化について観察してみよう。

われわれは一瞬一瞬に肉体的にも精神的にも変化しつつ、運命のコースをたどっている。

精神的な問題と運命的な問題は別にして、肉体の問題のみを論ずるならば、一瞬一瞬に細胞の増衰が行われて、そして7年間するならば生理学上、目の玉の芯から骨の髄の細胞まで一新するのである。

 

この肉体の変化は、精神とか運命とかを根本として変化したものではなくして、われらの精神自体の働きによって変化してきたものである。

その生命というものに、一貫した傾向をみることができる。

もし生命すなわち変化させる根本の原動力に定まった一つの傾向および本質がないとするならば、7年間の変化のなかに長い指が短くなったり、目が小さくなったり、形が変わって鼻の低いのが高くなったりするはずなのに、だいたい赤ん坊の時を規準とした細胞の増衰に過ぎない。

しかも三十の時に何かの事件を起こしたとして、それに対する責任は法律に関するとせぬとにかかわらず、四十になっても五十になっても、負わされていることは事実である。

たんに肉体論からいうならば、三十七になればぜんぜん別な肉体になっている。

七年前の責任を負う必要がなくなるのではないか。忘れたということよりは没交渉になってよいはずである。

いかんとなれば脳の細胞も一変しているからである。

しかるにその責任はぜんぜん別個になった肉体がこれを負い、またその責任を感ずるのである。

これは生命の連続は肉体と精神活動とを同じくその連続に関連をもたしているからである。

生命とは心肉不二にして肉体にも非ず心にも非ず、しこうして肉体と精神にたえず反応を与えるものである。

目に見ることもなくして存在し、しこうして目に見える肉体と精神と運命とに強くはっきりとにじみ出るものである。

 

われわれの生命は永遠であるとすれば、この世の中で死んでまた次の世で生命の活動がなければならぬ。

他の宗教では次の世の生命活動を西方の浄土世界とか、天上界とかいうような架空の世界観をつくってそこで生きているという。

これは法身論の生命観であって事実の生命観ではない。次の世に生まれてくる世界はわれらが今日生活していると同様の娑婆世界である。

しからば世間にいう生まれ変わってくるというあのことかと思うであろう。

事実はごく似たものであるが、生まれ変わるとなれば、ぜんぜん別個の人間とも考えられる。

しかしぜんぜん別個ではありえないのである。

では同じ人間かというに同じ人でもないのである。

あたかも七歳のAなる人と、四十歳のAなる人とは物質構成、精神活動、運命等はぜんぜん別個でありながら、七歳のAと四十歳のAとが、同一なりと断ずるがごときものなのである。

今世のAと来世のAとは生命の連続においては同一生命の連続であって、肉体にもせよ、精神にもせよ、運命にもせよ、今世のそのものではないことはもちろんである。

それは七歳のAの場合と四十歳のAの場合と同様である。

 

七歳のAが四十歳にいたるまで生命の連続であると同様に、肉体も精神も運命も変化の連続をなしたごとく、今世の生命が来世の生命にいたるとしても、今世の肉体、精神、運命が来世へと変化の連続をなすことは当然なことである。

 

ここに大きな疑問が一つ生じる。

死んで火で焼いて粉にしてなくなった肉体が、死後までその肉体の連続であるということはありえないのではないかということである。

 

そこで肉体にもせよ、精神にもせよ、運命にせよ、目に見ることのできない、しかも厳然たる存在の生命の反映であるとさきに述べたことを記憶より呼び覚ましてもらいたい。

さてそのまえにいかような状態において生命が来世に連続するかという問題と述べてみよう。

われらが死ねば肉体の処分にかかわらず、われらの生命が大宇宙の生命へとけ込むのであって、宇宙はこれ一個の偉大な生命体である。

この大宇宙の生命体へとけ込んだわれわれの生命はどこにもありようがない。

大宇宙の生命それ自体である。これを空というのである。

空とは、存在するといえばその存在を確かめることができない、存在せぬとすれば、存在として現れてくるという実体をさしてているのである。

「有る」「無い」という二つの概念以外の概念である。

たとえてみれば、「あなたは怒るという性分をもっていますか」と問われたときに、「もっております」と答えたとする。そんなら「その性分を現してみせてください」といわれても、現しようがないから、「無い」と同様である。

「有りません」と答えたとしても、縁にふれて怒るという性分が現れてくる。

かかる状態の存在を空というのである。

われらの死後の生命もこの空の状態の存在である。

されば縁にふれて五十年、百年または一年後に再びこの娑婆世界に前の生命の連続として出現してくるのである。

さてその生まれ出た肉体は過去の生存、過去の死の状態をとおして連続してきた生命を基として、宇宙の物質をもって構成されてくる。

時間的の差異はあったとしても生命が連続である以上、肉体も精神も運命も過去世の生存の連続であると断ずることができるのである。

あたかも碁を打つ人が、一日打って半局面しか打ち切れない。そして明日にしようということになって碁石をバラバラにしてしまって、もとのように箱に納めてしまう。次の日、二人がまた碁盤を囲んで昨日打ち終わったところまで、昨日と同様に白黒と碁石を配置する。そして昨日の続きを打っていくようなものである。

 

生命が過去の傾向を帯びて世に出現したとすれば、その傾向に対応して宇宙より物質を聚(あつ)めて肉体を形成する。

ゆえに過去世の連続とみなす以外にないのである。

 

かくのごとく現在生存するわれらは死という条件によって大宇宙の生命へとけ込み、空の状態において業を感じつつ変化して、何らかの機縁によってまた生命体として発現する。

かくのごとく死しては生まれうまれては死し、永遠に連続するのが生命の本質である。

 

宿坊の掲示板より

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コメント: 1
  • #1

    花のニッパチ (日曜日, 13 3月 2022 15:05)

    『空の状態において業を感じつつ』
     とありますが、死せる生命にも「意識」の様なものが、
     存在するのでしょうか?