新・人間革命「命宝の章」/No1~19

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この世で最も尊厳な宝は、生命である。 それゆえに「命宝」と言う。 「観心本尊抄文段」には「夫れ有心の衆生は命を以て宝と為す。一切の宝の中に命宝第一なり」(注)とある。 
生命を守ることこそ、一切に最優先されなければならない。本来、国家も、政治も、経済も、科学も、教育も、そのためにあるべきものなのだ。「立正安国」とは、この思想を人びとの胸中に打ち立て、生命尊重の社会を築き上げることといってよい。    一九七五年(昭和五十年)九月十五日、山本伸一は、東京・信濃町の学会本部で行われた、ドクター部の第三回総会に出席した。ドクター部は、医師、薬剤師らのグループである。伸一がドクター部の総会に出席するのは、これが初めてであった。 
ドクター部が結成されたのは、七一年(同四十六年)九月のことであった。仏法を根底にした「慈悲の医学」の道を究め、人間主義に基づく医療従事者の連帯を築くことを目的として、発足した部である。 
このころ、医療保険の改正をめぐって、厚生省と日本医師会の対立が続いていた。その背景には、医療費の急増があった。 
当時の診療報酬の体系では、医師の医療技術は、ほとんど評価されず、診療報酬の大部分は、薬代、注射代などが占めていた。それが結果的に、薬漬け、検査漬けと言われる医療に拍車をかけ、医療費の増大という事態を生む、要因となってきたのである。 
そこで、厚生省は、医療費急増の打開策として、医療費を引き上げるのではなく、診療報酬体系を見直そうとした。 
すると、医師会は「医師の犠牲のもとに低医療費政策を押しつけるもの」と猛反発し、遂に、この年の四月、保険医総辞退の方針を決議したのだ。 
そして、七月、大多数の医師が、組合管掌健康保険など、被用者保険の保険医辞退に突入したのである。 
引用文献 注 『日寛上人文段集』聖教新聞社

 

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 国民健康保険は、医師の保険医辞退の対象ではなく、標的となったのは、賃金労働者の健康保険である被用者保険であり、なかでも、組合健保であった。そのため、多くのサラリーマン家庭が深刻な影響を受けたのである。 
 被用者保険の加入者と、その被扶養者は、医師にかかると、まず、全額、現金で支払い、領収書を社会保険事務所や健康保険組合に提出し、払い戻しを受けることになる。 
 それだけでも煩雑なうえに、組合健保については、現行料金から値上げされた、医師会が定める“新料金”が請求された。この差額は患者の自己負担となる。 
 それによって、病気になっても、金銭的な問題から、早期受診を控える人もいた。また、治療を中断せざるをえない人も出た。 
 一九七一年(昭和四十六年)七月半ばには宮城県で、息子夫婦に医療費の過重な負担がかかることを苦にして、息子の被扶養者になっていた老婦人が、自殺するという悲惨な出来事が起こっている。 
 すべての国民が、医療保険に加入し、その適用を受ける国民皆保険は、日本の社会保障制度の根幹をなすものであった。それを根底から揺るがす医師会の対応である。 
 医師会側は医療制度の抜本的な改革を主張しており、政府がそれに応え切れていないことも事実であった。しかし、国民の生命を人質に取るような結果になったことから、医師会は、人びとの怒りを買うことになった。 
 保険医辞退は、政府と医師会で合意が成立し、一カ月で終わったが、医師会は、医療費の大幅引き上げ等を要求。事態は、難航し続けていたのである。 
 山本伸一は、そうした状況を見ながら、医師の良心という問題を、考えずにはいられなかった。彼は思った。 
 “人命を預かる医師という仕事は、聖職である。医療制度の改革も重要である。しかし、それ以上に、医師が生命の尊厳を守ろうとする信念をもち、慈悲の心を培うことこそ、最重要のテーマではないか……” 

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 「医師などの医療従事者のグループとして、文化本部にドクター部を結成しよう」 
 山本伸一が、こう提案したのは、医師の保険医辞退で社会が混乱していた、一九七一年(昭和四十六年)の七月のことであった。 
 それまで、医師らは学術部に所属してきたが、九月の第二回学術部総会の席上、新たに医師、歯科医師、薬剤師らで構成される部として、ドクター部が誕生したのである。 
 伸一は、医学界の現状を深く注視していた。 
 医術は人命を救う博愛の道であるとして、「医は仁術なり」と言われてきた。しかし、それをもじって、 「医は算術」などと揶揄されるほど、一部の医師の“利潤追求”は、目に余るものがあった。 
 また、「患者不在の医療」との指摘もあった。「医師に苦痛を訴えても、真剣に聴いてくれない」「病院では、検査漬けで、モノとして扱われているようだ」「治療法や薬の詳しい説明もなく、大量に薬物投与される」という声も少なくなかった。乱診乱療の傾向を、多くの人びとが痛感していたのである。 
 そうした現代医療のひずみは、医療制度の問題だけではなく、医師のモラルや生き方にも、大きな要因があろう。 
 伸一は、本来、医療の根本にあるべきものは、「慈悲」でなければならないと考えていた。「慈悲」とは、抜苦与楽(苦を抜き楽を与える)ということである。一切衆生を救済せんとして出現された、仏の大慈大悲に、その究極の精神がある。 
 日蓮大聖人は「一切衆生の異の苦を受くるは悉く是れ日蓮一人の苦なるべし」(御書七五八ページ)と仰せである。あらゆる人びとのさまざまな苦しみを、すべて、御自身の苦しみとして、同苦されているのである。 

 医療従事者が、この慈悲の精神に立脚し、エゴイズムを打ち破っていくならば、医療の在り方は大きく改善され、「人間医学」の新しい道が開かれることは間違いない。 
 いわば、医療従事者の人間革命が、希望の光明になるといってよい。 

 

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 山本伸一は、医師のメンバーと会う機会があると、「慈悲の医学の体現者たれ」と励まし続けてきた。 
 ドクター部では、その伸一の激励に応えるために、自分たちに何ができるのか、協議を重ねた。そして、住民の無料健康相談を行う「黎明医療団」を組織し、医師のいない地域などに、派遣することにしたのである。 
 「私たちに必要なものは何でしょうか。すべての根底に高い主義をもつことです」(注)とは、ナイチンゲールの言葉である。「高い主義」から気高き実践が生まれるのだ。 
 メンバーには、未来を嘱望されている大学病院の医師や博士も多い。その人たちが、辺地に赴いて、無料で健康相談にあたろうというのである。 
 その報告を聞いた、伸一は言った。 
 「尊いことです。菩薩の姿です。学会は、一人ひとりの生き方のなかに、その菩薩の心と実践が体現された社会をつくろうとしているんです。ドクター部の皆さんは、その先駆者になってください」 
 ドクター部、そして、看護婦(現在は看護師)からなる白樺グループの有志らによる「黎明医療団」が、最初に派遣されたのは、ドクター部の結成から七カ月後の、一九七二年(昭和四十七年)四月であった。 
 ――間近に、緑の山並みが見え隠れしていた。もうもうと土埃を上げながら、田んぼのなかのデコボコ道を、十数台の車が進んでいった。乗っているのは、医師、検査技師、看護婦など、六十一人の黎明医療団である。 
 一行が到着したのは、宮城県加美郡宮崎町(当時)にある小学校であった。ここが無料健康相談の会場である。交通手段は、一日八便のバスしかないという場所であった。 
 会場の入り口では、地元住民の代表が、満面に笑みを浮かべて出迎えてくれた。 
 「わざわざおいでいただき、ありがとうございます。この辺りでは、健康相談の機会は、ほとんどないものですから、みんな、喜んで待っておりました」 

引用文献 注 『ナイチンゲール書簡集』浜田泰三訳、山崎書店 

 

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 「黎明医療団」のメンバーは、無料健康相談の会場となった小学校で、すぐに白衣に着替え、手際よく、準備を整えた。 
 会場には、朝早くから、人びとが詰めかけており、相談開始の午前九時には、既に五十人ほどが待機していた。 
 訪れた住民は、まず、尿検査をはじめ、身長や体重、血圧などの測定を受け、待合室となった裁縫室で順番を待つ。 
 その間、各専門医から健康管理や食生活などについての話を聴く。日常生活で起こりやすい怪我についても、出血した場合や、火傷、骨折など、それぞれの応急処置の説明が行われた。皆、真剣な顔で話に耳を傾けていた。 
 各教室では、内科、外科、婦人科、耳鼻咽喉科、歯科などに分かれ、三十人余の専門医によって、健康相談が行われた。 
 住民のなかには、健康保険証を出し、恐る恐る料金を尋ねる人もいた。 
 「この健康相談は、すべて無料です」と答えると、「ありがたい」と言って、何度も頭を下げた。また、「おらの体、どうでがす?」と不安そうだった人が、「特に心配はありませんよ」と言われ、安心して、ニコニコしながら帰っていく光景も見られた。 
 体の異常や病気が発見された場合には、よく説明し、病院に行くよう説得に当たった。 
 医師をはじめ、スタッフは、交代で、急いで食事をする以外は、休憩も取らなかった。 
 午後六時の終了までに、四百五十一人が健康相談に訪れた。 
 住民は、各専門医に相談できたこと、とりわけ、医師たちが笑顔で優しく、親身になって相談に乗ってくれたことが嬉しかったようだ。また、さまざまな病の予防方法などについて、わかりやすく、情熱を込め て訴える姿に、感動したという。 
 メンバーは“健康になってほしい”“幸せになってもらいたい”との、祈りにも似た思いで、相談を担当した。真剣にして誠実な一念から発する言葉は、人の胸を打ち、心の共鳴を広げずにはおかないのだ。 

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 「黎明医療団」は、その後も、奈良県・川上村や熊本県・波野村(当時)、北海道・厚田村(当時)、沖縄県・国頭村など、各地に赴き、無料健康相談を重ねていった。その数は十年間で、百二十回に達している。 
 この活動には、学会のドクター部以外の医師たちも、共感、賛同し、加わるようになっていった。多い時には、医師の半数近くが、そうした協力者であることもあった。 
 ドクター部のメンバーは、自分たちの進めている運動に、自信と誇りをもち、なぜ、「黎明医療団」を組織し、無料健康相談を行うのかを、語っていったのだ。 
 ドクター部員には、医師としての気高き「良心」があった。大いなる「理想」と「確信」があった。その魂に触れ、多くの医師たちが、生命を揺さぶられ、賛同していったのである。対話とは、魂による魂の触発なのである。 
 慈悲の医学の体現者たる使命を自覚した、ドクター部員の活躍は目覚ましかった。 
 それぞれの職場にあっても、各人が人間的な医療の在り方を探求していった。体に負担の少ない治療法の研究に取り組む人もいれば、病院の環境改善に力を注いだ人もいた。 
 さらに、健康セミナーの講師や、仏法と医学についての講演なども積極的に引き受け、地域にも、広宣流布の運動にも、大きく貢献していった。 
 また、メンバーは、慈悲の医学をめざすには、仏法の人間観、生命観を深く学ぶ必要があると痛感し、一九七三年(昭和四十八年)からは、ドクター部の教学勉強会も行われた。 
 山本伸一も、ドクター部の育成には、ことのほか力を注いだ。代表と、何度となく懇談もした。 
 そのたびに、メンバーからは、「安楽死に対する見解」や「新薬に対する基本的な考え方」「人工中絶を仏法者として、どうとらえるべきか」など、質問が相次いだ。 
 どの質問も、難解で複雑なテーマであったが、伸一は、仏法の生命観のうえから、考え方の原則を示していったのである。

 
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 医学は、諸刃の剣ともなる。多くの人びとの生命を救いもするが、副作用をはじめ、さまざまな弊害を生みもする。特に、医師をはじめ、医学にかかわる人たちが、誤った生命観に陥れば、医療の大混乱を招くことにもなりかねない。 
 それだけに、正しい生命観を究めていくことは、必要不可欠な医師の要件といえよう。 
 生命を、最も深く、本源から説き明かしているのが仏法である。したがって、仏法を研鑽し、その教えを体現していくことは、医師としての先駆の探究といってよい。 
 山本伸一は、ドクター部をはじめ、全同志が、仏法の生命哲理を研鑽していく手がかりになればと、教学理論誌『大白蓮華』で、一九七二年(昭和四十七年)の十月号から七三年(同四十八年)の十二月号まで、てい談「生命論」を連載した。てい談の相手は、医学博士と教学部の幹部である。 
 そこでは、色心不二、依正不二、三諦、一念三千などが、現代医学や科学、社会現象などに即して、さまざまな角度から論じられていった。 
 また、伸一は、仏法の生命哲理を広く世界に伝えようと、七二年(同四十七年)五月、イギリスでのアーノルド・J・トインビー博士との対談では、東洋医学と仏法についても語り合った。 
 さらに、翌年十一月には、トインビー博士から紹介された、細菌学の権威であるアメリカのロックフェラー大学のルネ・デュボス教授と日本で会談。人間の生死の問題などについて話し合った。 
 人から人へ――その対話と共感の広がりのなかに、人間主義の新しい潮流がつくられていく。何人の人と会い、どれだけ胸襟を開いた語らいができたかが、「生命の世紀」を開く力となるのである。 
 こうした語らいにあたって、伸一は、懸命に医学の勉強にも取り組んだ。彼は常に学ぼうとしていた。新しき挑戦が、新しき幕を開くからだ。 

語句の解説  ◎色心不二など/色心不二の「色」とは色法で、肉体・物質をいう。「心」は心法で、精神・性分などをいう。仏法では、生命の真実は、色法と心法が「不二」(二つととらえられるが、根底的には一体である)と説く。  依正不二とは、生命活動を営む主体である正報と、その身がよりどころとする環境・国土である依報が不二であること。  三諦とは、一切の事象の真実のすがたを、「空諦」「仮諦」「中諦」の三つの次元でとらえたもの。  一念三千とは、衆生の一念に三千の諸法(現象世界のすべて)が具わること。

 
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 ある時、山本伸一は、ドクター部の代表と懇談した。メンバーの一人から、難病の治療法の研究に、日々、悩みながら取り組んでいるとの報告があった。 
 「尊いことです。それは菩薩の悩みです。難解極まりない問題だけに、絶望的な気持ちになることもあるでしょう。しかし、諸仏の智慧は甚深無量です。私たちは、その仏の智慧を、わが身に具えている。信心を根本に、真剣に挑み抜いていくならば、解決できぬ問題はない。大事なことは、使命の自覚と、粘り強い挑戦です。私も題目を送ります」 
 伸一は、常にドクター部の友の成長を祈り続けていた。 
 一九七四年(昭和四十九年)二月、東京・新宿区内で開催された、ドクター部の第一回総会の折には、伸一は千葉県を訪問中であった。その渦中、彼は、小松原でメッセージを口述し、創価学会の厳護を頼んだ。 
 また、この年の十二月に、大阪で行われた第二回総会のメッセージには、こう綴った。 
 「医学の分野に、慈悲の赫々たる太陽光線を差し込む作業は、単なる社会の一分野の改革にとどまるものではない。生命を慈しみ、育て、羽ばたかせる思想が、人びとの心の隅々にまで染み込んだ時、初めて現代文明が、機械文明から人間文明へ、物質の世紀から生命の世紀へと転換され、人類が光輝ある第一歩を踏み出すのであります。 
 皆さん方は、一人ひとりが、その重要な使命と責任をもった一騎当千の存在であります。いな、そうなっていただかなければ、私たちの未来はないとさえ言える」 
 伸一の期待は、限りなく大きかった。 
 日蓮大聖人御在世当時、鎌倉の門下の中心になっていたのは、武士で医術に優れた四条金吾であった。彼が、あらゆる迫害をはねのけ、信心の勝利の実証を示したことで、どれほど門下が、勇気と自信を得たことか。一人の勇敢な戦いが、全体の勝利の流れを開く。 
 “ドクター部よ、現代の四条金吾たれ!” 
 それが、伸一の心からの叫びであった。 

命宝9 

 四条中務三郎左衛門尉頼基、すなわち四条金吾が、日蓮大聖人に帰依したのは、青年時代とされている。彼の偉大さは、単に医術に優れていただけでなく、生涯にわたって師匠である大聖人を守り、師弟の道を貫き、広宣流布の大願に生き抜いたことにある。 
 文永八年(一二七一年)九月十二日、大聖人が頸をはねられんとした、竜の口の法難でも、不惜身命の行動を貫いている。 
 深夜、大聖人が、四方を兵士たちに取り囲まれ、処刑の場に連れて行かれたとの連絡を聞くと、彼は直ちに駆けつけ、馬の轡に取りすがり、お供をしたのである。 
 四条金吾は、大聖人が、もし頸をはねられるならば、自分も、共に殉ずる覚悟であった。 
 その生き方には、鎌倉時代の武士という時代的な背景がある。 
 大事なことは、「まことの時」に、弟子として、いかなる行動をとるかである。 
 わが身に危険が及ぶのを恐れて、傍観するのか。死をも覚悟し、師匠と共に戦おうとするのか――そこに、本当の師弟たりえるかどうかの、分岐点がある。 
 もし、四条金吾にためらいがあり、直ちに行動できずにいたならば、刑場に引かれる大聖人のお供をすることはできなかった。「遅参其の意を得ず」である。臆病の殻を打ち破る勇気の実践が、師弟の大道を開くのだ。 
 大聖人は、終始、四条金吾の心の奥底を、その行動を、じっと見すえていた。 
 落涙する弟子を、師は叱咤し、励ます。 
 「不かくのとのばらかな・これほどの悦びをば・わらへかし」(御書九一三ページ) 
 大聖人の胸中には、命に及ぶ大難に遭い、法華経をわが身で読むことができる大歓喜が、あふれていたのである。 
 師匠の、その巍々堂々たる大生命を仰ぎ見て、四条金吾の生命もまた覚醒していった。 
 そして彼は、竜の口の頸の座に「光り物」が現れ、処刑が失敗し、大聖人が御本仏としての本地を顕される発迹顕本の場に、立ち会うことになるのである。 


語句の解説  ◎発迹顕本/「迹を発いて本を顕す」と読む。仏が仮の姿(垂迹)を開き、その真実の姿、本来の境地(本地)を顕すこと。 

命宝10 

 四条金吾の生き方に一貫しているのは、勇気と誠実であった。 
 文永九年(一二七二年)、「二月騒動」が起こる。 
 執権・北条時宗の命によって、京都にいた異母兄の時輔が、謀反を企てたとして、討たれたのである。さらに、それに先立って、時輔に与したとして、鎌倉で、名越時章・教時の兄弟も討たれている。 
 四条金吾が仕えた主君の江間(名越)光時は、時章・教時の兄であった。 
 「二月騒動」の折、四条金吾は、江間氏の本領がある伊豆にいたが、主君の身を案じて、急遽、鎌倉に駆けつけた。この時も彼は、主君にもしもの事があれば、自分も自害する決意で馳せ参じたのである。 
 幸いにして、江間氏は事なきを得、事態は収束に向かっていった。 
 四条金吾の、この必死の行動は、一旦事あらば、主君のために一切をなげうとうとする彼の忠義と、勇敢にして誠実な人柄を示すものといえよう。 
 十八世紀のイギリス・スコットランドの詩人ロバート・バーンズは、誠実な人間こそが「人間の王者なのだ」(注)とうたっている。 
 四条金吾は、師の日蓮大聖人に対しても、主君に対しても、誠実に仕え抜いたのだ。 
 不誠実は、人の信頼を裏切るばかりでなく、自身の心に、悔恨の暗い影を残す。誰に対しても、何事に対しても、自分は誠実に行動し抜いたと、晴れやかに胸を張れる、日々の生き方のうえに、人生の勝利はある。 
 「二月騒動」が起こった文永九年の二月、日蓮大聖人は流罪の地・佐渡にあって、人本尊開顕の書である「開目抄」を著される。 
 四条金吾は、大聖人の安否を気遣い、心を痛め続けてきた。そして、供養の品々を、佐渡の大聖人のもとに送った。大聖人は、その使者に、「開目抄」を託されたのである。 
 烈々たる御本仏の大確信と御決意が綴られた「開目抄」を、四条金吾は、感涙にむせび、身を震わせながら、拝したにちがいない。 


引用文献  注 バーンズ著「それでも人は人」(『ロバート・バーンズ詩選集』所収)ジン社(英語)

 
命宝11 

 「開目抄」をいただいた四条金吾は、はるばると山海を越えて、鎌倉から、佐渡の大聖人を訪ねた。込み上げる歓喜に、居ても立ってもいられなかったのだ。主君に仕える身でありながら、流罪された大聖人を訪ねることは、容易なことではなかったはずである。 

 大難という烈風は、欺瞞の信仰者の仮面をはがす。誰が、真の信仰者か、本当の弟子かを明らかにしていくものだ。 

 真正の弟子・四条金吾を迎えた大聖人のお喜びは、いかばかりであったか。大聖人は、その後の御手紙で、こう励まされている。 

 「強盛の大信力をいだして法華宗の四条金吾・四条金吾と鎌倉中の上下万人乃至日本国の一切衆生の口にうたはれ給へ」(御書一一一八ページ) 

 ――武士や医師として、その責務を全うするだけではなく、法華宗、すなわち日蓮大聖人門下の四条金吾として、日本中の人びとから、賞讃される人物になりなさいと言われているのだ。 
 自分という存在の、最も根源的な意味は、末法の一切衆生を救済するために出現した地涌の菩薩であるということだ。それが法華経の思想である。武士であることも、医術に秀でていることも、自分が本源的な使命を果たしていく、一つの側面にすぎない。 

 武士や医師として、名声を得ることも大事であろう。しかし、どんなに賞讃されようが、地涌の菩薩としての広宣流布の使命を忘れ去ってしまえば、所詮は、砂上の楼閣を築いているにすぎない。本末転倒の人生である。 

 大事なことは、広宣流布に生き抜き、そして、武士や医師としても、人格、技量ともに立派であると言われる人になっていくことである。ゆえに、大聖人は、「法華宗の四条金吾……」と言われたのである。 

 常に、どこにあっても、大聖人の弟子と名乗り、胸を張れるか。現代でいえば、創価学会員として胸を張り、その使命に生き抜き、それぞれの道にあって、賞讃を勝ち取ることができるかどうかが、勝負となるのだ。 

命宝12 

 日蓮大聖人は「法華宗の四条金吾……」(御書一一一八ページ)と述べられる前の個所では、「法華経の信心を・とをし給へ・火をきるに・やす(休)みぬれば火をえず」(同一一一七ページ)と持続の信心を強調されている。 
 火を生み出すためには、間断なく、木と木を擦り続けなければならない。途中で気を抜いて手を休めれば、それまでの努力は水泡に帰してしまう。火を起こすまで、ますます勢いよく、作業を続けるしかない。 
 持続といっても、重要なのは、事が成就する最終段階である。 
 イギリスの劇作家のシェークスピアは、こんな言葉を残している。 
 「すべてを決するのは最後だ」(注1) 
 また、ドイツの作家トーマス・マンは、警鐘を鳴らした。 
 「最後に勝利が確定するまで油断は禁物です」(注2) 
 さらに、フランスの文豪ビクトル・ユゴーは、こう記している。 
 「戦闘の最後の勝利は、つねにもぎとるようにしてかちえられるものなのだ」(注3) 
 大聖人は、将来、四条金吾の身に迫害が起こることを、予見されていたかのように、信心を貫き通すことを訴えられたのである。 
 大聖人が佐渡から帰られ、既に身延に入られた文永十一年(一二七四年)九月、四条金吾は、主君の江間氏を折伏する。江間氏は念仏を信仰し、極楽寺良観を信奉していた。 
 そのため、四条金吾の忠義から発した折伏は、主君の不興を買い、さらには、同僚からも迫害されることになる。 
 そして、建治二年(一二七六年)には、遠い越後の地へ、所領を替えるとの、主君の内命が下ったのである。現代でいえば、左遷にあたろうか。 
 いよいよ、四条金吾にとって、人生の正念場ともいうべき、大試練が始まるのだ。 
 苦闘の峰を越えずして勝利はない。峰が高く険しければ、辛労も激しい。しかし、その峰を登攀すれば、洋々たる未来が開かれる。 


引用文献  注1 「トロイラスとクレシダ」(『シェイクスピア全集II』所収)小田島雄志訳、白水社  注2 『トーマス・マン 日記 1944―1946』森川俊夫・佐藤正樹・田中暁訳、紀伊國屋書店  注3 「九十三年」(『ヴィクトル・ユゴー文学館6』所収)辻昶訳、潮出版社 


命宝13 

 広宣流布の道は、戦いに次ぐ戦いである。熾烈な三障四魔との攻防戦である。油断し、息を抜けば、その瞬間に足をすくわれる。万人の幸福と平和のために、自身の一生成仏のために、前進の歩みを止めてはならない。 
 所領替えの内命が下った四条金吾に、さらに追い打ちがかけられた。主君の江間氏に対して、讒言がなされたのである。 
 ――鎌倉・桑ケ谷での竜象房の法座に、四条金吾らが徒党を組んで乱入して法座を乱したというのだ。 
 竜象房は天台宗の僧で、比叡山にいたが、人肉を食べたことが露見して、鎌倉に逃げ、極楽寺良観の庇護を受けていた悪僧である。 
 四条金吾が法座に乱入したなどというのは、デマであり、良観らの捏造であった。事実は、大聖人門下であった三位房が、竜象房と問答し、論破した法座に、四条金吾も立ち会っていたというだけのことであった。彼は、一切、口を出すこともなかった。 
 ところが、江間氏は、この讒言を真に受け、四条金吾に、「法華経の信仰を捨てるという起請文(誓約書)を書け。さもなくば所領を没収する」と迫ったのである。 
 所領を没収されたならば、武士としての暮らしは成り立たない。一家一族が路頭に迷うことになる。しかし、彼は屈しなかった。大樹のごとく、微動だにしなかった。たとえ所領を没収されても、信心を貫き通し、起請文など書きませんという決意の手紙を認め、身延におられる大聖人に送った。 
 大聖人門下の鎌倉の中心である四条金吾が退転すれば、皆が総崩れになってしまう。良観の狙いも、そこにあったにちがいない。 
 大聖人は、四条金吾の信心を賞讃され、すぐに返事を書かれた。 
 「一生はゆめ(夢)の上・明日をご(期)せず・いかなる乞食には・なるとも法華経にきずをつけ給うべからず」(御書一一六三ページ) 
 そして、決してへつらうことなく、これも諸天のおはからいであると確信して、強盛に信心を貫くように励まされているのである。 


語句の解説  ◎三障四魔/信心修行を阻み、成仏を妨げる三種の障り(煩悩障、業障、報障)と、四種の魔(煩悩魔、陰魔、死魔、天子魔)のことをいう。御書に「此の法門を申すには必ず魔出来すべし魔競はずは正法と知るべからず、第五の巻に云く『行解既に勤めぬれば三障四魔紛然として競い起る……』」(一〇八七ページ)とある。 


命宝14 

 弘安元年(一二七八年)は、その閏年にあたり、十月が二回あり、後の十月を「閏十月」といった。 
 日蓮大聖人は、主君の江間氏から「法華経を捨てるという起請文を書け」と迫られた四条金吾に、激励の御手紙とともに、主君に出す彼の陳状(答弁書)も代筆されて送られた。これが「頼基陳状」である。 
 窮地に陥った弟子のために、陳状までも、書いてくださった師匠の御心に、四条金吾は熱く涙したにちがいない。そして、報恩を胸に立ち上がった。 
 彼が決意の手紙を送ると、直ちに大聖人から返信が届いた。その冒頭には、「仏法は勝負」であることが述べられていた。正法を持った者は、最後は必ず勝たねばならない。そこに、仏法の正義の証明があるからだ。 
 「勝つ」とは、法の正邪を決することである。それは、文証、理証、現証によって、明らかにされる。そして、最終的には、人間の姿、生き方による勝利の証明が大事になる。 
 つまり、人格を磨き、人びとの信頼を勝ち得ることであり、崩れざる幸福境涯を築き上げていくことである。 
 江間氏は、やがて悪性の流行病にかかり、四条金吾が治療に当たった。誠心誠意、全力を尽くした。主君の病は快方に向かい、勘気(咎め)も解けたのである。 
 彼は、主君の出仕の列にも加えられるようになった。また、以前の三倍の所領を与えられる。彼の人生の海原に、勝利の太陽は燦然と昇ったのだ。 
 一方、大聖人は、建治三年(一二七七年)の年末から、体調を崩されていた。四条金吾は、懸命に治療に当たった。 
 “師匠のためには、どこであろうが訪れ、治療に当たろう。大聖人の御健康は自分が守り抜いてみせる!” 
 それが、彼の決意であったにちがいない。 
 弘安元年(一二七八年)六月の、彼の投薬によって、健康を回復された大聖人は、この年の閏十月、御手紙を認められ、「今度の命たすかり候は偏に釈迦仏の貴辺の身に入り替らせ給いて御たすけ候か」(御書一一八五ページ)と賞讃されている。 


語句の解説  ◎閏十月/太陰暦では、平年を三百五十四日(十二カ月)と定め、暦のうえの季節と実際の季節とのずれを調整するために、適宜、閏月を設けた。その場合、一年を十三カ月とした。

 
命宝15 

 四条金吾は、大聖人を慕い、求め、守り抜いた真実の弟子であった。また、人びとの苦悩を救わんと、広宣流布に生き抜いた、真正の勇者であった。 
 現代の四条金吾ともいうべき勇者たち――それが、ドクター部である。 
 そのドクター部の、第三回総会が、一九七五年(昭和五十年)九月十五日午後、初めて会長・山本伸一が出席して、学会本部で晴れやかに開催されたのである。 
 明七六年(同五十一年)は、学会として、既に「健康・青春の年」をテーマに掲げて前進することが決まっていた。それだけに、ドクター部員は、健康の守り手である自分たちが、大奮闘すべき年であるとの、新たな決意に燃えていた。 
 ドクター部総会で伸一は、まず、メンバーと共に、皆の健康と一家の繁栄、ますますの社会貢献を祈って、厳粛に勤行した。さらに、総会の席上、約三十分にわたって記念のスピーチを行ったのである。 
 伸一は、現代は「健康不安時代」と言われており、「健康維持」「健康増進」が、人びとの最大関心事となっていることを述べたあと、「医学と仏法」の関係について言及していった。 
 「『医学』は、病気の原因を客観的に認識し、治療していくのに対して、『仏法』は、病の根底にある生命そのものを把握し、そこから、病気の原因をとらえ、変革していく立場であります」 
 彼は、現代人の過度のストレスや心の病などの背後には、現代文明、現代社会の人間疎外の問題があることを指摘。生命という視座に立って、人間性と人間の主体性の回復を図っていくことの大切さを強調した。 

 そして、それには、身体的な側面だけでなく、「心身両面にわたる健康」に着目し、特に、強い心をつくりあげることが、極めて重要であると訴えたのである。「病は気から」と言われるように、心の健康なくして、真実の健康はないからだ。

 
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 山本伸一は、人間性の回復のためには、心の健康、強さが不可欠な事例として、「優しさ」を通して、論じていった。 
 「『優しさ』は、一見、柔和で温順な、静かな響きをもった言葉として、受け取られていますが、これほど、過酷な行動を要求する言葉もありません。 
 『優しさ』とは、言い換えれば、他を思いやる心でありましょう。他人の懊悩、苦しみを分かちもち、共に歩み、その苦を解決してこそ、初めて、本当の意味で、他を思いやったことになるといえます。 
 そのためには、自らの内に、確かな信念と強いエネルギーが秘められていなければならない。もし、他の不幸を見て、心情的に同情しても、ただ手をこまねいて傍観し、かかわることがないとすれば、それは『優しさ』などでは決してない。冷淡であると非難されても、否定できないことになってしまう。 
 泥まみれの実践と、あふれる正義感、エネルギーに満ちあふれた生命であってこそ、初めて『優しさ』を、現実のものとすることができるといってよい」 
 人びとを不幸にする悪と戦う、強い破邪の心なくして本当の慈悲はない。また、心が健康で、強くなければ、優しさを貫くことはできない。 
 そして、伸一は、「崇峻天皇御書」(三種財宝御書)の「蔵の財よりも身の財すぐれたり身の財より心の財第一なり、此の御文を御覧あらんよりは心の財をつませ給うべし」(御書一一七三ページ)の一節を拝した。 

 この御書は、建治三年(一二七七年)九月に、身延にいらした日蓮大聖人が、四条金吾に与えられた御手紙である。 

 当時、四条金吾は、病にかかった主君・江間氏の治療に当たるようにはなっていたが、所領の没収という問題が解決したわけではなかった。いわば、いまだ窮地に立たされていたのだ。その四条金吾に、大聖人は、人間にとって、人生の財、真実の価値とは何かを示されたのである。 


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 「崇峻天皇御書」(三種財宝御書)にある「蔵の財」とは、金銭やモノなどの財産である。また、「身の財」とは、体のことであり、肉体的な健康や、自分の身につけた技能なども、これに入ろう。 
 そして、「心の財」とは、生命の強さ、輝きであり、人間性の豊かさである。さらに、三世永遠にわたって、崩れることのない福運ともいえよう。その「心の財」は、仏道修行によって得られるのである。 
 戦後の日本は、経済発展を最優先し、「蔵の財」の獲得に力を注ぎ、利潤の追求を第一義としてきた。その結果、人間の管理化が加速され、過度のストレスなどを生むとともに、環境破壊も進み、大気や河川、海も汚染され、公害病などが蔓延するに至った。 
 そこでようやく、「蔵の財」偏重の誤りに気づき、次第に「身の財」を重要視するようになった。それが、「健康維持」や「健康増進」への強い関心となっていった。 
 巨額の富も、使えば、いつかなくなるし、災害などで、一瞬にして失ってしまうこともある。しかし、健康でさえあれば、また働いて、富を手に入れることができる。大切なのは、体であり、健康である。ゆえに、大聖人は「蔵の財」よりも「身の財」と言われたのだ。 
 だが、「身の財」である肉体も、やがて老い、病にもかかる。「身の財」も永遠ではない。また、いかに、肉体が健康でも、心が不安や恐怖、あるいは嫉妬や憎悪にさいなまれていれば、生の喜びはない。 
 「蔵の財」「身の財」も、人間にとって大事なものではあるが、それを手に入れれば、幸福になるとは限らないのだ。 
 人間の幸福のために、最も必要不可欠なものは、「心の財」である。心が満たされなければ、幸福はない。 
 「幸福であるか不幸であるかは、心で決まる」(注)とは、ガンジーの洞察である。 
 しかし、その心が軽んじられ、「蔵の財」「身の財」の追求に血眼になり、発展を遂げてきたのが、現代文明といってよい。 

引用文献  注 ガンジー著『ヒンド・スワラージ』ケンブリッジ大学出版局(英語) 

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 「蔵の財」「身の財」を、ひたすら追い求めてきた結果、先進国には、多くのモノがあふれ、医療も発達し、一面、確かに暮らしは豊かで便利になった。 
 しかし、発展途上国との間に、大きな経済格差をもたらしていった。また、豊かさ、便利さを手に入れた人びとも、結局、心が満たされることはなかった。人間の欲望には、際限がないからだ。 
 そして、医療は進歩しても、人びとの健康不安は募り、人間疎外を感じ、精神の閉塞化、無気力化が進んでいるのである。 
 それは、「心の財」「心の健康」の欠落が招いた帰結といってよい。 
 心は見えない。しかし、その心にこそ、健康の、そして、幸福のカギがある。
 心の力は無限である。たとえ、「蔵の財」や「身の財」が剥奪されたとしても、「心の財」があれば、生命は歓喜に燃え、堂々たる幸福境涯を確立することができる。 
 「心の財」は、今世限りではない。三世にわたり、永遠にわが生命を荘厳していく。それはまた、「蔵の財」「身の財」をもたらす源泉ともなる。 
 人間の本当の幸福は、蔵や身の財によって決まるのではない。心の豊かさ、強さによって決まるのだ。どんな逆境にあろうが、常に心が希望と勇気に燃え、挑戦の気概が脈打っているならば、その生命には、歓喜と躍動と充実がある。そこに幸福の実像があるのだ。 
 流罪の地・佐渡にあって、「流人なれども喜悦はかりなし」(御書一三六〇ページ)と言われた、日蓮大聖人の大境涯を知れ! 
 また、獄中にあって、「何の不安もない」「心一つで地獄にも楽しみがあります」と言い切る、牧口常三郎初代会長を思え! 
 わが生命から込み上げてくる、この勇気、希望、躍動、充実、感謝、感動、歓喜……。 
 これこそが「心の財」であり、私たちの信仰の目的も、その財を積むことにあるのだ。 
 いわば、それは幸福観の転換であり、「幸福革命」でもあるのだ。 


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 山本伸一は、情熱を込めて訴えた。 「『心の財』は、精神的な健康です。『心の財』から、生きようとする意欲が、希望と勇気が、張り合いが生まれます」
 その「心の財」は、人びとの幸福のために、さらに言えば、広宣流布のために生きることによって、築かれるのである。
 スイスの哲学者ヒルティは、「たえず新たにみなぎってくる健康な力は、大きな目的にささげた非利己的な活動から生ずる」(注)と述べている。
 「人は、この『心の財』を積んでいくなかで、生きることの尊さを知り、エゴに縛られた自分を脱し、人びとの幸福という崇高な目的のために、生き生きと活動していくことができるのであります。
 しかも、こうした精神的な健康の確立が、どれほど大きな、身体上の健康回復、健康増進の力となっていくか、計り知れないものがあります。いな、心の健康なくしては、本当の健康はない。それを、広く社会に認識させていくべきであると思うのであります」
 また、伸一は、心の健康を確立していくという医学の在り方は、単に病気を治療するという“守りの医術”ではなく、健康を保持し、増進していく“攻めの医学”の確立につながっていくと述べた。
 そして、これからは、病気をしないという消極的な意味での健康ではなく、生き生きと活動し、生命が躍動しているという、積極的な意味での健康をつくりあげていくことこそが重要であり、そこに、ドクター部の使命があると力説。最後に「『病気の医師』ではなく、『人間の医師』であっていただきたい」と呼びかけ、スピーチを結んだのである。
 大拍手が轟いた。 彼の話は、現代医学の進むべき道を示すものであった。それは、ドクター部の使命を再確認する、永遠の指針となったのである。
 後に、この九月十五日は「ドクター部の日」となり、年ごとに、同部のメンバーが新出発を期す記念日となるのである。