五義の教を知る 第二章 相対論の応用展開

【五義の教を知る 第二章 相対論の応用展開】1/30  投稿者:大仏のグリグリのとこ  投稿日:2016年 1月22日(金)10時40分54秒   通報

  日蓮大聖人は鎌倉幕府の最高権力者に「立正安国論」を上呈したことを契機に伊豆流罪という法難に遭います。

 

この伊豆流罪中に大聖人は、重要な御書を次々と著し“教・機・時・国・教法流布の先後”という

「五義」を示して、この“五義”を知る人が「法華経の行者」であると定義し

 

“五義”を知って仏法を弘める人が「真の仏法指導者」であると同時に

「三類の強敵」の正体を明かしていく人であると提示しました。

 

伊豆流罪という出来事は、権力者が結託して、

その裏でうごめく勢力をはじめて表に引きずり出したと見ることもできます。

 

その上で大聖人は、伊豆流罪という迫害を受けている日蓮自身こそ、

身をもって三類の強敵を明らかにした“日本第一の法華経の行者”であると弟子たちに宣言し、

佐渡期における開目抄、観心本尊抄と直接、結びついていくのです。

 

経典を縦横に引きながら、諸宗の誤りを明快に論破していった大聖人の行動は、

権力の庇護のもとで、ぬくぬくと特権階級化していた宗教界を震え上がらせたといえます。

 

釈尊と同じく、大聖人も出家在家、老若男女問わず、すべての民衆に法門を説いています。

 

一宗一派の繁栄のためだけに、権力にすりよる宗教界の現状を見て、その権威権力をもっとも嫌ったのが大聖人であったし、

その権威権力と真っ向から戦って宗教革命に立ち上がったのも日蓮大聖人だったのです。

 

【五義の教を知る 第二章 相対論の応用展開】2/30  投稿者:大仏のグリグリのとこ  投稿日:2016年 1月22日(金)10時41分34秒   通報

  御書には「必ず先に弘まれる法を知って後の法を弘むべし」(四三九頁)とあります。

 

仏教二千数百年にわたる仏法流布の歴史を究めていた大聖人にとって、

自身滅後のことを考えて手を打っていないはずはありません。

 

おそらく大聖人は「末法一万年の衆生まで成仏せしむる」(七二〇頁)ために、

自らが執筆した著作を残すことに主眼をおいていたと思われます。

 

釈尊滅後、弟子たちが数百年にもわたって師匠の言葉を残すというのでは、

途中で誤りや解釈の違いが出てくるかもしれません。

 

それよりも直接、自身の立てた法門や広宣流布の原理を書き残すほうが、

後世の弟子たちは迷わず、正しい軌道に入っていける。

 

事実、現在残っている大聖人の遺文だけでも膨大な量になります。

しかもその約半分が在家信者に送った手紙です。

 

この一事を見ても、大聖人は出家在家の差別なく法門を説いていたことがわかります。

 

在家信者の中心的人物の一人であった“富木常忍”などは、

大聖人から数多くの重書をいただいている一人で、

 

御書十大部である「観心本尊抄・法華取要抄・四信五品抄」と三遍もあり、

大聖人は法門書の護役として富木常忍はうってつけの人だと思っていたのです。

 

「貴辺に申し付けし一切経の要文・智論の要文五帖、一処に取り集め被るべく候、その外論釈の要文、散在あるべからず」(九五五頁)

 

とあることから、富木常忍は御書の保管管理に強い使命感をもっていたことがうかがえます。

 

【五義の教を知る 第二章 相対論の応用展開】3/30  投稿者:大仏のグリグリのとこ  投稿日:2016年 1月22日(金)10時42分24秒   通報

  大聖人は“五義”の一つである「教」を弟子たちに教えるために五重の相対を用いて、

 

その相違を詳細に語り、

像法時代に現れた天台の“理の一念三千”と、

大聖人の“事の一念三千”の質の違い(本迹相対)を表明し、

 

釈尊の文上脱益仏法(釈尊の発迹顕本)と、大聖人の文底下種仏法(日蓮の発迹顕本)を明確に立て分け、

 

開目抄・観心本尊抄・撰時抄で「教法流布の先後」を通し、

事の一念三千の法門(三大秘法の南無妙法蓮華経)こそが、末法の衆生を救済する最高の教えであると訴えました。

 

日蓮大聖人の末代の弟子にしてみれば、師匠が「日蓮の法門は第三の法門である」(九八一頁)と

言いきっている以上、種脱相対が日蓮仏法の一切の根本であるはずです。

 

しかし大聖人滅後、高僧(六老僧)の弟子たちは師匠の法門を理解できずに我見の教義に固執し、分裂していきました。

 

釈尊の弟子も然り、天台の弟子も然り、伝教の弟子も然り、大聖人の弟子もまた然りです。

 

この歴史的事実から明確に見えてくるものは、宗教批判の原理である相対論は永遠に続くものだと言えるし、

続けなければ日蓮仏法を未来永劫に伝持していくことは不可能です。

 

もっといえば、教団という枠を超え、人間に焦点を当てて考えていけば、誰が師匠の法門を継承し、

誰が師匠の法門を体現して、師匠の遺命である「広宣流布」を現実のものとしているかを検証していく必要があると思います。

 

そうすることによって、さらに日蓮教学の純度が高まり、後世の弟子に伝持していけます。

 

またその一方で、宗派の教義や主張通りの結果が、生活や社会にどう現れるかということが「文理」以上に問題となります。

 

宗教とは本来、観念的・内面的なものだけではなく、

善かれ悪しかれ人々の生活や人生、また社会の在り方に重大な影響を及ぼすものです。

 

その現実の結果が、宗教の「勝劣・浅深」を判断する基準となります。

 

大聖人は「日蓮仏法をこころみるに、道理と証文とにはすぎず、又道理・証文よりも現証にはすぎず」(一四六八頁)と述べられ、

文証・理証以上に現証を重視しました。

 

この意味から、第二章では相対論を応用展開して、大聖人滅後から現在に至るまでの宗教の相対を考えていきたいと思います。

 

【五義の教を知る 第二章 相対論の応用展開】4/30  投稿者:大仏のグリグリのとこ  投稿日:2016年 1月22日(金)10時43分10秒   通報

  大聖人は入滅される直前の十月八日に“日昭・日朗・日興・日向・日頂・日持”の六人を「本弟子(六老僧)」と定めます。

ただし「不次第(順不同)」と注記されていて、この順序は入門した順であって後継者の序列を表したものではありません。

 

この時期、日昭・日朗は「鎌倉(鎌倉市)」、日向は「上総国藻原(千葉県茂原市)」、

日頂は「下総真間(千葉県市川市)」、日持は「駿河国富士群(静岡県富士宮市)」にいて、

その地域で門下の中心者として弘教や指導にあたっていました。

 

「日蓮亡き後、この六人が異体同心の団結で、各方面の仏法指導者として広布の大願を達成していきなさい」という大聖人の心だったと思います。

 

十月十三日、入滅した大聖人は荼毘にふされ、遺骨は日興によって身延の墓所に納められました。

 

そして、百か日忌を終えた翌年の一月末に日興が門下一同と相談し、

主な弟子十八人が、師匠の墓所を交代で守護する制度(墓輪番)を定めています。

 

六老僧は一人で一ヶ月、それ以外は二人で一ヶ月ずつ交代で墓所を守ることを定めたものですが、

十八人のうち、九人(日位・日法・越前公・日地・日持・日目・日秀・日弁・日華)は日興の弟子か孫弟子でした。

 

これは日興門下が主要な弟子の半数を占めていたことになります。

 

やがて六老僧はそれぞれの居住地へ帰っていきましたが、その時、大聖人が「墓所の側に安置しておくように」と遺言した

“注・法華経(大聖人が法華経に注をつけられたもの)”を日昭が持ち帰り、

 

“釈尊の一体像(伊豆流罪時に伊東の地頭から大聖人に供養された随身仏)”を日朗が勝手に持ち去ってしまったのです。

 

日昭・日朗はその後、墓輪番も守ろうとしないばかりか、師匠の三回忌を池上邸で行い、二度と身延へは戻りませんでした。

 

【五義の教を知る 第二章 相対論の応用展開】5/30  投稿者:大仏のグリグリのとこ  投稿日:2016年 1月22日(金)10時43分49秒   通報

  日興は後に「(五老僧は師匠の)お墓を捨ててしまったと思われる。師を捨ててはならないという法門を立てながら、

たちまち本師である師匠を捨ててしまったことは世間から批判されてもしかたがないことである」(美作房御返事)と嘆かれています。

 

身延の地頭(波木井実長)は、日興が身延に入った時には

「大聖人が再び入山されたようにうれしく思います」とまで喜んでいましたが、

弘安八年ごろに日向が身延へ登ってきて学頭に任じられると、日向の影響を受けるようになり数々の謗法を犯すようになります。

 

要するに、五老僧たちは師匠の教えに背いて師敵対し、反逆していったのです。

 

五人のうち、日昭・日朗にとっては、日興は後輩であり、

日向・日頂にとっては先輩でしたが“同格”だという思いあがりがあり、

日興のもとにつくことを嫌う感情が強かったのだろうと思われます。

 

また日持は、日興の弟子から抜擢されたのですが、

自分は師匠の直弟子なのだという思いあがりがあったのではないでしょうか。

 

さらに、鎌倉に住む日昭・日朗は、幕府からの迫害を受けて寺院を破壊されようとした時に、

天台宗を行じて幕府のために祈祷をするという申状を提出して難を逃れています。

 

彼らは難を恐れ、我が身の安穏のために権力におもねり退転していったのです。

 

もともと五老僧は“日蓮教学”に対する理解が浅く信心も弱かったために、

師匠が天台の流れをくんで法華経を弘通しているものと思っていたのです。

 

そのため「日蓮聖人の法門は天台宗なり」と述べ、自分たちは「天台沙門である」と名乗り、

弟子たちを比叡山で受戒させても平気でした。

 

五老僧は大聖人を「師匠」とは思っていても「本仏」とは信じていなかったのです。

 

 

・・・つづく

 

【五義の教を知る 第二章 相対論の応用展開】6/30  投稿者:大仏のグリグリのとこ  投稿日:2016年 1月23日(土)09時01分8秒   通報

  日興が後世のために、五老僧の誤りを破折し、

日興の正義を宣揚した「富士一跡門徒存知事」や「五人所破抄」の記述によって、

五老僧が師匠の正義を守る日興に対抗して邪義を立て、師匠の教えに背いていった様子が伺えます。

 

五老僧の邪義をまとめてみると、

 

①日蓮の法門は天台宗であり、伝教大師の余流をくんで法華宗を弘めようとしたと主張。

②伊勢神宮や伊豆山神社・箱根神社・熊野神社をはじめ所々の神社に参詣したこと。

③法華経の書写行を行ったこと。

④門下を比叡山で出家・受戒させたこと。

⑤大聖人の仮名まじりの手紙を先師の恥じであるとして焼き捨てたりすき返したりしたこと。

⑥本尊に釈迦如来を立てたこと。

⑦日蓮図顕の御本尊を軽視して、仏像の後ろにかけたり、死人に覆って葬ったり、売却して失わせたこと。

 

――などがあげられます。

 

しかもそうした謗法の行為を厳しく批判した日興を逆に激しく誹謗・中傷しているのです。

 

結局、五老僧は信心がなく、仏法の理解が浅く難を逃れて保身をはかり、

広宣流布を願わず正義の人に嫉妬して誹謗し、師匠の法門を破ったのです。

 

この邪義の特徴はそれ以降、仏法を破壊する現在の退転・反逆者たちにも共通している生命の傾向性といえます。

 

「外道・悪人は如来の正法を破りがたし。仏弟子等、必ず仏法を破るべし。師子身中の虫の師子を食等云云」(九五七頁)と

述べられた通りの現実があらわれてきたのです。

 

師匠が弟子に教えた通り、大聖人の入滅した直後から正法を破壊して、

広宣流布を妨げたのは、結局、大聖人の高僧の弟子である五老僧でした。

 

【五義の教を知る 第二章 相対論の応用展開】7/30  投稿者:大仏のグリグリのとこ  投稿日:2016年 1月23日(土)09時01分54秒   通報 編集済

  五(五老僧)・一(日興)を相対し、結果として師匠の法門を厳護したのは、出家僧侶としては「日興」です。

 

だからといって“日蓮正宗・大石寺”の言う、いわゆる「唯授一人血脈相承」などという神話ではありません。

つまり、大聖人が日興一人に法門の血脈を相承したということではない、ということです。

 

日興が書いたとされる消息に

 

「御弟子、ことごとく師敵対せられ候ぬ。日興一人、本師の正義を存じて本懐を遂げ奉り候べき、

仁に相当て覚え候へば、本意忘るること無く候」(原殿御返事)というくだりがありますが、

 

ここから読み取れるのは、

他の五老僧がことごとく「師敵対」の邪義を構えた結果、日興一人が師匠の正義の継承者になったという意識です。

 

もし現在の大石寺側が主張するように、日興が「唯授一人血脈相承」を大聖人から受けたのなら、

 

日興は五老僧に対して

 

「自分は日蓮聖人から唯授一人の血脈を受けた身であるから五老僧と全門下信徒は無条件で私に従うべきである」

 

と主張すればいいだけの話です。

 

しかし、日興の言説にそういう問答無用の“相承主義”はありません。

 

こういう史実から考えられることは、大聖人滅後の初期段階は釈尊滅後に弟子が経典を結集したように、

日興も日目も出家在家の立場を超えて、後世の弟子のために師匠の法門書を収集し遺すことを第一義に考えていたのではないかと思われます。

 

つまり「令法久住」のためです。

 

その最大の担い手が、出家僧侶は「日興」、在家信者は「富木常忍」ということです。

 

先ほども述べましたが、

 

富木常忍は師匠に直接、御書や要文の保管管理を任じられ、富木常忍は生涯をかけてその責務を全うしました。

 

富木常忍は後に「日常」と名乗り、自邸の持仏堂を法華寺として自ら貫首となって本尊を書写しています。

常忍は一二九九(正安元)年、法華寺を太田乗明の子「日高」に付して八十四歳で死去します。

 

現在、富木常忍関係へ与えた数多くの真筆の御書が現存していることは、彼の功績によるものです。

 

【五義の教を知る 第二章 相対論の応用展開】8/30  投稿者:大仏のグリグリのとこ  投稿日:2016年 1月23日(土)09時02分37秒   通報

  では、六老僧の御書に対する態度はどうだったのでしょうか。

 

六老僧のなかでも御書に対する厳格な態度は、やはり「日興」が飛び抜けていて、その業績は他を圧しています。

 

六老僧のなかでも特に師匠に常随給仕していた日興は、師匠が法門を著されると、

すぐにそれを筆写していたことは十分に考えられます。

 

なぜかというと、直弟子の現存写本は御書全集の目次によれば、

五十三編が数えられますがそのうち日興の写本は、実に四十九編にも及ぶからです。

 

五老僧にいたっては、一編も残っていません。

 

日興は“富士一跡門徒存知事”のなかで

 

「彼の五人一同の義に云く、聖人御作の御書釈はこれ無き者なり。・・・・而るに日興、

聖人の御書と号してこれを談じこれを読む。これ先師の恥辱を顕す云々、

ゆえに諸方に散在する処の御筆を、或はスキカエシに成し、或は火に焼き畢んぬ」(一六〇四頁)

 

と述べられていることから、

 

五老僧には御書収集への熱意など微塵もなかったことがわかります。

 

師匠の残された法門をまとめようともせず、内容によって軽視したり、無視するようでは弟子たる資格などあるはずがありません。

 

それに対して、師匠の法門を後世に残そうとする日興は、収集した御書の目録を作り、

主要な御書十編を選んで「法華本門」の四字を加え、「十大部御書」を選定しています。

 

そしてその十大部の所在を明らかにし、後世に正しく伝え残そうとしました。

 

【五義の教を知る 第二章 相対論の応用展開】9/30  投稿者:大仏のグリグリのとこ  投稿日:2016年 1月23日(土)09時03分22秒   通報

  “日興遺誡置文”には

 

「一、当門流に於ては御書を心肝に染め、極理を師伝して若し間(ひま)有らば、台家(天台)を聞く可き事」(一六一八頁)

 

と訴えています。

 

いずれにしても、大聖人滅後の弟子たちにとって、各地に散在している御書の収集は最重要の責務であったはずです。

しかし、その収集の歴史にさえも日興と五老僧の対立がありました。

さらにその後に起こって来る日蓮教団の分裂なども加わり、御書の収集は決して順調に行ったわけではありません。

この御書の収集・編纂に際しても、先頭に立って尽力したのが、日興と富木常忍だったのでしょう。

 

その労作業があってこそ現在、日蓮大聖人の真蹟「御書一九八編」、「図録二十三編」、「断簡三四六編」が残っているのです。

 

大聖人入滅の時、葬儀に参列した弟子群像の氏名が記された

「宗祖御遷化記録」などの文献を見ると、そこには二十八人の弟子が挙げられています。

 

文献に記された弟子たちは、大聖人の晩年の教団を支えてきた群像ともいえます。

その弟子の氏名をみれば、五老僧を除いて五老僧が折伏した弟子は一人もいません。

 

その反対に日興の弟子・孫弟子が圧倒的に多いことがわかります。

つまり、大聖人ご在世においても、滅後においても、日蓮教団を支えていた中核はまちがいなく日興系列であったのです。

折伏の師匠であった大聖人の実践を、身をもって実行し結果を出していった日興の功績は、

五老僧も認めざるを得ない峻厳な事実であったし、なにより大聖人自身がそのことをもっとも理解していたでしょう。

 

そこには折伏の範を“証明”した「日蓮日興」という侵すことのできない「師弟不二」の系譜が厳然と存在しています。

 

“日興門流”と“五老僧の門流”と最大に違う点は、

師匠の遺文を「御書」と命名し「末法の経典」と位置付けたことと、師匠を「本仏」と明確に位置付けたことです。  

 

 

【五義の教を知る 第二章 相対論の応用展開】10/30  投稿者:大仏のグリグリのとこ  投稿日:2016年 1月23日(土)09時04分10秒   通報

  日興は晩年、五老僧のような破法の僧を出さないために門下へ与えた二十六箇条の遺誡(日興遺誡置文)を著します。

 

そこには

 

「一、時の貫首為りと雖も、仏法に相違して己義を構えば、之を用う可からざる事」(一六一八頁)

 

と記されました。

 

日興は歴代の後継者を「貫首(住職の代表)」と表現し、

しかもその貫首(法主)はまちがいを起こす可能性があることを示唆しています。

 

たとえ時の貫首(法主)であっても、仏法に相違して勝手な教義を立てた場合には、用いてはならないと厳しく戒めたのです。

 

つまり、師匠の打ち立てた「事の一念三千の法門」を守り、弘めることが最も肝心であり

「人法一箇の御本尊根本」「御書根本」「広宣流布根本」こそが、日興の根本精神だということです。

 

そしてそのことを理解していなかったのが五老僧です。

 

たとえば、五老僧の一人である「日朗」が

正和元年(一三一二年)二月三日に書写した漫荼羅本尊(京都本能寺所蔵)を見れば

「人法一箇の御本尊」を理解していないことは明らかです。

 

正和元年といえば大聖人滅後三十年です。

日朗は本尊首題を「南無妙法蓮華経 日朗」と記し、左脇に「南無日蓮聖人」と書いています。

 

御書には「此の曼陀羅は文字は“五字七字”にて候へども三世の諸仏の御師」(一三〇五頁)、

また「妙法蓮華経の“五字七字”を弘むる」(一三六一頁)とあります。

 

“人法一箇”を上記二つの御文で説明すれば、五字は「妙法蓮華経」で“法”を表し、

七字は「妙法蓮華経 日蓮」で“人法一箇”を表すと解釈することも可能です。

 

末法の衆生は何に「南無(帰命)」して即身成仏するのかというと、七字の「妙法蓮華経 日蓮」です。

 

これが種脱相対で説明した大聖人の「事の一念三千の法門」ではなかったのか――。

 

末法の衆生に授与する“人法一箇の本尊”の首題は「南無妙法蓮華経 日蓮」の二つではなく、これで一つ(ワンパック)なのです。

 

しかし、日朗の書写した本尊はそうではない。これではまるで「根源の法」はもともと宇宙に実在しているのだから、

師匠なんて脇に置いてもよいという発想であり、この日朗書写本尊自体に日朗の境涯が表れています。

 

だから日蓮教学を理解していないといえるわけです。

 

 

・・・つづく

 

【五義の教を知る 第二章 相対論の応用展開】11/30  投稿者:大仏のグリグリのとこ  投稿日:2016年 1月24日(日)09時22分38秒   通報

  話をもどします。

 

遺誡置文を著した直後の同年二月七日、師弟不二の道を貫いた日興は八十八歳(米寿)の尊い生涯を終えました。

 

日興が亡くなった同じ年の五月二十二日、鎌倉の北条氏が新田義貞軍に滅ぼされ鎌倉幕府が滅亡し、

後醍醐天皇が京に入って朝廷に権力が戻ります。

 

それを好機と見た日目は、日興亡き後、日目が師(日興)の跡を継ぎますが、

朝廷を諫暁して広宣流布を実現せんと天皇への申状をしたため、同年十一月のはじめに弟子の日尊・日郷を供にして自ら京へ向かいます。

 

その途上、日目は雪と寒さと疲れのため、美濃国垂井(岐阜県不破群垂井町)で病に倒れ、

十一月十五日、死身弘法の尊い生涯を閉じるのです。

 

日目・七十四歳の時でした。

 

日目が亡くなった直後、日興門流では「第四世」の継承の問題をめぐって激しい対立が起こり分裂していきます。

 

そして日興門流の弟子たちは、先師(日興)が五老僧との攻防戦のなかで築き上げた日蓮教学を厳護するどころか、

研鑽を怠り理解できずに保身と私利私欲に溺れて、日興門流も五老僧の門流と同じく濁流に流されていきました。

 

しかし“第五の種脱相対”を正しく伝え、日蓮教学の正統性を主張した継承者を“五・一相対”すれば、

 

それは「日興上人」ただ一人です。

 

そしてそれを内外に証明し、決定打を打った“人物”が、日興門流の末弟であった「大石寺日寛」と、

 

在家教団であった創価学会「初代会長牧口先生・第二第会長戸田先生」なのです。

 

これが第六(五・一)の相対です。

 

なぜそういえるのか――今度はそれを見ていきたいと思います。

 

 

【五義の教を知る 第二章 相対論の応用展開】12/30  投稿者:大仏のグリグリのとこ  投稿日:2016年 1月24日(日)09時23分24秒   通報

  日寛が登場したのは、大聖人滅後、四百三十七年が経った江戸時代です。

 

この時代は徳川幕府によって、キリスト教信仰を禁止し、

民衆を支配するために寺請制度(檀家制度)が実施されていた時代です。

 

人々は必ずどこかの寺院に所属しなければならず、寺に人別(戸籍)が登録されていました。

そして寺院が発行する証文がなければ就職も旅行もできず、民衆は寺に隷属せざるを得なくなり、

 

住職の権限は絶大となっていたのです。

 

たとえ檀家総代であっても寺へ行くべき日に参詣しないと、

戸籍を抹消して自宗の檀家ではないと幕府に届けよ、とさえ定められていたといいます。

 

要するに、檀家制度は「寺院が権力の出先機関」になったということです。

寺院そのものが権力化し、僧侶は民衆の支配者となった――。

 

まさに民衆のために権力者と戦い抜いた大聖人の精神と対極にあったのが、この「檀家制度」といえます。

 

さらに幕府は「自賛毀他」といって、自宗をほめて他宗をけなすことを禁じ、

法論を禁止したため、どの宗派も布教ができなくなりました。

 

僧侶は寺に所属する檀徒が死亡すると、その死相を見届け檀那に間違いない(キリスト教でない)ことを

確認してから戒名を授け引導を渡すことが義務付けられていました。

 

そのため葬儀に僧侶を呼ばなければならなかったのです。

僧侶を呼ばなければ、キリシタンの疑いをかけられ、極刑に処される恐れすらあったのです。

 

葬儀や法要など、化儀のほとんどは江戸時代に確立されており、

檀家の墓・過去帳・位牌・仏壇などもそれ以降に一般化しています。

 

しかしその一方では、徳川幕府の宗教政策によって自由な布教が制限されたかわりに、

日蓮宗各派で教学研究が盛んとなっていきます。

 

 

【五義の教を知る 第二章 相対論の応用展開】13/30  投稿者:大仏のグリグリのとこ  投稿日:2016年 1月24日(日)09時24分7秒   通報

  室町後期から江戸初期にかけて、日蓮教団もさまざまな門流に分派し、

大きく分けて「勝劣派」「一致派」など、それぞれの学派が教義論争に明け暮れ、

 

日寛の時代になると「身延派」「富士派」「八品派」などの学派が“日蓮教学”の法門をまとめた論文や法義書を著し、

大石寺貫主のなかにも邪義(釈尊の仏像本尊)を唱える者が現れました。

 

そもそも日興が身延を離山し、富士に来たのは身延の地頭が釈尊の仏像を本尊としたことにあります。

 

そして日興は地頭を強く批判し、大聖人が図顕した曼荼羅本尊のみが信仰の根本であると主張しています。

 

釈尊の仏像を本尊とすることは、日蓮日興に背く大謗法なのです。

まさに日興が危惧していた「仏法に相違して己義を構える」貫主が出現したのです。

 

しかし当時の宗門には、おかしいと批判する声はあがっても「用いてはならない謗法だ」と

貫主を強く呵責する信心のある者はいなかったのです。

 

大聖人滅後、四百年を過ぎたころの大石寺はまさに法滅状態そのものでした。

 

こうした時代背景の中で、日寛も日蓮教学の研究に励み、後に大石寺の学頭に招かれ、

門流独自の立場から御書講義を行うなかで二十六世の法を継いでいます。

 

日寛は日蓮宗各派の教学振興の気運が高まるなかで自らも大石寺教学の確立を目指し、

そこから門流秘伝の「三大秘法義」を理論的に体系化する必然性を感じていたのだろうと思います。

 

しかし、それ以外にも自門流の秘伝を公開した諸事情がありました。

 

それは日蓮宗各派の教学論議で大石寺の教義からみれば、絶対に妥協できない邪論が横行するようになっていたからです。

 

【五義の教を知る 第二章 相対論の応用展開】14/30  投稿者:大仏のグリグリのとこ  投稿日:2016年 1月24日(日)09時24分56秒   通報 編集済

  日寛が“六巻抄”などで批判的に取り上げた

 

一致派の身延派に属する「日朝(にっちょう)」「日暁(にっきょう)」、

六条門流の「日澄(にっちょう)」、

不受不施派(ふじゅふせは)の「日遵(にちじゅん)」「日講(にっこう)」、

勝劣派では八品派の「日忠(にっちゅう)」、

富士門流では京都要法寺の「日辰(にっしん)」「日賙(にっしゅう)」

 

など、日蓮宗各派の論師の著作が日蓮門下に流通している状況をみて、

 

大石寺門流の「三大秘法義」を護るためには、

大石寺独自の教義を理論的に体系付け、褒め讃える必要性を感じていたからだと思います。

 

だからこそ三大秘法義を理論化し、対外的論議に絶え得る「門流教学」を構築したのです。

この時代の日蓮仏教界にみられる宗派横断的な教学書の流通が、日寛に「唯授一人法門」の理論化をうながしたといえます。

 

とくに要法寺の邪義を破るために「末法相応抄(六巻抄)」を著し、

要法寺日辰(にっしん)の主張をとりあげて、上巻の冒頭では法華経二十八品を読誦することの誤りを指摘し、

下巻の冒頭では仏像を造立して本尊とすることの誤りを厳しく打ち破っています。

 

要法寺出身の歴代貫首(大石寺法主)によって持ち込まれた「大石寺教学の邪義」を、

日寛が完全に打ち破ったことによって、日興門流・富士大石寺は浄化され、蘇生することができたといえます。

 

日寛教学は、大聖人滅後、約四百年の間に発生した日蓮宗各派の邪義をことごとく打ち破り、

富士門流に伝わる日蓮日興の正義を内外に向かって宣揚した「破邪顕正」の教学です。

 

日寛は六巻抄を弟子に授けた時に

 

「この書、六巻の師子王があれば、国中の諸宗諸門の狐兎(こと ※輩の意)が、

一党となって当山を襲ってきても、少しも驚き恐れることはないから秘蔵しておきなさい」

 

と述べたことは有名です。また日寛は

 

「この中に大事なことを示したのは、法をして久住させるためである」(三重秘伝抄)、

「これを著したのは広宣流布のためである」(依義判文抄)

 

と述べ、日蓮大聖人の正法を弘通して、人々を救うための教学であり、

広宣流布をするための教学であることを強調しています。

 

さらにその著作の中で、大聖人を“末法の御本仏”と仰ぎ、

一閻浮提総与の本尊を根本として信仰すべきことを明らかにして「信・行・学」のあり方を明確に指し示しています。  

 

 

【五義の教を知る 第二章 相対論の応用展開】15/30  投稿者:大仏のグリグリのとこ  投稿日:2016年 1月24日(日)09時25分41秒   通報

  池田先生は“六巻抄講義の序”で

 

「日寛上人の六巻抄は、日蓮大聖人の正法正義を、化儀の広宣流布の未来に

流れ通わしめんがため全魂をこめて著された破邪顕正の書であり

 

・・・未来永劫にわたる源遠長流の教学の大基盤であると信ずる。

・・・戸田前会長も、常々『教学は日寛上人の時代に帰れ』と述べられていた。

 

・・・もはや、一宗門の六巻抄にあらずして、万人の六巻抄となりつつあることを銘記されたい。

・・・本講義が、さらに広大な教学の潮流となって、二十一世紀の生命の世紀を開いていくことを願ってやまない」

 

(六巻抄講義 聖教新聞社刊)と述べられ、日寛の六巻抄を最大に宣揚しました。

 

ともあれ、日寛の指導によって、

大石寺はかつてないほど盛んに宗学が起こり、多くの人材が育っていきました。

 

しかし、江戸時代から明治時代に変わり、時代の推移のなかで明治政府は

「僧侶の肉食・妻帯・畜髪は勝手たるべき事」との明文を記したいわゆる「太政官布告」を発令し、

 

これによって宗教界の堕落が始まります。

 

当然、大石寺僧侶もその例外ではなく、またもや僧侶の堕落と、法脈を継ぐ貫首の座をめぐる紛争が

たびたび起きていて、せっかく法滅状態の大石寺を復興させた日寛の努力も虚しく、再び大石寺は退廃していきます。

 

その後、明治政府は仏教各宗派を、

「天台・真言・浄土・禅・真宗・日蓮・時宗」の七宗に各一管長の制度にすると定めました。

 

日蓮宗は「一致派」と「勝劣派」の二派に統合され、一八七四(明治七)年五月、大石寺は

勝劣派(興門派・妙満寺派・本成寺派・八品派・本隆寺派が合流)に加わり、

 

なんと日寛が破折している邪義の寺々と合同したのです。

 

 

・・・つづく

 

 

【五義の教を知る 第二章 相対論の応用展開】16/30  投稿者:大仏のグリグリのとこ  投稿日:2016年 1月25日(月)09時42分13秒   通報

  さらにその二年後の明治九年二月、

 

「大石寺・北山本門寺・京都要法寺・富士妙蓮寺・小泉久遠寺・保田妙本寺・西山本門寺・伊豆実成寺」の八山が

「勝劣派」より分離して「日蓮宗興門派」と名乗り、八山の代表が一年交代で管長を務めることになりました。

 

つまり、大石寺は要法寺や北山の代表などの「謗法の管長」の支配下にあったのです。

 

大石寺の第五十五世日布・第五十六世日応が管長になった期間もありましたが、他山の誤りを破折したことはありません。

その後、興門派は「本門宗」と改宗しています。

 

しかし同じ日興門流といっても、八山はそれぞれ歴史や教義が異なるために紛争が絶えませんでした。

 

そのため大石寺は、独立することを主張して、一九〇〇(明治三十三)年九月に分離独立が認可され、「日蓮宗富士派」と名乗ります。

 

さらにその後、日蓮の正統が派号を名乗るのはおかしいと、

一九一二(明治四十五・大正元)年六月より、「日蓮正宗」と公称するようになるのです。

 

大石寺は明治以降、大聖人の正統の教団としての誇りも正義も忘れて、長い間、

他の日蓮宗各派と合同し謗法の宗派の一員として、かろうじて生き延びてきたのにすぎないのです。

 

明治三十七年の調査によれば、当時の「富士派」の実勢は、

寺院が八十七、住職が四十七人、檀信徒が約五万八千人という「弱小教団」にすぎませんでした。

 

昭和に入り、世の中が戦争に向かっていく時流のなかで、日本は軍国主義に傾倒していきます。

 

この時に登場したのが、創価教育学会初代会長「牧口先生」と、第二代会長「戸田先生」です。  

 

 

 

【五義の教を知る 第二章 相対論の応用展開】17/30  投稿者:大仏のグリグリのとこ  投稿日:2016年 1月25日(月)09時42分53秒   通報

  一九四一年(昭和十六年)十二月八日、日本は米英に宣戦布告し、太平洋戦争が勃発します。

 

大石寺の時の貫首は「日恭(にっきょう)」です。

 

軍国化した政府は、国家神道の下に宗教統制する目的で「治安維持法」が改定され、

神宮の尊厳を冒涜することが刑罰の対象となり、宗教弾圧の口実とされました。

 

国家権力は日蓮正宗に対しても大聖人の御書のなかに、天皇や神に対する不敬があるとして削除を求めてきました。

この時、国家権力の弾圧におびえた日蓮正宗は、御書の関連箇所を削除することで国家権力と神道に屈服し、日蓮教学の正義を捨てたのです。

 

当時の日本には約十六万の宗教団体がありましたが、

その大半は軍部の台頭とともに積極的に戦争協力への道を選び、あるいは弾圧を恐れて声をひそめました。

 

宗教者としての正義を貫いた教団は数えるほどしかなく、

しかも最高指導者が逮捕されたところは、創価教育学会を入れても数教団です。

 

そして最高指導者として最後まで軍国主義に対抗し、信念を曲げずに殉教したのは、

 

創価教育学会会長・牧口常三郎先生ただ一人だったのです。

初代会長の獄死という「殉教」を通して、創価学会は日蓮仏法の正統として、その法脈を継承しました。

 

法門や御本尊を護持しながらも、広宣流布への精神を忘れていた日蓮正宗を、在家信徒である創価学会が

「宗祖・日蓮大聖人」の精神に立ち返らせようとしたのです。

 

日蓮教学の正統を継承する門流とはいえ、江戸幕府の寺請制度に組み込まれ、

何が正義かもわからなくなっていた日蓮正宗に、在家教団である創価学会が

 

「封印」されていた日蓮教学に猛烈な勢いで肉薄し、

 

七百年来だれも本気で考えなかった「世界広宣流布」を口にして、折伏を開始したことに、

日蓮正宗僧侶の面目を潰されたと感じ、侮辱心と警戒心をあおられた者がいたとしても不思議ではないと思います。

 

戦後、生きて獄門を出た戸田先生が牧口先生に代わって創価教育学会の名称を「創価学会」と改め、宗教革命に立ち上がりました。  

 

 

 

【五義の教を知る 第二章 相対論の応用展開】18/30  投稿者:大仏のグリグリのとこ  投稿日:2016年 1月25日(月)09時43分46秒   通報

  戸田先生は自ら折伏や座談会の第一線で戦い、広布の活動を推進していきます。

 

一九四七年(昭和二十二年)から第六十四世貫主になった日昇(にっしょう)は、戸田先生の求めに応じて

「大法弘通慈折広宣流布大願成就」の脇書きをしたためた広宣流布のための常住御本尊を創価学会に授与しています。

 

しかしこの時代は、宗門も創価学会も、まだまだ弱小教団で、世間的に見ても

「日蓮門流全般」の最大勢力は五老僧の流れを汲む「日朗」門流系の日蓮宗がその地位を誇っていました。

 

その代表格である身延山久遠寺やその他の日蓮門流は、釈尊を根本の“仏”と主張し、

大聖人を“日蓮大菩薩”などとして釈尊の下に位置付けるのに対して、

 

日興門流は「日蓮大聖人」こそが末法という時代の根源的「御本仏」だと見ます。

 

やがて五老僧門流各派は「南無妙法蓮華経」の題目は唱えても、釈迦像とともに鬼子母神や稲荷を拝み、

加持祈祷や荒行を売りものにするなど、日蓮教学とは大きくかけ離れた信仰になっていました。

 

先ほども述べましたが、五老僧の一人である「日朗」自身が日蓮教学を理解していないのに、

日朗を中心とする門流の弟子たちが日蓮教学を理解できるはずがありません。

 

それにも関わらず、日蓮宗の代表格である身延山久遠寺は日蓮教学の正統性を主張して一歩も譲りませんでした。

 

その邪義と化した日蓮宗と真っ向から法論対決し、日寛の出現以来、

 

濁流に流されていた宗門を再び日蓮教学の「正統継承者」という清流にもどした出来事が、

戸田先生の指揮のもとで行われた一九五五年(昭和三十年)三月の「小樽問答」なのです。

 

この時の学会側の司会者は、後の第三代会長・池田先生です。

身延山久遠寺はこの小樽問答で創価学会に「完全敗北」しています。

 

これによって、第六の相対である「五(五老僧)・一(日興)」の相対に、完全決着の終止符が打たれたのです。  

 

 

【五義の教を知る 第二章 相対論の応用展開】19/30  投稿者:大仏のグリグリのとこ  投稿日:2016年 1月25日(月)09時44分31秒   通報 編集済

  この時代、全体として宗門と学会という僧俗がまとまれたのは、

戦後の日蓮正宗の貫首たちが創価学会の出現に仏法上の意義を感じていたことと、

創価学会が万事をさしおいて荒廃した宗門の外護に尽くし抜いたからだと思います。

 

第六十五世貫主であった日淳(にちじゅん)は、

一九五六年(昭和三十一年)元旦に発表した“開宗七百四年を迎えて”の中で

 

「将来の歴史家は、立宗七百年以前は宗門の護持の時代とし、以後を流通広布の時代と定義するであろうと思われます」

 

と述べています。

 

戸田先生が第二代会長に就任し、創価学会内に青年部をはじめとする組織が整備されて

広宣流布へ本格的な折伏が始まったのが一九五一年(昭和二十六年)――。

 

その翌年は不思議にも、日蓮大聖人の立宗である一二五三年(建長五年)から七百年目にあたっています。

 

日淳はこれまでの七百年間を、宗門が一閻浮提総与の大御本尊を「護持」してきた時代であり、

それ以降は創価学会による「流通広布の時代」と考えていました。

 

数々の謗法や不祥事を重ねながらも、大御本尊をかろうじて「護持」してきた宗門の役割りは終わって、

創価学会による広宣流布の時代がきたことを正しく認識していたのです。

 

さらに日淳は、一九五八年(昭和三十三年)五月三日の第十八回総会の席上、創価学会の仏法上の意義について

 

「法華経の霊山会において上行を上首として四大士があとに続き、そのあとに六万恒河沙の大士の方々が霊山会に集まって、

必ず末法に妙法蓮華経を弘通いたしますという誓いをされたのでございます。

 

その方々が今ここに呼び出されたのが創価学会であろうと思います。

すなわち妙法蓮華経の五字七字を七十五万として地上に呼び出したのが会長先生だと思います」

 

と述べました。

 

【五義の教を知る 第二章 相対論の応用展開】20/30  投稿者:大仏のグリグリのとこ  投稿日:2016年 1月25日(月)09時45分36秒   通報 編集済

  創価学会こそが法華経に説かれた「地涌の菩薩」の出現であり「牧口先生・戸田先生」という

仏法指導者が地涌の先達であると日蓮正宗の貫首が公式に認めているのです。

 

堀日亨(ほりにちこう)が編纂した「富士宗学要集・法難編」の“昭和の項目”として、

創価学会が受けた戦時中の弾圧を入れて、宗史の法難として正式に位置づけています。

 

一九五八年(昭和三十三年)四月二日、戦後の庶民に生きる希望と哲学を教えた戸田先生は、

自身の一切の願業を成就して五十八歳の尊い生涯を終えました。

 

あらためて「三時の弘教」「五箇の五百歳」という仏法流転の視点から見ていけば、

 

大聖人滅後からの五百年間は「化法(法体)の広宣流布」だったのではないでしょうか。

 

日興門流はさまざまな危機的状況に直面しながらというよりも

滅亡の危機にさらされて来たからこそ、日蓮教学を整理してまとめる必要があった。

 

そして日興は御書の収集に奔走し、それを基礎として今度は“像法の天台”のように、

日蓮教学の大学匠(日寛)が出現し「法体(末法の経典)」の完成と、滅後に派生した邪義を砕く「法義書(六巻抄)」の完成があった――。

 

それらのことがあって、次ぎの五百年の歴史は日蓮教団から在家教団(創価学会)が登場し

 

「化儀の広宣流布」を成し遂げる時代を迎える――。

 

そう考えると

 

“日蓮―日興―日寛―創価三代の会長”という系譜は必然の流れだったと思えてならない。

 

しかし、いよいよ「化儀(社会)の広宣流布」の進展とともに、次ぎの相対が浮き彫りになってくるのです。

 

それが第七の「創価学会・日蓮正宗」相対です。

 

戸田先生亡き後、池田先生が三十二歳という若さで創価学会第三代会長に就任します。

 

就任当時の学会世帯数は百数十万世帯――。

 

そこからわずか十年で、池田先生は七百五十万世帯という日本最大の創価学会に発展させました。

 

池田先生は恩師の遺志を継いで、さらに徹底して日蓮正宗の外護に力を注ぎます。

 

 

・・・つづく

 

【五義の教を知る 第二章 相対論の応用展開】21/30  投稿者:大仏のグリグリのとこ  投稿日:2016年 1月26日(火)08時57分1秒   通報

  一九六四年(昭和三十九年)、大石寺に本門「大客殿」を建立寄進した学会は、引き続き「正本堂」の建立寄進に動きます。

 

当時、日本の仏教界のどの本山を探しても、大客殿に並ぶ“規模と質”を持っていた宗派はなく、

すでに大石寺は戦後の貧しい地方寺院の様相から一転して他宗もうらやむ伽藍を整え、多くの参詣者でにぎわっていました。

 

その規模をもしのぐ「正本堂」の建立は、戸田先生が遺言として池田先生に託していたものです。

 

一九六八年(昭和四十三年)に着工された正本堂は四年の歳月を費やして、一九七二年(昭和四十七年)十月に完成しました。

東西百五十メートル、南北三百三十メートル、高さ六十六メートルという巨大建築です。

完工式には各国の識者からの祝電が届き、在京の各国大使も多く列席しています。

 

日蓮正宗は戦後二十七年、戸田第二代会長が広宣流布への本格的な前進を開始してからわずか二十年で、

二十世紀最大の宗教建築としての「本門戒壇」を得て、名実ともに世界宗教の聖地に恥じない日本一の宗派になったのです。

 

池田先生は在家教団として、宗門外護の立場から「宗門にお仕えする」という道を選び、

些細なことも時の貫首であった「日達」と相談しながら、僧俗和合を第一義に事を進めていきました。

 

しかしだからと言って、創価学会は日蓮正宗に命じられたから広宣流布をやろうとしたのではありません。

 

あくまでも日蓮大聖人の遺命達成のためであり、一宗一派へのこだわりなどなかったと思います。

 

むしろその前進を妨げたのは、日蓮正宗の方だったのです。

 

その証拠に、牧口・戸田両先生の時代、宗門は広宣流布を掲げて進む学会の存在が、弾圧の原因になると考え、

自らに飛び火しないかとそればかり恐れて学会を切り捨てて謗法の限りをつくしていました。

 

壊滅状態にあった宗門に広宣流布の思いなど微塵もなく、学会が日蓮仏法の正当性を宗門に教え、覚醒させていったのです。

 

大聖人の精神に直結し、望んで法難の嵐のなかへ乗り出して弘教拡大に尽力し、

結果として宗門を反映させてきたのは創価学会です。

 

しかし皮肉な事に「正本堂」が建立したのを境に、僧俗の間に亀裂が生じ始めていくのです。

 

いよいよ「第六の相対」の始まりです。

 

【五義の教を知る 第二章 相対論の応用展開】22/30  投稿者:大仏のグリグリのとこ  投稿日:2016年 1月26日(火)08時57分50秒   通報

  この“第六の相対(創価学会・日蓮正宗)”の闘争は、実は二回ありました。

 

一回目の始まりは、第一次宗門問題です。

 

しかしこの時は、学会最高幹部(執行部)と一部の公明党議員の「弟子の裏切り」で失敗しました。

 

そして昭和五十四年四月二十四日「会長辞任」という形で池田先生が全責任を取り、

師匠ただ一人が学会組織と学会員を厳護していただいたのです。

 

以来、会員の間では、この昭和五十四年四月二十四日を弟子が師匠を厳護できなかった「弟子敗北の日」と認識しています。

 

さて、正本堂が完成した翌年、学会は「教学の年」をテーマに掲げて教学運動を開始します。

 

日達の親衛隊を自負していた正信会や、当時、学会の顧問弁護士を務めていた反逆者の山崎正友が結託して、

学会分裂を画策していた「昭和五十二年・五十三年」も、二年続けて「教学の年」と掲げ、学会員は徹底して教学を学んでいきました。

 

さらに、一九七八年(昭和五十三年)の学会創立四十八周年の本部幹部会の席上、

池田先生は、二十一世紀までの「五年ごとの目標」を発表しています。

 

先生はただ一人、会員を守ろうと人知れず手を打ち続けていたのです。

 

これほどまでに教学を打ち込まなければならなかったということは、

 

学会組織を推進していく執行部や大幹部の“教学の未熟さ”が

 

「法」を基準にした論争や破折ができなかったからだと思います。

 

そもそも草創期の学会員の教学は、他宗派や他宗教との教義論争や折伏の場などで鍛えられてきました。

日蓮仏法の正当性を鮮明にし、体験に裏打ちされた教学で、邪義に対し徹底的に戦って学会組織の土台を作ってきたのです。

 

当時の学会員は、池田先生の指導を直接聞くということは環境的にも不可能でした。

 

そのため、代表幹部が池田先生の指導を聞き、その後各方面で伝達会が持たれ、

会員は、その会合に出席して幹部の指導を聞くことが一つの戦いでもあったのです。

 

【五義の教を知る 第二章 相対論の応用展開】23/30  投稿者:大仏のグリグリのとこ  投稿日:2016年 1月26日(火)08時58分35秒   通報

  しかし、先生の精神性を中間幹部が伝達していくのでは、どうしてもその幹部の境涯が関係します。

 

こういう体制の中では、必ず特権意識を持つ幹部が生まれるのも事実です。

 

元教学部長であった原島嵩のように「親の功績」の七光りで周囲から特別扱いされ、

自身の宿業と苦難を乗り越えた体験を持たない人間は、決まって権威主義の奴隷になるものです。

 

会長辞任に追い込まれた池田先生の胸中は、どれほどのものだったのか想像もつきません。

 

第三代会長を守れなかった当時の執行部に「完全に失望」していた池田先生は、再び自ら道を開くしかなかったのです。

 

またこの時期は、全国各地の学会員も多数、横暴な僧侶に苦しめられてもいました。

 

もはや信ずるに足るのは、青年だけだったのではないでしょうか。

 

不思議にも会長辞任の一九七九(昭和五十四)年は「人材育成の年」をテーマに掲げ、

青年の育成に全力で取り組んでいた年でもあります。

 

会長辞任後、宗門から動きを封じられていた先生は、青年部に自主的な

御書・文段(日寛著)の本格的な研鑽を託し、先生は長編詩を詠んで、詩作を通じて日蓮仏法の宗教性を論じていきました。

 

その後、先生は様々な会合で記念のスピーチを開始します。

会長時代は堂々と会長指導ができたのですが、辞任以来、宗門がそれを許さなかったのです。

 

このスピーチは当初、電話回線を使って音声中継で主要会館に中継されました。

もちろん、編集なしのノーカットスピーチです。

 

引き続き学会は、人工衛星を使ったシステムを導入し、これによって今まで

記録映画やビデオでしか触れることのできなかった池田先生の姿と声に、全会員が直接触れられるようになったのです。

 

同時に「自分だけが先生の特別な指導を知っている」という傲慢な幹部の特権意識を完全に払拭することにもなりました。

 

全会員が直接、先生のスピーチを聴けることで、先生と会員の「師弟の絆」は

見違えるほど新鮮で、より強固なものになっていったのです。

 

しかし、時の到来とともに、こうしたことを苦々しい思いで見ていた人物が、時の貫首「日顕」です。

 

これが二回目の第二次宗門問題のはじまりです。

 

【五義の教を知る 第二章 相対論の応用展開】24/30  投稿者:大仏のグリグリのとこ  投稿日:2016年 1月26日(火)08時59分32秒   通報

  日顕はまず、池田先生と会員の絆を引き裂くために、先生を「総講頭罷免」にします。

 

しかし常日頃から同時中継を通して、先生から直接「師弟不二論」を学んでいた会員は、

ことの本質をすぐに見抜き、阿修羅の如く応戦していきました。

 

今でこそ学会員と法華講とに分かれた攻防戦ですが、勃発当時は、昨日まで共に戦っていた学会員同士の対論でした。

 

つまり、両陣営の大幹部から見れば、出家僧侶と在家信徒の日蓮教学の正統をかけた戦いでしたが、

 

一般会員にとっては、学会員同士の戦いであり、

池田先生と日顕のどちらが大聖人の精神を体現している「師匠」なのかを選択する闘争だったのです。

 

この時、本当に先生と共に、返り血を浴びながら学会組織と会員を守ったのは、

 

やはり大幹部ではなく、無名の青年と婦人です。

 

大幹部はこの時も保身に走り、責任が自分に降りかからないように、戦いの邪魔ばかりしていた記憶があります。

現在、その無名の青年たちは五十代の壮年世代になっています。

 

ともあれ、日蓮正宗との攻防戦を余儀なくされた一九九〇年代、

直面する様々な問題の本質を通しながら、先生は「宗教の本来あるべき姿」を徹底して会員に打ち込んでいきました。

 

その哲学の最たるものは

 

「悪を見過ごさず、勇気をもって『悪』とは徹底して戦え!」

 

ということに尽きます。

 

観心本尊抄には

 

「当に知るべし、此の四菩薩折伏を現ずる時は

“賢王”と成つて“愚王”を誡責し“摂受”を行ずる時は“僧”と成つて正法を弘持す」(二五四頁)

 

とあります。

 

大局観に立って仏法史観を考えれば、かつての釈尊の教団が“上座部(出家)”と“大衆部(在家)”に分裂したように、

 

日蓮正宗(上座部)は、創価学会(大衆部)に嫉妬し、あらゆる弾圧を加えた挙句、

創価学会(全会員)を「破門」にするという暴挙に出ました。

 

しかも破門しただけでなく、信仰の根本である「御本尊」さえも信徒支配の道具と考え、学会への御本尊の下付を停止したのです。

 

以来、創価学会と日蓮正宗はそれぞれ独自の道を歩み、その後、

 

創価学会は大発展を成し遂げ、一方の宗門は滅亡の一途をたどっています。

 

【五義の教を知る 第二章 相対論の応用展開】25/30  投稿者:大仏のグリグリのとこ  投稿日:2016年 1月26日(火)09時00分21秒   通報 編集済

  佐渡御書に

 

「般泥洹経には『未来の世に、かりに袈裟をつけて我が法の中で出家学道したとしても、

怠けおこたり仏道修行に精進せず、大乗経典を誹謗するような者は、今日の諸々の外道の者である

と知るべきである』と説かれている。この経文を見る者は自分自身を恥ずべきである。

 

現在、出家して袈裟をかけながら、怠けおこたる者は、

釈尊在世の六師外道の弟子であると仏は記されている(通解)」(九五八頁)

 

とあります。

 

戸田先生はこの御文を引いて、こう述べました。

 

「これから先の世において、大乗を学しない懶惰懈怠(怠けおこたる)にして、

法華経を誹謗する悪い僧が生まれてくるというのです。

 

どういうのが悪い僧となって生まれるのかというと、いま釈尊の出た時に外道のバラモンをやって、

仏法の悪口をいっているのが、そういうふうに生まれてくるのだというのです。

 

そうなってくると、大聖人様の時代に良観とか、あるいは法然とかの弟子などになる連中は、

いったい過去にどういう者だったかというと、昔、仏法をくさした外道の者が生まれてきて、

形だけ仏法をやって、こんどは正法に邪魔するのです。

 

大聖人を迫害した良観たちが、いま生まれてきて仏立宗等の坊主になっているのです。ほんとうです。

 

この原理からいうとそうなります。

そうでないとしたら、大聖人様がウソついたことになります」(戸田城聖全集第六巻)と。

 

つまり、大聖人が「般泥洹経」の文を引いて解釈した言葉を、

戸田先生は「原理」として捉え、現代に応用展開して講義しました。

 

そしてさらに

 

「大聖人様をさんざんいじめた悪い者が、仏立宗・日扇(にっせん)などという徒輩になったのです。

・・・霊友会でも立正佼成会でも、天理教の教祖でも、みんなあれは仏法を悪くいってきた者が、

あのようになって出てきたのです。

 

それでいま、日蓮正宗が本尊流布するにあたって、邪魔をするのです。

 

こんど、それではどうなるのかというと、

あのような連中が死ぬと、こんどは日蓮正宗のなかに生まれてくるのです。

 

・・・まことにこれはおもしろいものです。

・・・大聖人様は明確に、この経文に自分を恥じろといわれています」(同)

 

と訴えています。

 

 

・・・つづく

 

【五義の教を知る 第二章 相対論の応用展開】26/30  投稿者:大仏のグリグリのとこ  投稿日:2016年 1月27日(水)09時19分41秒   通報 編集済

  ここにおいて、戸田先生の指導が現実のものとなり、

池田先生によって第六の相対「創価学会・日蓮正宗」の相対を実行し、

 

事実として池田先生率いる“創価学会”は、仏法至上、

未曾有の百九十二カ国地域に日蓮仏法を流布して名実共に完全勝利を成し遂げたのです。

 

未来もまた、大聖人の法理と戸田先生の指導を「永遠の原理」として考えていけば、今度はどうなるのでしょうか。

 

“第六の相対(創・宗)”を成し遂げた第三代会長「池田先生」が入滅したら、

 

次ぎは「創価学会」自体に“相対”が発動し“第七の相対”がはじまるのではないかと考えられます。

 

“第七の相対”をあえていえば「池田思想・創価学会思想」、

 

“第八の相対”は「師弟の道・師弟不二の道」ではないかと考えられます。

 

そして“第七の相対”を成し遂げるのは、池田先生と共に戦った「弟子同士の戦い」になると予想されます。

 

もっと具体的にいえば、創価学会の三代にわたる師匠の思想を守る弟子なのか、

それとも師匠の思想を破り、学会組織を守る弟子なのか、その二つに分かれる可能性があります。

 

戸田先生は「三代会長を守れ!必ず守れ、そうすれば広宣流布はできる」との指導を残し、

「戸田の命よりも大事な組織」という指導も残しています。

 

この二つの指導の真意は、創価学会以外、広宣流布を成し遂げる組織はないという確信であり、その組織には戸田先生亡き後、

厳然と広宣流布の総仕上げを成し遂げ“第六の相対(創・宗)”を成就する愛弟子「池田先生」の存在があったからだと思います。

 

事実として池田先生は恩師の厳命した「広宣流布の構想」をことごとく成就しました。

 

そう考えると、たとえ「戸田の命よりも大事な組織」といっても、

もし三代会長の“思想や精神”が脈打たない創価学会になったとしたら、

 

それは創価三代の師匠が体現した「信心の血脈」が消滅した単なる邪教教団です。

 

「外道悪人は如来の正法を破りがたし、仏弟子等必ず仏法を破るべし師子身中の虫の師子を食等云云」(九五七頁)とある通り、

 

将来において、師匠の思想を守らず、正法を断絶する学会執行部が現れたならば、

師匠の思想・精神を厳護するために、本門の弟子が厳然と立ち上がり“第七の相対”に挑むべきだと思います。  

 

 

【五義の教を知る 第二章 相対論の応用展開】27/30  投稿者:大仏のグリグリのとこ  投稿日:2016年 1月27日(水)09時20分26秒   通報

  これらを踏まえて、今回(二〇一五年版)の「教義会則変更」の内容を見ていきたいと思います。

 

まず、今回の新教義には

 

「・・・根本の法である南無妙法蓮華経を具現された三大秘法を信じ、御本尊に自行化他にわたる題目を唱え」とあります。

 

この変更文の説明として

 

「宇宙と生命に内在する根本の法を南無妙法蓮華経であると明らかにされました。そしてそれを、

末法の全民衆の成仏のために三大秘法、すなわち、本門の本尊・本門の題目・本門の戒壇として具体的に顕された」と解説しました。

 

この解説によれば、南無妙法蓮華経は具現化(発迹顕本)する以前の“宇宙と生命の法”であるということですが、

これだけなら本迹相対はおろか種脱相対にすらなっていない。

 

これは単なる「理」にすぎません。理の一念三千をいくら“信仰の対象”にしても理の一念三千にかわりはない。

 

日寛は六巻抄で

 

「既に十界の形像を図顕す、まさに是れ事の一念三千なるべきや、答うこれを図顕すといえどもなお是れ理なり、

何となれば三千の体性・一心の体性を図顕するゆえなり。まさに知るべし、体性はすなわち是れ理なり、

ゆえに知りぬ理を事に顕すことを、このゆえに法体なお是れ理なり。ゆえに理の一念三千と名づくるなり。

・・・若し当流の意は事を事に顕す、このゆえに法体本これ事なり、ゆえに事の一念三千の本尊と名づくるなり」(文底秘沈抄)

 

と述べています。

 

大聖人の仏法は“事”を「事に顕す」のですから、法体そのものが「事」であることを忘れて日蓮仏法はないのです。  

 

 

【五義の教を知る 第二章 相対論の応用展開】28/30  投稿者:大仏のグリグリのとこ  投稿日:2016年 1月27日(水)09時21分16秒   通報

  南無妙法蓮華経は単なる「法理」ではなく「仏身」なのです。

 

久遠元初の自受用身であり、発迹顕本の日蓮大聖人です。

 

大聖人は竜口で発迹顕本し、法と人が一体になったからこそ、

その対境である報身を大漫荼羅として図顕し、人法一箇の本尊としたのです。

 

これが「本門の本尊」となるわけです。

 

こう信じてその御本尊に向かって唱える題目を「本門の題目」といい、

その御本尊を受持する所を「本門の戒壇」というのです。

 

こうして本門の本尊によって、本門の題目も本門の戒壇も成立するから本門の本尊をもって「一大秘法」というのです。

 

南無妙法蓮華経と日蓮大聖人を切り離して事の一念三千の「御本尊」とはならず、一大秘法があってはじめて三大秘法が開かれるのです。

 

さらに【会則の教義条項改正に関する解説(二〇一五年一月三十日付聖教新聞)】の

 

“三大秘法について”のなかで

 

「『宇宙と生命に内在する法』、すなわち南無妙法蓮華経が根本であり、三大秘法はそれを具現化された法門である。

これまで日寛上人の教学に基づいて『一大秘法』や『六大秘法』ということを使用してきたが『一大秘法』が『本門の本尊』である

という日寛上人の解釈は、御書にはない。

 

・・・日寛上人が用いられている、三大秘法を合した『一大秘法』、

また、三大秘法を開いた『六大秘法』という表現は、御書そのものには説かれていない。

・・・日寛教学の一大秘法、六大秘法という用語は、今後用いない」

 

としている。

 

【五義の教を知る 第二章 相対論の応用展開】29/30  投稿者:大仏のグリグリのとこ  投稿日:2016年 1月27日(水)09時21分56秒   通報

  今回の新会則で、創価学会が「一大秘法」を捨て「人法一箇の本尊」を捨てたということは

 

“御本尊中心主義”から“題目中心主義”への移行であり、まさに身延化に向かう恐るべき暴挙に他ならないと思う。

 

その証拠が新経本の「観念文」に見事に記載されています。

 

新観念文には「法華経の肝心である南無妙法蓮華経の御本尊に南無し」と記されました。

そもそも宗教団体と名の付く以上、最も重要なのは「宗旨」です。

しかしこれでは創価学会の「宗旨」がまったく不明でわからない。

 

およそ日蓮を冠した教団は皆「南無妙法蓮華経は法華経の肝心」だと主張しています。一致派しかり、身延派しかり――。

 

これでは「本門寿量品の肝心」とする六老僧(日朗)の流れを汲む法華宗(本門流)にも笑われてしまいます。

今回の創価学会会則の教義条項改正は、身延派・一致派と何がどう違うのでしょうか。

 

究めつけは、

 

「『観心の本尊』とは、『信心の本尊』でもある。この信心を私たちに教えてくださったのが

創価の三代会長、なかんずく池田名誉会長である【同】」

 

と述べているところです。

 

何度もいいますが、観心の本尊とは「大聖人の御境涯」を本門の本尊として建立したものです。

 

御本尊は仏身であり大聖人そのものである、

 

そう信じて御本尊を拝する信仰者の信心姿勢があっての観心の本尊であり、本門の本尊です。

このことを教えてくださったのが創価の三代会長、なかんずく池田先生なのです。

 

【五義の教を知る 第二章 相対論の応用展開】30/30  投稿者:大仏のグリグリのとこ  投稿日:2016年 1月27日(水)09時22分36秒   通報

  以上、【会則の教義条項改正に関する解説】を見てきましたが、

 

上記の説明だけでは日蓮宗身延派・一致派と何が違うのかわからないし、三大秘法も名ばかりで真実の三大秘法ではありません。

 

もうここまでくると、説明不足というよりも本当に日蓮教学がわかっているのか――と言いたくなる。

 

これでは「今回の創価学会新教義は明らかな邪義である」と言われてもしかたがない。

 

創価学会の会員規定で「会の秩序を乱す行為をしない」「会もしくは会員の名誉を傷つけない」

「会もしくは会員に迷惑を及ぼさない」等のことが定められていることは当然として、

 

もしそれが「幹部の言うことには服従する」「幹部の不正や間違いを見ても言ってはならない」などに、

すり返られたとしたら創価学会にとってこれほどの悲劇はないと思います。

 

また、そうなる危険性は充分にあり得ます。

それはすでに日顕宗が証明しているし、昭和五十四年「会長辞任」時にも

最高幹部の反逆者が出たことによって、学会も天魔が出るという証明をしました。

 

先生が五十代のお元気な時ですら天魔が出現したのに、いわんや滅後においておやです。

 

この歴史的事実を本門の弟子は厳粛に受け止めるべきです。

 

法華経方便品に曰く「如是相・如是性・如是体・・・如是本末究竟等」とあります。

 

大聖人滅後から続く相対論は、弟子が「師弟の道」で生きるのか、

それとも「師弟不二の道」で生きるかの“究極の選択作業”ではなかったのかと思う。

 

そしてそれは自分自身の意志と決意次第でどうにでもなるし、結局、「五十四年問題の本質」はそれに尽きるのではないかと思います。

 

生命は三世永遠です。あと百年も経てば、今の池田先生の弟子は良いも悪いも全員亡くなります。

 

その時、後世の弟子たちは“今時”の出来事をどう審判するのでしょうか。

 

それをすべての“勝負観”に定めて、今を戦っている――池田先生の師弟不二の弟子たちは、そう腹を決めて今を生きているのではないかと考えます。

 

 

第二章 相対論の応用展開 ― 完 ―

 

宿坊の掲示板より