生命哲学「九識論」

参考文献「やさしい生命哲学――宿命転換をめざして」 

◇ ◇ ◇ 目 次 ◇ ◇ ◇


環境と人間生命の関係を洞察した仏教の「九識論」

「外的な運命」と「内的な運命」

自己責任の原理―「自業自得」

内なる生から問題の解決を―「内道」

「九識論」は人間の「心」を5つのレベルに分類外界の感覚―「五識」

リアリティーの認識―「第六識・意識」

自我へのこだわり―「第七識・末那(まな)識」

経験の貯蔵庫―「第八識・阿頼耶(あらや)識」

根源の生命エネルギー―「第九識・阿摩羅(あまら)識」

「自覚」があらゆる「識」を智慧に転換

妙法に生ききった魂を鏡として

根本の願いが大生命力を

 

1. 環境と人間生命の関係を洞察した仏教の「九識論」


◆「外的な運命」と「内的な運命」

 

 ドイツの文豪ヘルマン・ヘッセは小説『ゲルトルート』で運命についてこう記している。「避けることのできないものをはっきりした自覚をもって甘受し、幸福もわざわいも十分に味わいつくし、外的な運命とともに、より真実な、偶然のものではない内的な運命をかちとることこそ人生における重要事であるとすれば、わたしの人生は貧しいものでもなく、悪いものでもなかった。外的な運命は、すべての人びとと同様にわたしの上をさけがたく、神々によって定められたままに過ぎ去っていったのだが、内的な運命は、わたし自身がつくりあげたものである。その甘さや苦さは、当然わたしのものであり、また、自分の内的な運命にたいする責任は、わたしひとりで引きうけるつもりである」(彌生書房刊『人生の知恵I ヘッセの言葉』)


 私たちは生きていくなかで、様々な出来事に巡り合い、悲喜こもごもの体験を重ねている。「外的な運命」とは、自身に訪れる種々の出来事の“積み重ね”である。 それに対して「内的な運命」とは、その出来事を自身の問題として、“意義づけ”“価値づけ”した、いわば“構成物”である。 


 大切にしていたものを失ったという事件は、それ自体では、「悲しみ」の体験であろう。しかし、そのことによって、より大切なものがあることに気づけば、自身の人生の上で、貴重な成長のチャンスとして位置付けられ、新たな価値を与えられるだろう。「内的な運命」とは、「外的な運命」として起こってきた出来事に価値を付与する創造的な営みの成果である。 


 それはヘッセがいう「神々によって定められたままに過ぎ去っていった」「外的な運命」に対して、自分の努力によって意味付けて「内的な運命」として創造し直すことである。 
 それはすなわち、勝手気ままな“運命”に対して“人間”が“勝利”することである。また、一人一人の人間が自らの人生を自分の手に取り戻し、自らの人生という舞台で主役になることである。

◆自己責任の原理―「自業自得」


 客観的な出来事の集積と主体的な体験の構成は分かちがたく密接に結びついているが、そこには大きな隔(へだ)たりがある。 人が「私の人生は……であった」と振り返るときの「人生」とは、この二つの運命のうち、「内的な運命」であろう。

 
 私たちが自身の人生を「外的な運命」に翻弄(ほんろう)されるままに任せるか否かは、どのような「内的な運命」を主体的に築いていくかに関(かか)わっている。  それ故、ヘッセがいうように「自分の内的な運命にたいする責任は、わたしひとりで引きうけるつもり」でいなければならない。 


 これは、まさに仏法で説く「自業自得(じごうじとく)」の原理である。  〈世間では自業自得は、“悪い行いが巡り巡って本人が苦しむ事態を招く”という意味でのみ使われる。しかし、仏法が元来示していた自業自得の原理は、悪行にとどまらず、すべての行いの結果を自身が必ず受けるという、いわば「自己責任」を明確にしたものである〉 


 また「業(ごう)」という言葉にしばしばもつ決定論的なイメージは誤った理解に基づくものである。 


 元来、「業」とは、「行い」「振る舞い」という意味である。  自らの善悪の振る舞いが自身の運命を決定づけるということは、とりもなおさず、自身の運命に対して自らが決定権をもっているということにほかならない。 


 「業」の思想は、人間が出あう「外的な運命」に対する主体的な関わりを示すものなのである。  

◆内なる生から問題の解決を―「内道」


 仏法は、万人の苦悩を解決し、ゆるぎない幸福の構築を目指すための教えである。 自身の人生を幸福なものにするためには、外から訪れた出来事にどのように関わっているのかを知らなければならない。そして、その出来事をどのようにとらえ、位置付けているかを知る必要があるだろう。 


 その上でこそ、問題を解決する方向性が見えるものである。 もちろん、外から襲いくる不幸な出来事をいかにして減らすかについて、その原因を究明し、その解決に取り組むことも、もちろん大切である。 


 仏教でも外なる環境の影響を受けながら主体者の人間が形成されると考える。人間と環境は相互に影響しフィードバックするシステムを形作っているのである。それ故、外なる環境の改善も自身の向上に不可欠である。  その上でなお、自身の責任と自覚で解決できることを知り、解決法を身につけておくことを、より大事と考えるのである。 
 外側の原因は一つ断ち切ってもまた別のものには別の原因があり、対処法も様々なものが必要である。 


 また複雑にからみあいながら広がっている環境世界は、常に移り変わり次々と新たな事態が私たちを襲う。しかも、構成要素に分解して対処する分析的手法では、複雑な全体としては問題が解決しないことが多々ある。しかも複雑な全体をそのまま扱うほど種々の知識・技術が発達していない。したがって私たちの対応は、常に後手後手になってしまう。 


 この方向では、最大の努力を払っていても、また最善の結果でも“いたちごっこ”でしかありえない。もちろん、その努力をし続けることは、人間と社会の向上の上で大切であることは決して否定するものではないが。 


 それに対して、「内なる運命」について深く知っていれば、何が起ころうともそれを受け止め、それを価値あるものへと高めていくことができるようになる。 何が起ころうともゆるぎない幸福境涯を築く道は、むしろ「内なる運命」の探究にあろう。 


 したがって、仏法が、人間の内なる生(生命・生活)を探究する道、すなわち「内道」を選び、「内なる運命」「業」の問題に取り組んだのは、卓見であろう。 


 環境に左右されず本質的に苦悩から解放されて自由自在に生きるには、自身を「強く、賢く」すること、言い換えれば価値ある生活を行うことができる生の活力という意味での生活力、生命力が大切だ――ということになる。 


 九識論は、環境と人間生命の関わりについて深く考察した仏教の理論である。  どのように外界の環境と関わるのか、また環境と関わりながらどのように人生を築いていくのかを考察し、そして苦悩の原因を探り、幸福への道を求めているのである。   

2. 「九識論」は人間の「心」を5つのレベルに分類


 生命の真実を明らかにし、人間が抱える苦悩の原因を見究め、苦悩を根本的に解決していくのが、仏の願いであり、仏教の目的である。九識論では、人間の「心」のはたらきを大きく(1)五識(2)第六識(3)第七識(4)第八識(5)第九識という五つのレベルに分けて探究している。ここでは、それぞれの関連と現代的意味を中心に順にみていきたい。


◆外界の感覚―「五識」


 まず、五識について見ていこう。  眼・耳・鼻・舌・身(皮膚)という五官(五根〈こん〉)が、それぞれ色(しき=色・形)・声(音声)などの対象(五境〈きょう〉)を感受して、それぞれに対応した眼識・耳識などの五識を生じる。 


 すなわち、外界の種々の刺激に応じて起こる「感覚」が、五識である。これは、刺激に応じるという、極めて受動的なはたらきである。 
 その一方、五官に障害があれば、外なる世界を受容する心のはたらきに制限が起こる。とはいえ、一つの心の窓が少しぐらい曇っていようとも、他の窓のはたらきや六識以降に広がる心のもつはたらきが確かならば、人格・人間性の発達に大きな問題はない。 


 ところが、ややもすれば、より深層の第六識・第七識・第八識の影響で、五識にひずみが生まれ、心がとらえる世界をゆがめてしまうのである。外を眺める窓が部屋のごみやほこりで汚れ曇り、それを通して見た世界が汚れているようなものである。この点については、後に詳しく見ていきたい。

◆リアリティーの認識―「第六識・意識」


 第六識のはたらきは、「意識」と呼ばれる。西洋の心理学の「意識」とは重なる面と異なる面がある。 


 第六識には、大きく分けて、(1)五識の影響をより内面でとらえ返すはたらきと、(2)五識と直接には関係のない自立的なはたらき(例えば、「夢を見る」「想像する」などのはたらき)がある。 

仮想も含むリアリティー 

 第六識「意識」では、認識する対象は、「法」と呼ばれる。「法」には、さまざまな意味があるが、ここでの「法」は「諸法実相」の「法」と同じく、“存在”“現象”という意味である。  ただし、存在・現象といっても、客観的・外在的なものではない。主体的・内在的なもので、人間の心が「リアリティー(生々しい実感)」としてとらえた「リアルな(ありありとした)もの」である。 


 この「内的なリアリティー」には、大きく分けて、外界に五官の対象となる客観的実体があるものと、ないものがある。ないものには、現代のハイテク(高度科学技術)を駆使した「ヴァーチャル・リアリティー(仮想現実)」から、古代からある「夢」や「空想」まで入るだろう。 


 いずれのリアリティーも認識されれば区別なく同じように心に影響を与え、大なり小なり生き方をも変えていく。この内的リアリティーを「法」と呼び、第六識の対象とする。   

リアリティーにも個人差 

 この内的リアリティーには「怒り」「喜び」「愛」「平等」などの抽象的な観念も含まれる。ただし、第六識の対象は、当人が直接・間接に体験した“あの時のああいう怒り”や“この時のこういう喜び”という、ありありとした具体的なものに基づく観念である。  抽象的といっても、普遍的・中立的なものというよりは、むしろ、厳密には当人が自らの体験から抽出してきた個人的・相対的なものである。無論、抽象化する際に一定の普遍性があるのだが、その抽出する際に、個人的要因をすべて免れることはできない。

 
 九識論は、この個人的要因に注目し、さらに深いレベルを探るのである。  

実践のための内的な因果論 

 このようにみてくると、仏法は、客観的な存在の実証にこだわらず、人間の生命・生活にどのような効果を生み出すかという実用性・実効性に重きを置いたプラグマティク(実用主義的)な面をもつことが分かる。どのような価値を生み出すかに関心が高い「価値論」の面があるのである。

 
 この側面は、今回、冒頭で述べたように、仏法が“人間の現実の苦悩の解決を目指す”「実践哲学」であることから来る必然なのである。 それ故、第六識における想像・推理も、純粋に客観的な真理に基づく科学的実証主義の論証とは異なる。 


 それは、いままで見たように、九識論をはじめ仏教思想は「内道」であり、客観的なできごとの集積である「外的な運命」ではなく、一人一人が主体的にとらえ価値づけ創造した「内的な運命」に関するものであるからである。 

 「心地観経」の 

「過去の因を知らんと欲せば其(そ)の現在の果を見よ未来の果を知らんと欲せば其の現在の因を見よ」 (御書231ページ)の文は、自身の運命を「主体的」に探究しようとして、その因果の考察の枠を今世に限らず、三世に広げるものである。 


 日蓮大聖人が 「凡夫なれば過去をしらず、現在は見へて法華経の行者なり又未来は決定として当詣(とうけい)道場なるべし、過去をも是を以て推するに虚空会(こくうえ)にもやありつらん、三世各別あるべからず」 (同1360ページ)


と仰せのように、普通の人間には実証的に三世を覚知することなどない。しかし、三世=永遠という枠組みで自身の「運命」を考察することが、目先のできごと=「外的な運命」に翻弄されることなく、人間が自身の運命を自分の手に取り戻し、「内的な運命」を創造し、自身がとらえ「再創造した世界」で、自身の「生きる意味」――「生きがい」「使命」といってもいいだろう――を獲得するのに重要なのである。

 
 仏法では、「宿業の認識」も「使命感」も、外在的・客観的な事実というよりも、むしろ内在的・主体的な「生命の次元での真実」なのである。 

◆自我へのこだわり―「第七識・末那(まな)識」 

 第六識までが自身の外側の世界を認識しようとするのに対して、自身の内面を深く見つめようとするのが、第七識の「末那(まな)識」である。 末那識は「我(が)」(アートマン)を特徴とし、西洋心理学でいう「自我」(エゴ)のはたらきと似た面がある。 


 「我」とは“不変の実体としての自分”である。私たちは「我」とその自分の所有である「我有(がう)」の拡大に、執着するのである。しかし、現実には、常にさまざまな人やものごとと出あい、それとかかわり合う中で、身も心も変化し続ける。このように、自身の実態はうつろいゆくものであり、「我」はない(無我)。 


 ところが、人間という存在は、ほとんどまず、「無我」に無知(我癡〈がち〉)で、「我」にこだわる見識(我見)をもち、虚妄(こもう)な「我」をたのんで、正しい法を求めない慢心(我慢)すら起こし、「我」に強い執着心(我愛)をもつのである。   

小さな自分の世界を作る 

 末那識はまた自他を分別し選びとる力(慧〈え〉)を特徴とする。自他の間に境界線を引き、自分の世界=「境界(きょうがい)」を作り、自分を守り、自分を拡大しようとする。境界とは、意識的にせよ無意識的にせよ、自身の手で築いた、「自分らしさ」に満ちた内的な世界である。 


 このように末那識は強烈な自己保存の欲望であり、それが苦悩の源であるが、その欲望自体を消し去ってしまうと自身を消し去ってしまうことになる。 


 かといって、この末那識に翻弄されている限り、小さな自身へのこだわりから、本当の「自分らしい自分」を見失い、本来の自分がもつ豊かな可能性を知らない。かえって「自分らしさ」が持つ広がりを押しつぶしたり、もっと普遍的な「人間らしさ」を忘れてしまうことさえある。 


 十界論でいえば、自らが作り出した「小さな自分」に閉じ込められ苦しみ怒っているのが、地獄の境界である。目先の欲望にとらわれているのが餓鬼(がき)界である。自身のために弱い他者を犠牲にするのが畜生界である。自身におごり人を見下し、虚栄で自身を飾るのが修羅(しゅら)界である。 


 “本当の自身を見失う”ということ、“自分と違う他人だから大切にしない”というのは、仏法では、「人間らしさ」を失った人間以下の存在と見る。   

慈悲の力が乗り越えるカギ 

 この小さな自分を乗り越えるには、「他人のかけがえのない尊さ」「他人の種々の苦悩」を“我がこと”としてとらえる力、「ありありと想像する力」「心豊かに共感する力」が必要なのである。 


 要するに「慈悲」の力が乗り越えるカギである。このことを知り、そして、そのカギが万人の生命に元来、具わっており、いつでもどこでも開き顕すことができる――こう、仏法は教える。ここには、人間への深い信頼がある。

◆経験の貯蔵庫―「第八識・阿頼耶識」

 前回、第七識である「末那(まな)識」が「我(が)」への執着を持っていることを見た。この「我」は第八識の阿頼耶(あらや)識とされる。 


 「阿頼耶」とは、サンスクリット(梵語)で「蔵」という意味である。行動、発言、思考・感情などの種々の行いはサンスクリットで「カルマ」と呼ばれ、「業(ごう)」と漢訳される。この「業」の情報を集積するのが「阿頼耶識」である。 現代風にいえば、種々の経験のトラウマ(痕跡〈こんせき〉)が心の奥底に刻まれている、ということになるだろう。

 
 強烈な体験をした人には、精神的トラウマが残り、人格形成や後の人生の幸不幸が左右されるという。   

行いの報いを生み出す側面 

 仏法の阿頼耶識に蓄えられる業の痕跡は、心身の振る舞いのすべてにわたり、決してなくならず、それぞれに応じた縁によって発現し果報をもたらす。


 たとえば、太ったり、やせたりしている体形は、その人の生活習慣や環境の影響を反映しているものである。精神面でも、それまでの生き方、経験、学んだことなどを反映して、その人の現在のものの見方、考え方が形作られている。 


 「阿頼耶識」とは、このような“行いの集積の結果としての自分自身”という側面と“その集積が熟成して果報をもたらす原因としての自分自身”という側面がある。   

はかない自身への執着 

 その自分自身は、時々刻々、積み重ねられる種々の精神・肉体の行為によって、常に変化している。さらに、その果報が現れてきて、変化が一層、大きくなっている。「暴流(ぼる)」にたとえられるように、固定的であるどころか常に大激動しているのである。  

 

ところが、第七識・末那識は、この「阿頼耶識」を自身の揺るぎない基盤のごとくとらえて執着し、むしろ、それがはかなくうつろいゆくことに苦悩する。 


 なお、今の自分を毛嫌いするのも、自分への執着の一変形である。そこには、自身が作り上げた理想の自分への執着があり、理想へと向かう自分への執着がある。  

変化するからこそ自由 

 仏法では、このように常に生成消滅していく自身に対する正しい対処法を示し、苦悩を解決し、より豊かな人生を構築するよう促すのである。 


 すなわち、自身は行いの集積なのだから、今の自分はどうであれ、これからの行いで変革し向上していける自由があるととらえ、失われていく価値をはかなく追い求めたり、さらには今の自分に安住したりすることなく、“新たな価値創造”へと向かうことが道理にかなった生き方である――こう教える。

 
 人生は一編のドラマのようなものである。 


 途中に種々の過ちや苦悩があっても、それを反省し克服し、むしろバネにして、最後には人々にも幸福をもたらすようになれば、ハッピーエンドの物語である。また逆に、最初は正しい道を歩み順調で人々にも慕われていても、途中でつまずいて変節してしまえば、自身も不幸である。のみならず、慕っていた人々をも迷わせ、不幸へと向かわせかねない。 


 「過去の業」に縛られることなく、常に「今から」「これから」と前向きな姿勢で、「過去の業」をも生かして豊かな人生を築くことが求められている。 

◆根源の生命エネルギー―「第九識・阿摩羅(あまら)識」 

 とはいえ、第八識・阿頼耶識に積み重なった深く厚い業を打ち破り、自由自在に自身の人生を築いていくことは、大変な労苦である。 


 生命を三世永遠の枠組みの中で自己責任を徹底して考えるなら、無限の過去から蓄積された悪業に匹敵する善業を同じく長遠な時間をかけて行ってはじめて、自身の境界を転換できることになる。しかも、その間、この悪縁多い世の中で、新たな悪業を積まないようにしなければならない。実に想像を絶する大変さである。 


 ただし、これは、第八識までを前提として組み立てた因果の道理である。 では、それを乗り越えるカギは何か――それが第九識・阿摩羅(あまら)識である。 阿摩羅とはサンスクリットで「汚れのない」という意味で、阿摩羅識は「根本清浄識」と漢訳される。 


 生命の最も奥底・中核には、この第九識があり、この根源の清浄な生命のはたらきを開き顕すことによって、生命を根底から変革できるとする。 


 「内道」である仏法では、「外なる神」などではなく、自身の生命の「内なるはたらき」が、「内的な運命」を切り開く原動力であると説くのである。 


 さらには、自身を幸福にする根源の力を得るために、無数の悪業を一つ一つ消し去りながら無数の善業を一つ一つ自身の内に積み重ねることも必要ないのである。

 
 第九識は、生命に本源的に具わる「生きる力」であり「よく生きる力」である。「自他を生かし、価値創造する“大生命力”“大生活力”」「自他を幸福にする力」である。  「自他を幸福にする力」とは、慈悲と智慧を兼ね備えた仏のはたらきである。それ故、第九識は「仏識」ともいわれる。 


 第九識は「九識法性(ほっしょう)」(御書826ページ)ともいわれる。法性とは“あらゆる存在・現象の本質”という意味である。九識こそが、生命そのものの本質である、と仏法はとらえるのである。 


 ということは「生命の本質は仏のはたらき」なのである。生命が本来、仏(覚者)のはたらきを具えていると知るのが九識なので、「九識本覚」(同808ページ)という。  あらゆる生命は仏になる根本因を自らのうちに具え、それを開き顕すことによって、「自他共の幸福」という根源の願いを実現できるのである。  

3. 「自覚」があらゆる「識」を智慧に転換

 この自身の生命の本質を自覚し、生命本源の願いに気づいた時、第八識までの次元にも変革が起こる。それが「転識得智(てんじきとくち)」である。 


 種々の業の蓄積によってものごとの本質を覆い隠していた第八識は“すべてのものの本質をありのままにみる”「大円鏡智」となり、万物は本質として仏であると知る。


 自他を区別し自我にとらわれた第七識は“あらゆるものが平等に尊厳で大切なものと見る”「平等性智」となり、他をも自分と同じ大切なものととらえ、小さな自我意識を打ち破る。 


 種々のリアリティーを認識する第六識は“あらゆるものがそれぞれにもつかけがえのない個性を正しく見る”「妙観察智」となり、それまでもっていた誤った先入観を捨て去ることになる。  五官による感覚である五識は、“成すべき行いを成し遂げる”「成所作(じょうしょさ)智」となり、五官を駆使し、「成すべき行い」即ち「自他ともの幸福の実現」という「仏の行い」(仏事、如来事)を可能にするのである。 

◆妙法に生ききった魂を鏡として

 生命の奥深く核心に迫る九識論は、第九識=仏界が生命の奥底・中核にあることが示されてこそ、その価値を発揮する。 


 「生命の本質は仏との自覚」という成仏の根本因である「妙なる法」を明かした経典――それが法華経である。 


 方便品では、あらゆる生命の本質が仏であり、生命に具わる仏界(仏知見)を開き、仏界を自覚し、仏界に基づいて生ききることこそ、苦悩の根本的な解決であると説いた。また寿量品には、「仏が常にあらゆる生命を仏道へと導き無上の幸福を得させたい」との永遠の仏の願いが示されている。

 
 日蓮大聖人は、寿量品の仏の願い、奥底の心が 
「無作本有(むさほんぬ)の南無妙法蓮華経の一念」 (同758ページ)
であると述べ、“あらゆる生命に本来的に具わる南無妙法蓮華経の心”であることを明かされている。 


 日蓮大聖人は、「自他ともの幸福の実現」のために、この妙法を文字通り命を賭(と)して弘(ひろ)められた。とともに 


「日蓮がたましひ(魂)をすみ(墨)にそめながして・かきて候ぞ信じさせ給へ、仏の御意(みこころ)は法華経なり日蓮が・たましひは南無妙法蓮華経に・すぎたるはなし」 (同1124ページ)


と記されているように、あらゆる困難を克服して自他ともの幸福を実現する妙法に生ききる自身の「内的な世界」をそのまま漫荼羅(まんだら)に図顕し、人々が信ずべき本尊として与えられたのである。 


 この御本尊は、一人一人の内なる九識=仏性、仏界を映す鏡であり、開き顕すカギなのである。   

 

◆根源の願いが大生命力を

 この御本尊を信受し、生命に具わる根源の願いである「自他ともの幸福の実現」を「我が心」とする時――それは、自身を含めてあらゆる生命の本源の願いにかなった生き方を貫く時である。 


 それ故、その時にこそ、目先のできごと=「外的な運命」に圧迫・翻弄されることなく、人間が自分の手で「内的な運命」を創造し、自身がとらえ「再創造した世界」で、自身の「生きる意味」(生きがい、使命)を獲得できるのである。


 “いろんなことがあった。けれども、いや、だからこそ、楽しかった”と一生を振り返り、“これが人生なのか、ならばもう一度”と、この苦楽ともに満ちた世界に遊楽するために次もまた生まれてこよう、と思えるのである。 


 池田名誉会長は、仏法の真髄について、『法華経の智慧』でこう語っている。 

 「仏教の真髄は、何かに頼るものではない。自分自身が、自分自身の決意と、自分自身の努力で、自分自身を開いていくのです。(中略)観念論ではない。何かにすがる、弱々しい生き方ではない。かといって、“我、尊し”と傲(おご)る利己主義でもない。自分の中の『大いなる生命力』を信ずることは、万人の中の『大いなる生命力』を信ずることと一体です。自分を大切にし、同じように、人を大切にしていくのが仏法です」 (第4巻44ページ)と。 

 
以上