第二 道門増上慢の特徴は「心は諂曲(てんごく)」

【第二 道門増上慢の特徴は「心は諂曲(てんごく)」】  投稿者:大仏のグリグリのとこ  投稿日:2015年 5月17日(日)08時56分34秒

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「悪世の中の比丘は、邪智にして心諂曲に未だ得ざるを為れ得たりと謂い、我慢の心、充満せん」


とありますが、これが第二の道門増上慢です。


「諂曲」とは、

強い者に対しては、自分の考えを曲げて、へつらい、ぺこぺこする、弱いとわかると威張る生命です。


具体的にいうと、法華経の行者を迫害する教団の僧ということです。

学会組織で言えば、創価学会から給料をもらって生活している職員の立場に当たります。


そして、その特徴は「邪智」であるということです。

要するに、彼らは仏法に対する知識は持っているが、

その見識は正法(御書)や池田先生の指導を否定する「邪見」に落ちている、ということです。


例えば、関東の弓●やその子分(職員)、関西では森●やその子分(職員)たちのこと、といえばわかりやすいと思います。


もっといえば、会員の浄財を自分の私利私欲のために貪る職員や、

自分の出世のために「ことなかれ主義」で一般会員を黙らせ、

自分に責任が及ばないように仕向ける臆病な職員です。


さらに彼らの特徴は「心がこびへつらって」いることです。


一例を挙げると、たとえば、関西では森●は金銭問題で失敗し干されたそうです。


聞くところによると、地元の東大阪にも帰れず、関西本部にも出勤できず、とある会館に勤務。

その会館の事務長にもしてもらえない干され方。


これを打開するには、本部内の勝ち馬に乗らないと出世はできません。

そこで、谷●の軍門に下ったようです。


要するに、力ある者に媚びて自身の意見を貫けない卑屈さが、道門増上慢の特徴です。


彼らは、誰人に対しても自身の見解を主張しぬいていく確固たる信念は持ち合わせていません。

権威の前には、有無なく従っていく態度に終始します。


彼らのそういう態度や知識は「職員(僧侶)」としての立場をつくろうだけの「飾り」なのです。


日蓮大聖人の仏法や、池田先生の指導は、彼らにとって、真剣に探究すべき人生の根幹などではなく、

ただ単に、自分や自分たち家族が生活するための手段にすぎないのです。


それでいて彼らは、何の境地にも至っていないのに何らかの悟りに到達したと思い込んでいるだけです。

職員であるからには、一般会員とは違う何かを得ていると思いたいのでしょう。


もちろん、そのような思い込みが何の実体もない虚構であることは、彼ら自身がもっともよくわかっていますから、

真正の仏法者に接すると、自身の虚像が暴露されることを恐れて本能的に反発するのだと思います。


道門増上慢とは、実に、寂しく、哀れな人間です。そういう中でしか生きていけないのですから。


本物に触れても、その価値を素直に認めることが出来ず、自分たちが「偽物」であることを自ら知っているだけに、

本物の価値をことさら貶めようとする嫉妬の生命が動くのです。


法華経の勧持品が「道門増上慢」を挙げて、法華経の行者が僧侶から「必ず」迫害を受けることを指摘しているのは、

このような僧侶(職員)の実態と心理を洞察していたからだと思われます。


世間の厳しい経済社会から離れ、経済的にわずらわされることもなく、

多くの人の中から選ばれて自分は師匠の側で働いている。


だから一般会員よりも、何でも知っているし、自分は別格の弟子なのだ――と、


もしこういう心根の職員がいるとすれば、それが慢心であり、道門増上慢の本性なのです。