心の病で脳に何が起きているのか

大白蓮華 科学と生命のフリートーク


医学博士  松田芳樹さん創価大学工学部生命情報工学科 助手  

 

近年、脳科学が急速な進歩を示し、脳科学の切り口から心の病が多く語られるようになってきた。心の病についてはまだ不明な点が多いが、脳科学の側面から「心の病」、中でも「うつ病」を中心に探っていきたい。        

「心の病」が起こっている時、いったい脳にはどんなことが起きているのでしょうか。

松田 コンピューターが電気信号のやりとりによって情報を伝達するのに対して、脳内における神経ネットワークでは、神経細胞と神経細胞とが互いに「神経伝達物質」というボールでキャッチボールをすることにより、情報を伝達させているのです。ところが、この神経伝達物質のやり取りに何らかの"乱調"が生じると、心の病が起こりやすくなるのではないかと考えられているのです。

どうして、そのようなことが分かってきたのですか。

松田 例えば、高血圧治療のために開発されたレセルピンという薬は、副作用としてうつ状態をもたらすことが知られていました。そこで、動物実験でレセルピンがもたらす作用について調べてみたところ、脳内のモノアミン系の神経伝達物質を枯渇させることが分かったのです。そつため、うつ病が起こる背景には、脳内のモノアミンが何らかの原因で減少しているのではないかという仮説が立てられたのです。

その「モノアミン」という神経伝達物質どのようなものなのでしょうか。

松田 現在まで、多くの種類の神経伝達物質の存在が報告されています。その中でモノアミンは認知や情動などに深く関わっている神経伝達物質のグループです。そのモノアミンの量が増えすぎたり、減りすぎたりすることで、脳内のバランスが崩れると考えられているのです。

なるほど。そのバランスの崩れがもととなって、感情をうまくコントロールできなくなったり、やる気が起きなくなったり、何をやっても虚しさが込み上げたりするのですね。すると、うつ病を抑えるためには、脳内のモノアミンを正しくコントロールする薬を与えればいいのですか。

松田 実はそれほど簡単ではないのです。モノアミン欠乏説もあくまでも仮説に過ぎません。抗うつ剤が働くメカニズムも、実際のところ、まだよく分かっていないのです。
 また、モノアミンの欠乏だけがうつ症状の原因なのではありません。例えば、更年期障害でホルモンバランスが崩れることによってうつ状態が見られることもあります。その場合には、ホルモン療法を行うと改善が見られます。したがって、抗うつ剤がすべてのうつ症状に効くわけではないのです。

「心理的ストレスは慢性化しやすい」 

       
神経伝達物質の"乱調をはじめとする脳内の異常が「心の病」を引き起こす原因の一つと考えられているようですが、問題なのは、なぜ脳内にそのような異常が生じたかです。例えば、よく言われるように理ストレスが脳内の異常を引き起こしているのでしょうか。

松田 私たちの脳は、さまざまな"刺激(ストレッサー)。に日常的に反応しています。光や音、心理的な刺激などがそれです。通常、脳内におけるストレス反応は正常に機能しているわけですが、それが異常化してしまうのは、ストレス反応が"一時的な反応。から"慢性的な反応。へと変化してしまうからではないかと思われます。

 

このことを裏付けた実験があります。2匹のラットのうち、1匹には霜の中で電気ショック(物理的刺激)を与え、もう1匹には、電気ショックを与えない代わりに、箱の中で電気ショックを受けているラットの様子が見えるようにしておきます(心理的刺激)。この実験を数日間連続して行います。すると、電気ショックを受けたラットは、一時的な神経伝達物質の増加にとどまりますが、電気シ目ツクを加えられたところを見ていたラットは、神経伝達物質の量が次第に増加する傾向を示したのです。

身体的なストレスよりも精神的なストレスの方が慢性的な反応を招いてしまうということなのですね。

  
松田 少々、飛躍するかもしれませんが、過去の嫌な出来事に対する心理的応答は、神経伝達物質の異常な増減を引き起こす可能性が考えられます。こうした神経伝達物質の"乱調は、うつ病を発症する一つの要因になります。

      
 「脳がもっている柔軟性は「桜梅桃李の生き方の中で発揮される」

最近は、遺伝子と心の病の関係が注目されているようですが。

松田 これまでの研究では、うつ病を含んで総称される「気分障害」のうち、特に双極性障害(躁うつ病)の発症に遺伝的要因が強いという意見が支持されています。しかし、気分障害の発症に関わる特定の遺伝子が見つかっているわけではありません。

ある調査では、うつ病の遺伝的要因を持っている家系の双子と、そうではない家系の双子とでは、ストレスの伴う環境にいない場合には、その発症率に違いは見られませんが、大きなストレスを伴う環境にいる場合には、遺伝的要因が発症のリスクを約2倍にするという報告もあります。

では、心の病の発症に対して、遺伝子はどのように関与しているのでしょうか。

松田 本来、正常だったいくつかの遺伝子が欠落したり、その働きが異常になったりすることで、おそらく心の病の発症につながっていくのではないかと推測され支す。つまり、単一の「うつ病遺伝子」のようなものが存在するというのではなく、複数の遺伝子がその発症に関与しているのではないかと考えられるのです。

つまり、心の病の発症には、先天的な遺伝子の影響に加えて、後天的な環境の影響が強いということですね。

松田 うつ病というと、つい何らかの原因があって発病すると考えがちですが、はっきりとした原因が見つからないという場合も少なくありません。また、周りの環境そのものが発症の原因というよりも、むしろ、その環境をどう捉えているか、という「認知」の仕方によって脳の反応も違ってくることが予想されるのです。

心の病を引き起こす脳のメカニズムを知ることで、私たちは心の病にどう向きあえばいいのでしようか。

松田 脳の神経細胞には、体験を通して神経回路の組み換えや再構成を行う性質、すなわち、"可塑性(かそせい)が備わっています。"可塑性。とは粘土のように、力を加えれば柔軟に変形する性質のことです。

心の病は、その可塑性が弱くなり、神経活動が固定している状態ともいえます。御書には「一人一日の中に八億四千念あり」(P471)とあり、生命は本来変化し続ける当体であることが説かれています。            

 

心の病が、脳活動の"固定化や神経伝達物質の"乱調"によるもののだとすれば、それらをどう転換していくかが重要になってきます。裕福に成りたい、責任ある立場につきたい、などの相対的な幸福を追求する事は間違っていません。しかし、そうしたことが達成できなければ自分は不幸であるといったように、「条件付き」の幸福に執着し過ぎてしまえば、脳活動の固定化を招いてしまいます。

 自身の生命にある、条件付きではない絶対の幸福境涯である仏界に目覚めることに尽きるのではないでしょうか。その取り組みの中で、生命の奥底にある力強く清浄な第九識の生命が開き、変化変化の連続である表層の生命の働きが、最高の"可塑性。として発揮されるのではないかと考えます。

脳が持っているフレキシビリティー(柔軟性)を取り戻すことが大切なのですね。

松田 「心の病についてどう考えているか」というアンケート調査がアメリカで行われ、「心の病にかかったのは罪深い行いの結果である」という言葉が選択肢として挙げられていました。思わぬ落とし穴がここにあるように思えてなりませんでした。

仏法で説く宿命転換の本当の意味が重要性を帯びてきているのです。宿命転換とは、すべては「願兼於業」であり、"必ず転換できるのだ。ということを伝えるための「希望の哲学」なのです。決して業に"引き戻す。ことが目的ではないからです。そして、それは今の自分を大切にした生き方に通じていくはずです。

私たちの脳では、千数百億もの神経細胞が互いに連絡しあい膨大なネットワークを形成しています。一つの神経細胞が活動する音を実験で聞いたことがあるのですが、まるで夏の花火のように力強く、リズムの良い美しい音でその存在を伝えてくれます。それが千数百億も集まったらどうなるだろうと考えると、その時、脳内は壮大なシンフォニーを奏でていることに気づきます。

一度に多くの神経細胞が"同時に活動しすぎると、脳内は異常活動に転じてしまいます。個々の神経細胞が個性を発揮しつつ、その使命を果たす。まさに、わたしたちが一桜梅桃李一の生き方を貫くなかに、脳内の乱調を調和へと転ずる鍵があるのではないでしょうか。

医学博士  松田芳樹さん創価大学工学部生命情報工学科 助手