千日尼御返事・追伸について

【千日尼御返事・追伸について】1/10  投稿者:大仏のグリグリのとこ  投稿日:2015年 9月24日(木)11時47分1秒

  教えていただけますか?

投稿者:永遠の希望   投稿日:2015年 9月20日(日)14時06分50秒

弘安3.7.2 大聖人が学生ならでは叶うべからず、9月15日已前に、いそぎいそぎまいるべしと書かれた御書があります

弘安3.9.15までに何故勉強しに来なさいと言われたのか? 気になっています

何があったのだと思いますか? どなたか教えていただけますか?

------------------------------------

投稿者:白髪の元K    投稿日:2015年 9月20日(日)16時21分11秒

なぜ「9月15日 已前に・いそぎいそぎ・・・・」と申されてあるのか?

様々な事を考えました。大仏のグリグリ様、私からもお願いいたします!

永年の私の疑問もおはらしください。


上記、お2人の「千日尼御返事・追伸」についての問題提起がありましたので、グリグリの所感を述べさせていただきます。


まず本文の「追伸」文を通解したいと思います。


―― 絹の染袈裟一つを差し上げます。豊後房にお話しください。

すでに法華経の法門は日本国に弘まった。

北陸道は豊後房が弘めていくべきであるが、学問がなければかなうことではない。

九月十五日以前に急ぎ急ぎ身延に参りなさい。

多くの聖教を送っていただいた日記のように、丹波房に持たせ急ぎ急ぎ遣わしてください。

山伏房をこちらから申した通りの方法で、この身延へよこしてください。

山伏房をふびんに思って扱ってくださったこと、悦びいっています――。(通解1318㌻)


【千日尼御返事・追伸について】2/10  投稿者:大仏のグリグリのとこ  投稿日:2015年 9月24日(木)11時47分52秒

  はじめに、

ここに出てくる「豊後房(ぶんごぼう)、丹波房(たんばぼう)、山伏房(やまぶしぼう)」の3人について考えていきましょう。


とはいうものの、実はこの3人については詳しいことはわかっていませんが、

おそらく阿仏房、千日尼らとともに広宣流布のために戦っていた弟子であったことはまちがいありません。


追伸には「北陸道は豊後房が弘めていくべきである」とありますが、

当時の北陸道というのは、五畿七道の一つ「若狭・越前・越中・越後・加賀・能登・佐渡」の7か国のことで、

現在の福井県から新潟県までの日本海に面する地域です。


おそらく大聖人は、豊後房を中心に3人が団結して、7カ国の広宣流布を託していたと思われます。


また、丹波房は丹波公日秀のことで、彼は大聖人の葬送の列にも連なり、墓所輪番の1人です。


山伏房の詳細はわかりませんが、阿仏房の保護を受けていたと思われます。


次ぎに

「多くの聖教を送っていただいた日記のように、丹波房に持たせ急ぎ急ぎ遣わしてください」とありますが、

大聖人は丹波房にそれらの資料を身延に持ってくるように要請したのでしょう。


大聖人が佐渡に流罪された期間は、文永8年11月から文永11年3月までの2年5ヶ月におよびます。


その過酷な佐渡での生活の中で大聖人は、重書(開目抄・観心本尊抄など)をはじめ、弟子を激励するために数々の手紙を著されました。


その際、経典や資料を送るよう、佐渡から鎌倉の弟子への手紙の中で求めています。

例えば、佐渡御書の追伸に「外典書の貞観政要、すべて外典の物語、八宗の相伝等、此等がなくしては消息もかかれ候はぬ」(961㌻)とある通りです。


【千日尼御返事・追伸について】3/10  投稿者:大仏のグリグリのとこ  投稿日:2015年 9月24日(木)11時48分39秒

  また

「学生ならでは叶うべからず。九月十五日已前にいそぎいそぎまいるべし」

――学問がなければかなうことではない。九月十五日以前に急ぎ急ぎ身延に参りなさい――(通解)とありますが、


ここで言う「学生(がくしょう)」とは、学匠(がくしょう)とも言って、学問を修めて人を教える資格がある者、という意味です。


つまり、ここでの解釈は

「広宣流布の指導者たるものの資格は、教学を修めていなければならない。

なぜなら、経文を先として法華経身読こそが修行の要だからである。

9月15日から講義を開始するので、それに間に合うように身延に来なさい」となるでしょうか。


私たちに約して言えば

「創価学会のリーダーたるものの資格は、御書を身で読んでいるか否かが、その基準である。

御書根本・三代会長の指導根本とは、身で読む、つまり行動するということです。

創価学会のリーダーは、教学研鑽を怠ってはいけない、欠いてはいけない。

常に《信・行・学》に徹しなさい」となるのではないでしょうか。


これは何もグリグリが勝手に言っているわけではありません。


大聖人ご在世当時を見てみると、

日蓮大聖人以前の法華経の持経者たちの修行法は、法華経・法師品の

「妙法蓮華経の乃至一偈を、受持・読誦・解説・書写し、この経巻において敬いみること仏の如く」(妙法蓮華経355㌻)

を実践することでした。


しかし大聖人は、それら持経者とは全くちがう修行法を説いたのです。


それは「法華経を身で読む」という修行法――つまり「如説修行(仏の説いた如く修行する)」法華経の行者としての修行です。


そして、大聖人は法華経の「不軽品・勧持品」を実践の要に置き、

この二品の中で説かれた「折伏弘教」を実践していきました。


大聖人がこの立場に立つ時、受難は避けられず勧持品に説かれた「三類の強敵」との闘争は必然だったのです。


これらの受難や諸々の迫害をわが身で体験する「法華経身読」こそが、日蓮仏法の最大の特徴なのです。


仏の説いた如くの実践(行動・受難)がなければ法華経の行者とは言えません。


創価三代の師匠は、日蓮大聖人が説いた如くの実践(行動・受難)の体現者であり、

御書に説かれた広宣流布実現の証明者であり、日蓮仏法の継承者であり、現代の法華経の行者です。


所詮、実践に裏打ちされた唱題行と教学と体験がなければ、

南無妙法蓮華経の力用を万人に説き示すことなど不可能です。


口では何とでも言えます。


【千日尼御返事・追伸について】4/10  投稿者:大仏のグリグリのとこ  投稿日:2015年 9月24日(木)11時49分25秒

  さて、話をもどします。

大聖人は北陸道広布の担当者である弟子3名に対して、

なぜ「九月十五日までに急ぎ急ぎ身延に参りなさい」と招集をされたのでしょうか。


今度はこの謎を考察していきたいと思います。


その前に、日蓮大聖人の言説や行動、また、創価三代の言説や行動を研鑽して感じることは、

そこには常に強い信念にも似た生き方の姿勢が脈打っています。


私たち弟子も、その生き方に肉薄しないかぎり、

御書も創価三代の著作も、その真意を離れた読み方になると思うのです。


ましてや広宣流布の行動がない人間が、いくら御書や創価三代の著作を読んでも、

その心までは読めないし、わからないのではないでしょうか。


では始めます。

この「千日尼御返事・追伸」を書かれたのは、弘安3年7月2日ですが、じつはもう2つ同じ日に書かれたお手紙があります。

それが「上野殿御返事(熱原外護事)」と「大田殿女房御返事(即身成仏抄)」の2編です。


「大田殿女房御返事(即身成仏抄)」については、

皆さんお持ちの御書には「建治元年七月二日 五十四歳御作」と記載されていると思いますが、

最近の研究で「弘安三年七月二日」に著されたことがわかっています。

ちなみに真蹟は中山法華寺にあります。


この3編のお手紙を書かれた弘安3年7月といえば、熱原法難の頂点ともいうべき農民3名の処刑が行われて約9ヶ月後にあたります。


熱原法難は、弘安2年9月に起こった法難ですが、熱原郷の地が北条氏の直轄領であったために、

熱原法難後も幕府権力を背景にして、さらに大聖人門下や信徒を根絶するために追及の手をゆるめていなかったのです。


「上野殿御返事(熱原外護事)」の内容を見てみると、いまだ法難が終息したわけではなく、

熱原の関係者に対する厳しい追及が行われていたかがうかがわれます。


そして、妙法に帰依したために法難によって安住の地を失った神主とその妻子らを南条家に保護していることについて感謝され、

追及がなおも厳しくなるようならば、神主等を身延へ寄越すように南条時光に指示されています。


この神主について、大石寺・日亨は

「現今の富士宮市の浅間神社から分社した三日市場の地にある浅間神社の下級神職である」(日興上人諸伝)と記されています。


【千日尼御返事・追伸について】5/10  投稿者:大仏のグリグリのとこ  投稿日:2015年 9月24日(木)11時50分3秒

  神主は、勇猛果敢に信仰に励み、そのため、

反法華の元凶である滝泉寺・院主代の行智や代官たちから狙われていました。


そして、農民信徒たちが稲刈りの時に反法華党の襲撃を受けた際は、

現場にいなかったために、捕らえられなかったのです。


しかし、その後もずっと目をつけられて、安住の地を失うことになったと解説されています。


時光はこのような窮地にいた神主等を、かくまい保護していたのです。


このような時光の外護の任を称賛された上で、

行方を厳しく追及されている神主を、かくまい、当家(南条家)にとどめておくことが、

賢明な判断かどうか細心の配慮をされています。


さらに、お手紙(熱原外護事)のなかで、末法における法華経の行者に対して、


どのような形で法難が起き、迫害されるのかについて言及され、

そのことをよく知ったうえで対処するように注意されています。


ちょっと話しは逸れますが、今度はそれを見てみましょう。


【千日尼御返事・追伸について】6/10  投稿者:大仏のグリグリのとこ  投稿日:2015年 9月24日(木)11時50分46秒

  弟子門下に対する迫害は

「ないないは法華経をあだませ給う」(1564㌻)とあるように、法華経の敵視がその本心です。


迫害者は、まともに法華経の法義と対決し、その信仰・実践を非難し攻撃してくるようなことはありません。


要するに、法義の正邪などはどうでもいいのです。

迫害者の心根にあるのは「法華経への敵視」だけなのです。


そして、実際に事を起こす場合は

「他の事によせて事かづけ、にくまるる」(同㌻)とあるように、

表面上は他のことにかこつけて憎み、非を訴えていくのが迫害者の常套手段です。


「他のことにかこつける」とは、

仏法以外の世法・国法上の過失などで騒ぎ、社会的な面から制裁を加え弾圧してくるということです。


事実、熱原法難の場合、熱原郷に折伏・弘教が次第に進み、

法華経帰依の僧俗が増えてきたのに恐れをなした反法華勢力が、大聖人門下を弾圧するために、


これら農民信徒たちが「院主の田から稲を刈り取って盗んでいる」とでっち上げ、

稲刈りの現場を襲撃して捕らえ、デタラメの告訴状を作って、盗みの罪で弾圧したのです。


その後も熱原関係に対する、官憲の調査や追及は厳しく行われ、神主もその一人として、目をつけられていたわけです。


【千日尼御返事・追伸について】7/10  投稿者:大仏のグリグリのとこ  投稿日:2015年 9月24日(木)11時51分28秒

  しかし、南条時光の場合、幕府の御家人である地頭の立場にいるだけに、

たとえそれが反法華によるものであっても「上に事よせて」(1565㌻)というように、


幕府の命令や指示にいちいち反抗して従わなかったならば「物をぼへぬ人」(同頁)、


つまり、道理をわきまえない人となり、社会的、政治的に信頼を失い、

地頭としての職務遂行に支障をきたすであろうと大聖人は心配されています。


現実に、時光は幕府から熱原の関係者をかくまっているのではないかと疑われ、

行政上、さまざまな圧迫を加えられていました。


過分な租税や人足の割り当てを課され、時光が乗る馬さえなく、家族は衣食に事欠く苦労を強いられていました。


大聖人は、このような南条家の立場を配慮され、状況が悪いと判断したならば、

神主やその家族は、しばらく当地を離れ、身延へ行くようにいいなさい、と指示しているのです。


しかもこのお手紙の追伸では、

事を運ぶにあたっては「人にしらせずして、ひそかにをほせ候べし」と述べられていることからも、

南条時光がいかに厳しい環境のもとにあったかを物語っています。


【千日尼御返事・追伸について】8/10  投稿者:大仏のグリグリのとこ  投稿日:2015年 9月24日(木)11時52分12秒

  以上、同じ日に書かれたお手紙(熱原外護事)を見てきました。


「千日尼御返事・追伸」では、

法華経読誦の真意を説き、夫である阿仏房の成仏を教え、千日尼の信心を励まし、子の信心継承を喜んでいます。


また、追伸には、弟子が世話になっていることへの感謝が述べられ、弟子への言付けを託されています。


一方、「上野殿御返事(熱原外護事)」では、

時光が熱原で迫害されている神主を保護していること、神主を身延へ避難させること、

そして、時光への幕府等の圧迫を気づかって種々の指導をしています。


また「大田殿女房御返事(即身成仏抄)」では、

真実の即身成仏の法門は法華経に限ること、変毒為薬こそ即身成仏の義であること、

弘法等の3師は修羅根性の法門であると教えられました。


同じ日に書かれた3編のお手紙を見ても、身延での日蓮大聖人の行動は、

教学を根本としての人材育成と、多方面で孤軍奮闘している弟子たちへの指示と激励、門下信徒の受け入れ等、


まさに師と弟子が一体となっての連続闘争だったことが想像できます。


身延に入ってからは、大聖人に難が及ぶというよりも、

むしろ法華経の行者との自覚で立ち上がった弟子門下に難がおよぶようになっていったのです。


この現実から、大聖人は全国に配置している弟子に、もう一度

「日蓮仏法の真髄――法華経身読」を教えようと、9月15日から研修を開始しようと考えていたのではないでしようか。


学会教学の伝統は、教団統制のための戒律を厳格に守って、

すべての経典や御書を形式的、表面的に解釈する「訓詁註釈」ではありません。


学会教学は、日蓮大聖人と同じく経典の文言にとらわれるのではなく、

立体的にして融通のきく立場に立ち、釈尊の本来の精神に立ち返って経文を解釈するという「依義判文――義によって文を判ずる」です。


だからこそ、日蓮大聖人は「法華経身読」から「三大秘法義」を展開したのです。


法華経は古来から日本でも中国でも「諸経の王」として尊重されてきました。


法華経の中で釈尊は、悪世において法華経を世界に流布していくことを弟子達に繰り返し呼びかけているとともに、

法華経の思想を流布するならば、必ず社会から反発や非難、時には生命の危機に及ぶ弾圧があるだろうとも説いています。


【千日尼御返事・追伸について】9/10  投稿者:大仏のグリグリのとこ  投稿日:2015年 9月24日(木)11時52分51秒

  人間を自立させようとする法華経の思想は、人間を隷属させたい権力者にとっては、都合が悪い。


また、何かに依存しておきたいという人間自身の精神とも相容れないものです。


法華経は、人間が人間であるために「悪」とは徹底して戦えと呼びかけた経典でもあります。

この釈尊の精神を実行したのが日蓮大聖人であり、創価三代の師匠です。


創価学会の会則には、三代会長の実践と精神を永遠の指導原理とすることを定めています。


ドグマではなく、事実としての人間の精神と行動を「永遠の規範」とすることは、あらゆる宗教が見つめ直す重要な一点です。


宗教としての厳格な「教義」が全世界の会員に、

平等かつ同時に徹底されることで、創価学会の普遍性が保たれているのだと考えます。


絶対に変わらない「教義」を信仰の根幹に定めていなければ、

人間の行動面においては、生命の変革の原動力とはなり得ないでしょう。


また、自己流の勝手な解釈をしていけば「我見の信仰」に陥る者が増え、宗教としての求心力は失われてしまう。


核となる「教義」を明確にすることは、一見、独善なようですが、

実はそうする事によって、いつ、どこで、誰が、どのように実践しても、同じ結果をもたらします。


だからこそ普遍妥当性をもった宗教となり、全世界の人々に理解と共感が広がるのだと思う。


また、宗派性を超えた「人間の思想と行動」という豊かな宗教性を指導原理とし、

もう一方で曖昧さを吹き払うことによって、極めて明快な教義という宗派性の核を持つことができます。

そうすることが、真の普遍性を持つ宗教となり得るのだと思うのです。


それを確立し、実行して、世界192ヶ国地域に日蓮仏法を弘めたのが、池田先生なのです。


【千日尼御返事・追伸について】10/10  投稿者:大仏のグリグリのとこ  投稿日:2015年 9月24日(木)11時53分34秒

  その先生の弟子というならば、後継者と自負するならば、いそぎいそぎ教学研鑽と池田先生の指導原理の研鑽を行うべきです。


むずかしいだの、苦手だの、わからないだのと嘆くのは、単なる愚癡と甘えでしかありません。


今こそ、本門の池田門下生一人ひとりが


「北陸道は豊後房が弘めていくべきであるが、学問がなければかなうことではない」との御聖訓を心に刻み、身読する時なのです。


最後に、日蓮大聖人が弟子に訴えた魂ともいえる師子吼を記して終ります。



――この文には、日蓮が解き明かすところの重要な法門を書き記しておいた。


だから、深く深く理解していきなさい。そして、生命の奥底に刻んでいきなさい。


根本は、一閻浮提第一の御本尊を信ずることである。


発心し決意を重ねて、信心強盛に釈迦・多宝・分身の三仏の守護を得られるよう祈っていきなさい。


そして、その信心を根本に行学の二道を励んでいきなさい。

行学が絶えるようなことがあれば、仏法は滅んでしまうのである――(通解 諸法実相抄1361㌻)




以上

 

宿坊の掲示板より